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巡り合わせの交差点

作者: 久遠 睦
掲載日:2025/11/04

第I部 静寂の反響


第1章 黄昏の港


金曜日の夜。田中里美は、横浜の自宅マンションのバルコニーで、一人グラスを傾けていた。眼下には、宝石を散りばめたように港の灯りが広がり、観覧車が静かに色を変えている。手にしたグラスの中では、白ワインが琥珀色の光を放っていた。都会の喧騒は心地よいBGMとなり、彼女を世界の観察者にした。参加者ではなく、ただの観察者に。

キッチンカウンターの上には、友人からの結婚式の招待状が無造作に置かれている。その白い四角が、彼女の思考を過去へと引きずり込んだ。

三十代前半まで、里美は絶え間ないプレッシャーの中にいた。親戚の集まりでは「いい人はいないのか」という言葉が挨拶代わりだった。悪意がないからこそ、その刃は鋭く心を抉った。無理に笑顔を作りながら、まるでベルトコンベアに乗せられたような息苦しさを感じていた。

それに比べて、今はどうだろう。驚くほど静かだ。先週、母と電話で話した時も、話題は父の健康と庭の家庭菜園のことばかり。彼女の結婚については、一言も触れられなかった。その沈黙は、解放であると同時に、ある種の判決のようにも感じられた。社会が、そして親でさえも、彼女を「結婚適齢期」というカテゴリーからそっと外したのだ。以前の喧騒よりも、今の静寂の方がずっと重く、彼女の現状を定義しているように思えた。それは「お一人様」という未来への、静かな同意書だった。

里美はワインを一口含み、目を閉じた。もしも、あの時。記憶の扉が、きしむ音を立てて開く。

二十八歳の頃、付き合っていたのは誠実で優しい隆だった。ある日、彼は真剣な顔で「そろそろ一緒に住む家を探さないか」と言った。その言葉を聞いた瞬間、里美の心に広がったのは喜びではなく、パニックだった。仕事がようやく軌道に乗り始めたばかり。家庭という名の鳥籠に収まることが、自分の可能性を閉ざすように思えてならなかった。彼女は優しく、しかしきっぱりとそれを断った。あの時の選択は、当時の自分にとって最善だったと今でも思う。

そして、三十二歳の時の健司。今度は里美の方が本気だった。将来を考えたい、とレストランで切り出した時の彼の困惑した顔を、今でも鮮明に思い出せる。「俺、結婚ってタイプじゃないんだ」。その一言で、彼女の希望は音もなく砕け散った。その別れが、三年続く独り身生活の始まりだった。

巡り合わせ、という言葉が頭に浮かぶ。タイミングという名のダンスパートナーと、自分は一度もステップが合ったことがない。苦々しい思いではなく、どこか哲学的な、諦めに似た感慨だった。里美は目を開け、港の夜景を見つめた。答えのない問いに悩むのは無意味だ。自分には、築き上げてきた仕事がある。守ってきたプライベートがある。それで十分じゃないか。彼女は自分にそう言い聞かせ、最後の一口を飲み干した。


第2章 望まない招待状


月曜日の朝。オフィスは明るく、活気に満ちていた。里美は、有能で信頼される社員として自分の役割をこなしている。整理されたデスク、的確な指示。年下の同僚たちとは、親しみを込めた一線を引いて接していた。

その日の午後、一通のメールがチーム内に流れた。重要な取引先との合同懇親会のお知らせだった。若い女性社員たちの間で、途端に華やいだ空気が生まれる。「どの服着ていこうかな」「先方の〇〇さん、格好いいよね」。彼女たちの弾むような会話が、里美の心に鉛のような重りを落とした。

「田中さん、もちろん参加してくれるよな」。声をかけてきたのは、悪気はないが鈍感な男性の上司だった。里美は丁寧に断ろうと試みた。「私は遠慮しておきます。若い人たちで親睦を深めた方が…」。年齢を、便利な盾にしようとした。しかし、上司はそれをあっさりと退ける。「そんなこと言うなよ。田中さんのようなベテランがいてくれると場が締まるんだ。これは業務の一環だからな」。有無を言わせぬ物言いは、それが職務命令であることを示唆していた。

承諾の返事をしながら、里美の胸中は複雑だった。嫌なのは、年齢そのものではない。そこで自分が演じなければならない役割に、うんざりしているのだ。「成熟していて、脅威のない年上の女性」。きらきらと輝く若い同僚たちの隣で、自分は見えない存在になる。まるでパーティー会場に置かれた、場を安定させるためだけの装飾的な調度品。漠然と感じていた「自分はどうしたいんだろう」という問い。その答えはまだ見つからないが、「こうありたくない」という確信だけが、今はっきりとそこにあった。


第II部 雑音の中の信号


第3章 世界の片隅の席で


懇親会の会場は、みなとみらいの洒落た居酒屋だった。焼き物の香ばしい匂い、高価な日本酒の芳香、そして無理に作った笑い声が店内に充満している。里美は、観察と最小限の交流に最適な場所として、長いテーブルの端の席を選んだ。

そこは特等席だった。社会の力学が手に取るようにわかる。二十五歳で快活な彩、二十七歳で物静かだが愛らしい美紀。彼女たちが甲斐甲斐しく男性クライアントにお酌をし、楽しそうに相槌を打っている。男性陣も、皆に礼儀を尽くしながらも、その体と会話は明らかに若い女性たちの方へと傾いていた。

里美の心によぎるのは、苦々しさではなく、冷めた分析だった。「昔から変わらない脚本ね」。彼女は、その光景を深い諦念と共に受け入れていた。「そんなものだなぁ」と。手元の梅酒ソーダをちびちびと飲みながら、テーブルの向こう側が、まるで違う惑星のように遠く感じられた。


第4章 演技ではない会話


人々が席を移動し、里美の隣がふと空いた。そこに、一人の男性が腰を下ろした。健太と名乗った彼は、取引先のマーケティング部に所属しているという。里美は一瞬身構え、丁寧だが距離を置いた「仕事用の顔」を準備した。

しかし、健太の第一声は予想外のものだった。彼は里美のほとんど減っていないグラスに目をやり、屈託のない笑顔で言った。「あまり飲まない方ですか?それとも、うちの部長の長い話から逃げてる?」。その言葉は直接的で、観察力があり、里美の警戒心をふわりと解いた。彼は三十四歳で、里美より二つ年下だったが、その態度は落ち着いていて、自信に満ちていた。

会話は、驚くほど自然に流れた。彼は里美の仕事について尋ねたが、それは「どんなお仕事を?」というありきたりのものではなかった。会議での彼女の発言を覚えていて、具体的なプロジェクトについて的確な質問を投げかけてくる。彼は趣味である写真の話をした。観光客が行かないような横浜の裏道を撮り歩くのが好きなのだという。そして、里美に市内で好きな場所を尋ねた。会話は、 flirtatious なやり取りではなく、純粋な好奇心と共通の興味に基づいていた。今夜初めて、里美は「三十六歳の女性社員」という記号ではなく、一人の人間として見られていると感じた。


第5章 静かな介入


里美がその心地よい会話に身を委ね始めた、その時だった。チームで最も華やかな彩が、健太のすぐ隣に現れた。「鈴木さん、こんなところにいたんですね!今、新しいプロジェクトの話で盛り上がってたんですよ」。彼女は里美を意図的に無視し、そのエネルギーの全てを健太に向けた。

里美の身体は、条件反射で動いた。すっと背もたれに体を預け、自嘲的な微笑を浮かべ、その場を譲る準備をする。それは、自分はもはやこの種の注目の中心にはなれないという信念の、物理的な現れだった。長年の経験から身につけた自己防衛のメカニズムだ。

だが、健太は予期せぬ行動に出た。彼は彩ににこやかに頷き、彼女の質問に手短に答えると、見事な手際で里美の方へと向き直った。「彩さん、それは興味深いですね。でも、すみません。今、田中さんから関内でおすすめのジャズバーを教えてもらうところだったので。結末を聞かないわけにはいかないんです」。彼は彩を無下に扱うことなく、しかし明確に里美との会話を優先させた。彼の関心がどこにあるかを、その場の誰にでもわかる形で示したのだ。

この小さな行動は、里美にとって巨大な意味を持った。それは、彼女が受け入れてきた社会の脚本を、真っ向から否定するものだった。宴会がお開きの雰囲気になる頃、健太はスマートフォンを取り出した。「この話の続き、ぜひまたしたいです。よかったら、連絡先を交換しませんか?」。まだ少し呆然としながら、里美は頷いた。皆が二次会へと流れていく中、彼女はその流れに乗らず、挨拶をしてその場を辞した。今夜の完璧で、予想外だった瞬間を、そのまま大切に持ち帰りたかったからだ。駅へと向かう夜道で、彼女は何年もの間忘れていた感覚—可能性という名の、微かな胸の高鳴り—を感じていた。


第III部 慎重な芽生え


第6章 三行のメッセージ


翌日の土曜日。里美は自宅でいつもの週末を過ごそうとしていたが、心は落ち着かなかった。健太との会話が、頭の中で何度も再生される。期待したい気持ちと、どうせ無駄だと囁く冷めた声がせめぎ合っていた。

その時、スマートフォンの短い振動が静寂を破った。健太からのメッセージだった。「鈴木です。昨日はありがとうございました。とても楽しかったです。もしよろしければ、今度二人で飲みませんか?」。簡潔で、まっすぐな文章だった。

里美は画面を凝視したまま、動けなくなった。親指が、キーボードの上を彷徨う。 断る理由は、いくらでもあった。過去の傷が警鐘を鳴らす。「ただの社交辞令よ。彼は年下だし、すぐに飽きるに決まってる。もう傷つくのはごめんだわ」。隆とのすれ違い、健司との決定的な断絶。積み重なった失望が、彼女を行動できなくさせていた。

だが、彼女の脳裏には、彼が自分を見て話していた時の真剣な眼差しが焼き付いていた。若い同僚の割り込みから、自分を守るように会話を引き戻してくれた、あの瞬間。あれは本物だったのではないか。心の奥で、小さな声が問いかける。「これが、あなたがずっと待っていた『巡り合わせ』だとしたら?」。

長い葛藤の末、彼女は慎重に言葉を選び、承諾の返信を打ち込んだ。「送信」ボタンを押す指が、わずかに震えた。それは、小さな信仰の跳躍だった。


第7章 二人のためのテーブル


彼らが会ったのは、健太が提案した、横浜の喧騒から少し離れた場所にある静かなワインバーだった。温かみのある照明と落ち着いた雰囲気は、騒がしい居酒屋とは対照的に、深い会話を促すようだった。

パーティーの時よりも、さらに会話は弾んだ。一時間以上、他愛のないことから仕事の深い話まで、途切れることなく言葉を交わした。しかし、里美の心にはずっと一つの疑問が重くのしかかっていた。彼女は勇気を振り絞り、静かだが、芯の通った声で尋ねた。「鈴木さん…健太さん。一つ、聞いてもいいですか?あの懇親会で…もっと若くて可愛い子たちがたくさんいたのに、どうして私に声を?どうして、私を誘ってくれたんですか?」。それは、拒絶されるリスクを冒してでも、真実を求める彼女の覚悟の表れだった。


第8章 私たちが抱える傷跡


健太は、その質問に驚いた様子を見せなかった。彼はワイングラスを置き、真摯な目で里美を見つめた。そして、前の恋愛について静かに語り始めた。相手は、七歳年下の女性だったという。彼は、常に彼女のペースに合わせようと背伸びし、本当の自分ではない誰かを演じているような感覚だったと話した。絶え間ない不安と、感情的な浮き沈み。そして最後には、彼女が何か月も浮気をしていたことが発覚した。

その経験は、辛いものであると同時に、彼にとって物事を明確にするきっかけになったと続けた。自分がいかに未熟で、演技じみた恋愛に疲弊していたかを思い知らされたのだ。

そして彼は、まっすぐに里美の目を見て言った。「でも、里美さんと話している時は、そういうのが一切なかった。ただ…楽で、落ち着けたんです。偽りのない、本当の自分でいられる気がした。僕にとって、それは他のどんなことよりも魅力的なんです」。彼の答えは、若さの否定ではなく、成熟と安定、そして誠実さへの肯定だった。それは、里美が自分自身の中に持つと信じている資質そのものだった。彼女にとって、それはこれ以上ないほどの、魂の肯定のように響いた。彼の過去の傷が、巡り巡って自分という人間を肯定してくれる。その事実に、里美は静かな感動を覚えていた。


第IV部 共有する水平線


第9章 新しいリズム


それからの数か月、二人の関係は確かなものへと育っていった。その変化は、一連の短い、しかし心に残る情景によって彩られていた。

深夜に交わされるメッセージは、もはや次の約束を取り付けるためのものではなかった。その日あった些細な出来事、見つけた面白いもの、感じたこと。互いの日常の断片を共有する、温かいコミュニケーションに変わっていた。

仕事帰りに、気取らないラーメン屋で並んで座ることもあった。時折触れ合う肩の温かさ。会話が途切れても、その沈黙は心地よかった。

ある週末には、山下公園を散歩した。健太は愛用のカメラで、笑っている里美の自然な表情を何枚も撮った。最初こそ気恥ずかしかったが、彼のレンズを通して見られる自分は、悪くないと思えた。ありのままの自分を、彼が受け入れてくれていると感じた。

こうした時間の中で、里美の健太に対する感情は、慎重な興味から、深く、本物の愛情へと変わっていった。彼女の心の鎧は、一枚、また一枚と剥がれ落ちていった。頭の中で響いていた冷笑的な声は静まり、穏やかな喜びに満たされていった。


第10章 明日についての問い


彼への愛が確信に変わるにつれて、未来というものが現実的な重みを持って里美に迫ってきた。彼女は三十六歳。健司との時のように、ゴールの違う関係に何年も費やす時間はもうない。結婚について尋ねることへの恐怖が、彼女の心を締め付けた。もし、彼を怖がらせてしまったら?もし、またタイミングがずれていたら?

その問いを口にするリスクと、知らないままでいるリスク。里美は天秤にかけた。そして、この年齢になった今、明確であることは自分自身への優しさなのだと気づいた。真のパートナーシップとは、人生の目標について率直に話し合える関係のことではないか。彼女がその質問をすることを決意したのは、最後通牒としてではなく、自分自身と、二人の関係に対する深い敬意の表れだった。


第11章 二つの線の合致


その夜、二人は初めて里美の部屋で、一緒に夕食を作っていた。親密で、家庭的な空気。食事が終わり、お茶を飲みながら、里美は深く息を吸い込んだ。そして、慎重に言葉を選びながら、切り出した。

「焦らせるつもりは全くないんだけど…。私も、自分の将来について真剣に考えていて。もし、私たちがお互いに良いなって思いながら真剣に付き合っていくとしたら、その先に結婚も考えてる?」。

健太は、静かに彼女の言葉を聞いていた。その目に、焦りやためらいの色はなかった。彼はテーブル越しに手を伸ばし、里美の手をそっと握った。そして、穏やかに言った。「前の恋愛で、価値観や目標を共有することがどれだけ大事か、よくわかったんだ。もし、二人でいて幸せで、これが正しい道だって思えたら…。うん。俺も、結婚したいと思ってる」。

そこにあったのは、劇的なプロポーズではなかった。しかし、それは二人の意思とタイミングが、静かに、そして力強く合致した瞬間だった。ここから、二人の真剣な交際が始まるのだ。

里美は、健太の温かい手に自分の手を重ねた。窓の外には、横浜の港の灯りがきらめいている。それは第一章で見たのと同じ景色のはずなのに、もはや孤独の象徴ではなかった。共有する未来を照らす、希望の光に見えた。それはドラマチックな「ハッピーエンド」ではなく、地に足の着いた、そして彼女がようやく手に入れた、希望に満ちた始まりだった。


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