第八話 これからも
目を開けた瞬間、まず思った。
(……静かだ)
昨日まで、あれだけ屋敷を叩いていた雨の気配はない。
障子越しに差し込む光はやけに強くて、客間の畳を白く照らしていた。
体を起こす。
見慣れない天井の木目。
静かすぎる空気。
そして、昨夜の出来事が一気に蘇る。
(……泊まったんだよな、俺)
光崎アリスの家に泊まり、同じ屋根の下で一夜を過ごした。
心臓が、少し遅れて騒ぎ出す。
布団を畳み、襖を開けると、廊下は朝の光に満ちていた。
夜とは違い、屋敷は不思議なほど穏やかだ。
その時。
廊下に、一枚の紙が貼られているのが目に入った。
『起きたら、二階に来て』
丸い字。
短い文。
(……シンプルすぎない?)
疑問と緊張を胸に、僕は階段を上った。
*
二階に上がると、ふわりと甘い匂いが鼻をくすぐる。
(……パン?)
キッチンの方から、かすかに物音がした。
恐る恐る覗くと――
そこにいた。
エプロン姿の、光崎アリス。
銀髪は後ろで軽くまとめられ、ポニーテールになっている。
昨日のパジャマとは違う、部屋着のような服装。
これもまた破壊力が強すぎる。
「あ、小山くん」
こちらに気づくと、当たり前みたいに名前を呼ぶ。
「おはよう」
「…お、おはようございます……」
声が裏返らなかっただけ、上出来だと思いたい。
「ちょうどよかった」
トースターを指さして彼女は言う。
「昨日の晩御飯のお返し」
トースターの中では、
こんがり焼かれたパンが、じゅうっと音を立てている。
「バター砂糖パン。簡単だけど」
バツの悪そうな顔で言う。
「い、いえ……そんな、お返しだなんて……」
「だって、あんなにおいしいの作ってもらったし」
パンを皿に移しながら、彼女は続ける。
「……昨日は楽しかったね」
何気ない一言。
けれど、妙に胸に残る言い方だった。
「久しぶりに、家で誰かとちゃんと話したし」
「オタ友会も、カレーも」
そして、少し間を置いて。
「……だからさ」
彼女は、こちらを見た。
「たまにうちに来て、遊んでくれないかな?」
あまりにも自然で、
あまりにも無防備な誘い。
だが彼女の顔は赤くなっているような気がする。
戸惑いで、言葉が詰まる。
けれど、断る理由なんて、どこにもなかった。
「……光崎さんが、よければ……ぜひ」
そう答えると、
彼女は、少しだけ目を細めて笑った。
「うれしい」
バターと砂糖が染み込んだパンは、想像以上に甘かった。
「……ごちそうさまでした」
「口に合った?」
「はい。すごく」
そう答えると、光崎さんは少しだけ安心したように息を吐いた。
「それならよかった」
昨日の夜とは違って、
今の彼女は落ち着いていて、静かで――どこか“お嬢様”らしい。
食器を流しに運び、簡単に片付けを終える。
沈黙。
気まずい、というほどではない。
でも、何を話せばいいのかわからない沈黙。
「……今日は、晴れたね」
彼女が窓の外を見ながら言う。
「昨日の雨が嘘みたいです」
「泊まって正解だったでしょ」
「はい」
「…………」
即答してしまってから、少し恥ずかしくなる。
玄関で靴を履き、
大きな扉が開く。
朝の空気は澄んでいて、雲一つない快晴だった。
*
光崎邸の門を出る。
高い塀に囲まれた敷地を抜けると、
そこには高級住宅街が広がる一本道となっている。
(誰もいない。)
特別朝が早いわけではないのに道には人がいる気配が全くと言っていいほどない。
また、この学校の生徒は、おそらく彼女以外の全員が寮生活だ。
登校は、敷地内の寮から直接校舎へ向かう。
つまり――
この道を使うのは、家から通う、彼女だけ。
並んで歩く。
昨日と同じ距離。
でも、昨日とは違う空気。
「……静かだね」
「はい。この道、なんだか安心します」
「ふふ。私も」
会話はそれだけ。
無理に話さなくても、沈黙が苦しくない。
校門が見えてくる。
「僕は教材を取りに一度寮に戻ります。」
「了解、じゃあまた教室で」
それだけ言って、
彼女は校門の向こうへ歩いていった。
*
教材を取りに行くため、寮へ戻る。
廊下も、階段も、いつも通り。
昨日の出来事が嘘のようだ。
自室へ戻り教材だけ取ってすぐに校舎へ向かった。
教室に入ると、
一軍グループが集まっていた。
この学校の陽キャは朝が早いようだ。
光崎アリスは、その中心にいる。
「それでさ、数学の小テスト――」
「――うわ、それ最悪じゃん」
話しているのは、勉強やクラスのこと。
アニメの話なんて、欠片も出てこない。
彼女はと言うと、今は完全に“そっち側”の顔をしている。
(だよな。学校では、ああなんだ)
席に向かおうとした、その時。
ふいに、視線を感じた。
光崎さんが、こちらを見ている。
一瞬だけ目が合って――
そして。
明らかに不慣れな、ぎこちないウインク。
(……下手すぎる)
思わず目を逸らし、少し笑ってしまった。
胸の奥が、妙にざわついた。
――少しだけ、
本当に少しだけ、
優越感、なんてものを感じてしまった。
第八話・完
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