会談(2)
「――――ゼノン王太子殿下」
私はまっすぐに殿下へと視線を向ける。
彼もまた、私の言葉を正面から受け止めるように、立ち上がった。
「改めて申し上げます。私との婚約を解消してください」
すると、殿下は特に狼狽えることもなく。
やがて神秘的で吸い込まれそうなオニキスの瞳を細めて、どこか寂しそうに笑った。
「…………もう、君は本当に私のことを愛していないのだな……」
想像よりもずっと、穏やかで優しい声音だった。
あの冬の庭園で絞り出された悲痛さを思えば信じがたいほどに。
私は一瞬だけ動揺したが、決して殿下のその言葉を否定しなかった。
それで何か納得したように肩の力を抜くと、
「……分かった。婚約は解消しよう」
殿下は良く通る声でそう口にした。
自分からお願いをしていながら、こうもあっさりと承諾を得られるとは思っていなかった私は、意表を突かれた鳥のように固まってしまう。
そんな私を置き去りにして、殿下は速やかに陛下の方へと視線を動かすと、軽く頭を下げた。
「陛下、私はリーフィア・クライン嬢との婚約解消を望みます」
陛下は息子である殿下に対して、どこか労わるような視線を返す。
しかしすぐに気配を引き締めると凛然とした表情を浮かべて大きく頷いた。
「――――よかろう。双方の合意のもと、王太子ゼノンとリーフィア・クライン侯爵令嬢との婚約は解消とする。後ほど正式に手続きを行なうので、両名は会談後に別室にて待機とする」
「っ……承知いたしました」
我に返った私が頭を下げると、父も即座に立ち上がって同じように深々と謝意を露わにした。
陛下は「二人とも顔を上げよ」と私たちを促し、さらに言葉を重ねた。
「この度の婚約解消はあくまでも双方合意による円満なものである。――意味は言わずとも理解出来るな?」
つまりは、以前メイベル様に聞かされた想定の通りということだろう。
今回の一連の騒動は公に一つを裁けば、連鎖的に他の事象の裁定へと波及する。
そうなればどの陣営にとっても少なくない傷を負うことが必定だった。
だからこそ、すべてを不問とすることで事態を表沙汰にせず終息させる、と。
陛下のご判断は合理的なものと言えた。
私と父は揃って「御意」と返答する。
勿論、既に広まった噂などは完全になかったことには出来ないため、クライン侯爵家は耳の早い他の貴族や高官からは当面、風当たりが強くなることだろう。
それでも公な制裁が回避されたのだから、これ以上は望むべくもなかった。
「……レオンハルト王弟殿下も、それでよろしいか?」
「勿論、異存などありません。感謝いたします、トランスファー王……」
レオンさんが真摯な態度で顎を引けば、それで場の空気が一気に緊張から解き放たれた。
全員がそれを肌で感じる中、陛下が視線を何故かメイベル様へと向けた。
すると彼女は心得たと言わんばかりに美しい所作で立ち上がり、にこやかに宣言する。
「これにて本会談は双方の和解をもって円満終了といたします。エイセズ王国の方々は案内の者が参りますので、しばしお待ちくださいませ。――陛下、ゼノン殿下、クライン侯爵、クライン侯爵令嬢は別室に移動をお願いいたしますわ」
こうして会談は終了し、私たちは別室へと移動する運びとなった。
途中、部屋を出る前に私は再度レオンさんへと視線を向ける。
すると彼はそんな私の行動を見透かしたように、トパーズの瞳を猫のように細めていた。
さらに彼は声には出さず、口だけを動かして何かを伝えようとしてくる。
――また、あとで。
その蕩けるような笑みに魅入られそうになるのを何とか立て直し、私はこくんと頷く。
隣の父が何とも言えないような表情をしているのに気づかないふりをしながら、今度こそ別室へと足を向けた。
別室へと通された後も、進行は非常にスムーズだった。
まるで最初からすべて用意されていたかのように――……そう思った瞬間に、私はようやく気付いた。
これは本当に最初から、すべて手筈が整っていたのだと。
予め準備されていた必要書類に陛下と父がそれぞれサインし、続けて殿下と私もペンを手に取る。
文面には我がクライン侯爵家に対するお咎めなどは本当に一切なく、双方に瑕疵がない形での婚約解消が強調されたものとなっていた。
それを確認しながら、私の胸は握り潰されたようにぎゅっと痛んだ。
思わず向かい側に座す殿下の顔をそっと窺う。
あの日、あんなにも私との婚約解消を拒否していた殿下。
それなのに婚約解消が現実になった今、私への制裁どころか、考え得る限りで最も穏便な手段を取ってくださった。
……やがて、すべての手続きが終わり。私たちの婚約は書類上も円満に解消された。
陛下と父は早々に退席され、場には私と殿下、そして立会人でもあるメイベル様だけが残される。
殿下も先の二人に倣うように席を立ち、扉の方へと向かおうとする。
しかし途中で足を止めると、おもむろに私へと顔を向けた。
「リー、…………クライン侯爵令嬢」
「はい、殿下」
席から立ち上がった私に、殿下は優しく微笑んだ――その両目に、涙を流しながら。
「――僕は、本当に君を愛していた……今も、きっとこの先も。いつまでも君を愛し続けるだろう……だから、こんな僕から逃げて……どうか幸せになってくれ……」
私は、つかのま言葉を失った。
代わりに瞳からは止めどなく涙が溢れてくる。
それは、ここまで想ってくれている相手を選べないことへの罪悪感からくるものなのか。
それとも、手放してくれたことへの安堵と感謝の涙なのか。
きっと、そのどちらもあるだろう。
今はぐちゃぐちゃになった感情が、雫となって零れ落ちていく。
――けれど、言うべきことだけは、はっきりと分かっていたから。
私は必死に息を整え、涙を乱暴に拭うと殿下に向かって叫ぶように想いをぶつけた。
「……っ……さよう、なら…………っ」
「――ああ、さようなら」
殿下はそれを噛みしめるように受け止めると、同じ言葉を返して、そのまま静かに部屋を出て行った。
そこで糸が切れたように次第に呼吸することもままならなくなった私は、しゃくりあげるままに泣き崩れた。
慌てたように駆け寄ってきたメイベル様に抱きしめられて背中を摩られるけれど、どうしても止めることが出来ない。
したこと、されたこと。
嬉しかったこと、悲しかったこと。
幸せだったこと、辛かったこと。
様々な記憶が駆け巡る中で、ひとつだけ。
これだけは絶対に忘れないでいようと思った。
――――――――私は、ゼノン様を好きになって、良かった。
そう思えたことが、何よりの救いだった。




