知りたくなんて、なかった
……ここは、どこだろう。目が開かない。身体も動かない。
……私、死んでしまったのかしら……でも、なんだか右手が妙に温かい。
身体全体も、ふかふかしたものの上にいるような……
「……リーフィア、すまない……」
右側から、声がする。大好きな人の、ゼノン様の声だ。
どうして私に謝罪されているのだろう……苦しさが伝わってくる声音を、慰めたいのに、肝心の声は出ない。
それでも、ゼノン様の存在によって私は確信する。
私はちゃんと生きているのだと。
……良かった。本当に、良かった。
おそらく今、私はベッドの上に寝かされ、意識だけが覚醒した状態なのだろう。右手はゼノン様が握ってくださっているから温かいのかな? こんな事態でなければ喜べるのに。
一刻も早く起きてゼノン様を安心させたくて、なんとか身体を動かそうとしてみるものの、上手くいかない。
目蓋すら開かない事実に落胆し、私は大人しく回復するのを待つことにした。
意識はハッキリしているので、改めて状況を整理する。
といっても、手がかりはそう多くはない。
結論としては、夜会の直前に見慣れぬ侍女から毒を盛られた。
最後に聞こえた侍女の声から、事故の線はなく、誰か作為的に私を狙ったのは確実だ。
では、いったい誰が、何のために?
可能性としてもっとも高いのは、私が王太子妃になることを阻止するためだろう。王家か、クライン家に恨みを持つ者、もしくは私以外の王太子妃候補を擁立していた派閥……私個人に対する恨みの線も完全には捨てきれない。
これでも自分では自衛出来ているつもりになっていた。
だけど、甘かった。自覚が足りなかった。
今日の夜会は特別なものだったのに、私のせいで台無しになってしまった。
どうしよう。これでもし婚約解消になってしまったら。王家の顔に泥を塗ってしまったのだから、十分にあり得ることだ。
ああ、それだけは嫌。この幸福を、手放したくない……!
ぐるぐると回る思考は気落ちしていることもあって最悪な方へと傾いていく。
と、そこへ唐突に部屋をノックする音がした。
すると衣擦れの音とともに右手から熱が離れるのを感じる。次いで、扉が開く音。
「……入れ」
ゼノン様の硬く沈んだ声。それを受けて足音が二つ、部屋に入ってきたのが分かった。
「ゼノン殿下、妹の容態は?」
扉が閉まると同時に聞こえたのはお兄様の低い声。
普段の明るさは一切なく、それだけで事の重大さが否応にも伝わってくる。
「今は眠っているが、処置も早かったし命に別状はない。だが使われたのが速効性の高い麻痺毒だったらしく、朝までは目覚めないだろうと」
「その見立ては信頼出来るのですか?」
「王宮の筆頭侍医を信じるのであれば」
「…………分かりました。信じます」
言葉とともに、頭を誰かに撫でられる感触。おそらくお兄様の手だろう。私の不始末でこんなことになってしまい、本当に申し訳ない。後できちんと謝らないと――……
「それで、犯人はどうなったの? まさか取り逃がしたりはしてないわよね?」
その声に、私は心の底から驚いた。
てっきりもうひとつの足音は父か母のものだと思っていた。
しかし、耳に心地よく響く凛としたこの声は、アルマダ侯爵家のご令嬢であるメイベル様のものだった。反射的に目を開けようとするが、やはりまだ身体は動かせず、徒労に終わる。
困惑する私に気づく人はもちろん居らず、そのまま会話は続いた。
「勿論、捕縛して今は地下牢で事情聴取を続けている……が、おそらくは本命ではない。だからこそ、我々にとってもハリスにとっても予想外の事態になったわけだが」
ゼノン様の言葉にハリス――ハリス公爵家の名前が入ってきたことで、私はより混乱する。
「それでも、リーフィアと侍女を二人きりにしたことは明らかにそちらの落ち度だろう。俺も両親も、ゼノン殿下の差配を信じてリーフィアを預けたが、今の状況からは後悔しかありません」
「……クライン家の方々の憤りは当然のことだと思うわ。でも、ゼノンだって最善を尽くしていた。それは貴方も知るところでしょう、アルフォンソ」
――ゼノン、と。
メイベル様がさも当然のように殿下を呼び捨てにしたことに衝撃を受ける。
お茶会の時には、そんな素振りは一切見せなかったのに。
二人はそんなにも親しい仲なの? それならどうして隠していたの? どうして?
「ああ、分かっているさ。そうでなければ、たとえ殿下相手でも顔に一発くらいは入れてただろうし」
「いや、むしろ殴ってくれて構わない。今回の件、謝って済む話ではないからな」
「……嫌ですよ。そんなことしたら俺がリーフィアに嫌われます」
やや自嘲気味なお兄様の声を聞きながらも、私はゼノン様とメイベル様の関係が気になって仕方がない。なのに今すぐに起きて問い正すことも、耳を塞ぎその場から立ち去ることも出来ないのだ。
一方的に聞かされ続ける会話に、私は段々と恐怖心を抱き始めていた。
このまま聞いていたら、取り返しがつかなくなるのではないか。そんな予感がしたのだ。
そしてその予感は、まもなく的中する。
「…………ねぇ、今からでも遅くはないわ。リーフィア様に事情をご説明するべきよ。今回のことだって、最初から私が婚約者になっていれば、彼女に被害はなかったのだから」
瞬間、息が止まった気がした。え、どういうこと? 婚約者は、私でしょう? どうして、メイベル様が婚約者になるの? 最初からってなに?
「だが、それだとメイベル嬢の身が危なくなるだろう? それは構わないのか?」
「あら? アルフォンソが心配してくれるなんて珍しいわね。……まぁ、恐ろしくないとは言わないけど、これでも宰相の娘だし、リーフィア様よりも心構えは出来ていると思うわ。幸か不幸か、今日のお披露目は中止になったわけだし、理由を付けて婚約者の交代を行うなら、これが最後の機会でしょう」
「……ゼノン殿下は、どうお考えですか? 俺としては、これ以上妹に危険な目に遭って欲しくないですし、メイベル嬢を殿下の婚約者として発表すること自体は……正直、魅力的な提案ですけど」
お兄様の言葉に愕然とする。どうして、ねぇ、どうして!? だってほんの少し前に、私におめでとうって言ってくれてたじゃない! 幸せになれって! なのにどうしてこんなひどいことを言うの!?
頭が痛い。叫びたいのに、どうして声が出ないの。もうやだ。
聞きたくない。聞いてはいけない。ねぇ、お願いよ! これ以上、私に聞かせないで――
「悪いけど、メイベルの提案は受けられない」
ゼノン様が、そう言った。私は心の中で涙した。
ああ、やっぱり、ゼノン様も私を。私だけを婚約者にと望んでくださっている。
よかった、嬉しい、ああ、早く目を開けて、声を出して、ゼノン様に謝らなきゃ――
「本当に、それでいいの? 私自身、リーフィア様を騙しているようで心苦しいわ……」
「……分かってる。これは私の我儘だよ。どんなに言葉を繕っても、リーフィアを婚約者として囮にしていることには変わりない」
――――――あれ? おとり、って。……なんのこと、だっけ?
「……リーフィアには申し訳ないけど、このまま騙され続けて貰わなければならない。彼女は何も知らないままでいい。むしろ気づかれると面倒なことになる」
――――――――――めんどう。そうか、面倒なの、私は。殿下にとって。
「…………分かったわ。もうこれ以上は何も言わない。だから絶対に成功させましょう。リーフィア様に気づかれないように」
「ああ、メイベルも引き続き協力を頼む。アルフォンソ、すまないな」
「……いえ、国に忠誠を誓う者として、我が家門も覚悟の上です。リーフィアも分かってくれるでしょう」
―――――――――――――――ええ、お兄様。分かったわ。私に望まれていることが。
「ありがとう、二人とも。一刻も早くハリスの尻尾を掴んで、こんなことは終わらせてみせるから」
そんな殿下の決意の言葉を聞きながら。
私は、自分の心がゆっくりと死んでいくのを、ただただ、暗闇の中で見つめていた。




