93.これから毎日(2)
前回の話
イスラはモーリスの実家に火を放ち、彼女を絶望させた。
例えば、目の前に大型の野犬が複数現れて襲われた時に、生身の人間はひとたまりもない。
しかし、そういった場合でも鎧を身に纏えば大きな怪我をせずに生還できる可能性は十分にある。
そういった意味で人間は自らに降りかかるダメージを最低限にするために、知恵を活用して自らの身を守って来た。
だが、それでも守れないものがある。
「モーリスさん、落ち着いたかしら?」
「……………………」
モーリスは故郷で巻き起こった出来事を受け止めきれずに、村長宅の一室で抜け殻のように座っていた。
先ほどまでは止めどなく涙があふれていたその目は、赤く腫れてはいるものの、今は焦点の合わないような視線をぼんやりと何もない空中に向けている。
普段のモーリスは快活な少女なのだが、その面影は全く見られない。
それだけ心に傷を負っている。
(例え鎧を纏おうと、心の弱さは守れないのだ)
そしてその心の弱さを利用して旨い汁を吸うのが俺のような人間である。
俺はモーリスに優しく語りかけた。
「妹さんの言う通り、あなたは何も悪くないわ。あまり自分を責めないで」
「……………………」
「ご実家の再建は私がお金を出してあげるから安心して。それと共用部の水汲み場もね」
「……………………」
「こんな酷いことをした犯人は必ず見つけ出して、しかるべき報いを受けさせる。だからモーリスさん、あなたは何も心配しないで」
「……………………」
モーリスは相変わらず周囲の言葉には無反応ではあるが、俺の声かけを聞いて、少しだけ目線をこちらに向けてくれた。
非情な現実に心を閉ざそうとしても、それでも誰かの優しさに縋りたくなるのは自然なことだ。
「……イスラ様、私は、どうすればいいんでしょうか?」
俺の言葉に対する回答ではなかったものの、モーリスは小さく呟いた。
それは彼女の最も本質的な疑問なのだろう。
それを導いてやるために、俺はここにいる。
「モーリスさんは、どうしたいの?」
「私は……誰も不幸になってほしくない……」
「モーリスさんは優しいのね」
月並みな感想ではあるが、これは嘘ではなく俺の本心だ。
平民の中には自分の貧しい境遇を嘆いて、非行に走っても堂々と開き直る者すらいるというのに、彼女の精神はとても高潔であり、手放しで優しいと言い切れるものだ。
「私はただ、みんなが幸せになれたらいいなと思っているだけなのに、どうしてこうなっちゃたんだろう……」
「世の中みんながモーリスさんのように優しくはないの。誰かが幸せになることが許せない人や、自分さえ良ければいいという人も、残念ながらたくさんいるの」
「じゃあ、私はどうするのが一番良いんでしょうか?」
やり取りを繰り返すうちに、段々とモーリスの言葉には感情が戻りつつあった。
彼女の口からは戸惑いや葛藤が伝わってくる。
そして、結局は自分がどうすべきかを決めかねている。
まるで誰かに正解を求めるように。
「モーリスさん、あなたは確か友人に誘われてこの選考に参加しているのよね?」
「はい。そうです」
「じゃあ、モーリスさんは王妃になりたいわけではないの?」
「それは……」
モーリスは王妃になりたいかという質問には明確に答えを出せていない様子で悩み始めた。
この質問は初めてではあるが、どう見てもモーリスが王妃の座を狙っているようには見えない。
それは他の誰でもない、モーリス自身も感じていることだろう。
そろそろ彼女の望む“答え”を与えてやることにしよう。
「もし、モーリスさんが本気で王妃になりたいと思っていないのなら、選考を辞退した方がいいと私は思う」
「……」
「もしあなたが本当に王妃になったら、きっと貴族連中からこれ以上の嫌がらせをたくさん受けることになる。貴族の人たちは狡猾で、無実の人間に罪をかぶせることや、家族の誘拐、挙句の果てには殺人すら手を染める者もいるの。あなたにはそんな連中を相手にする覚悟はある?」
「そんな酷いことを……!?」
モーリスが貴族の社会を恐れるように貴族の悪逆非道ぶりを説明しようとしたら、無意識に自分の悪行を並べてしまった。
結果的にモーリスはドン引きしているので目的は果たせたが、暗に自分を否定された気がして、ほんの少し複雑な気持ちだ。
「モーリスさん、改めて問うわ。あなたは、王妃になりたい?」
俺は改めてモーリスの目を真っすぐ見つめて問いかけた。
しばしの静寂が流れる。
モーリスは落ち着きなく視線を動かして俺と目を合わせなかった。
それは彼女の覚悟のなさを如実に表していた。
それでも最後には俯きがちに自分の選択を口にした。
「私は、王妃様になることはできないと思います」
それは俺の期待通りの解答だった。
多少時間はかかったものの、賢明な判断を下したモーリスを称えてやることにしよう。
「ちゃんと考えて決断できたみたいね。それならばあなたがこれから進むべき道も見えてくるんじゃないかしら?」
「はい。……決めました。私、王都での生活はやめて、やっぱりこの村で生きていくことにします」
「そう。あなたの決めた道ならば、私はそれを応援するわ」
「はい! ありがとうございます!」
迷いを捨てたモーリスは久しぶりに笑顔を見せてくれた。
きっと彼女は自分の意志で決めたと思っているだろうが、それは俺が思い描いたシナリオで決まっていたことだとは夢にも思わないだろう。
彼女の敗因は想像力の欠如であるとも言える。
自分の想像よりも遥かに邪悪な人間が存在して、その悪意が自らに向けられることについて一切の備えをしていなかった。
だからこそ有事の際に有効な対応が取れない。
(お前はそのまま何も知らずにこの村で生きていけばいい)
しかし、無知であり続けることは決して悪いことではない。
きっとモーリスはこの村の中でならば幸せに生きていくことができる。
「そうと決めたら行かなきゃいけないですね!」
「どこに?」
「家族のところです」
ここまで来たらもう俺のやることはない。
ただ、せめて最後までモーリスのことを見届けてやろう。
村長の家には他に誰もおらず、俺たちはモーリスの家族を探した。
狭い村なので、十数分ほど歩いたらすぐに見つかった。
「お父さん、お母さん。それと村長さん」
モーリスの両親と村長は破壊された水汲み場におり、何かを話していた。
三人はモーリスの姿を見ると慌てた様子で手に持っていた何かを隠した。
村長がモーリスにたどたどしく話かけた。
「やあ、モーリス。もう大丈夫なのかい?」
「うん。イスラ様のおかげで自分のやるべきことが分かったの。それより、三人で何を話していたの?」
「お前さんは知らなくていいことだよ」
村長はどうしてもそれを隠したいようだが、あまりに不自然過ぎる。
そんな大根役者ぶりでは平常心に戻ったモーリスを誤魔化すことなどできない。
「お願い。教えて」
「……そこまで言うのなら仕方あるまい。しかし、気を落とすなよ」
村長はモーリスの様子がいつも通りに戻っているのを確認すると、仕方ないといった顔で手に持っていた紙をモーリスに見せた。
その紙には大きな文字でこう書いてあった。
『村を裏切り、王都で貴族相手に股を開いて贅沢三昧をしている淫売女を許すな』
その文字列は的確にモーリスを傷つけるために俺が自ら考えたもので、水汲み場の破壊と同時にこの紙を張り出すことを実行犯に依頼していた。
この張り紙の内容は事実無根であるが、村人どもにはその真偽は分かるまい。
猜疑心は不和を生み、不和は憎しみの火種となる。
これはモーリスを孤立させるための策だったが、結果的には必要のないものであった。
気まずそうな顔の村長を尻目に、モーリスはその紙を黙って破り捨てた。
「村長さん。私、もう王都での生活はやめてこっちに帰ろうと思うの」
「いいのかい? せっかくもう少しで王妃様になれそうだと言っていたのに」
「いいの。私にとって何が大切なのかが分かったから」
朝の陽ざしの中で自らの選択を宣言するモーリスの姿はキラキラと輝いて見えた。
こいつがもし最後まで選考を受けることを諦めなかったとしたら、俺は間違いなくこいつに負けていた。
しかし卑劣な手段を用いたとしても勝ったのは俺だ。
俺は俺の選んだ道を進むだけだ。
次回投稿日:6月13日(木)頃
続きが気になる方は是非ブックマークしてお待ちください。
高評価、いいね、感想をいただけたら励みになります。




