もう届かない(ゼノン殿下視点)
去っていく彼女の背中に嘆願の声を上げ、血に塗れた手を必死で伸ばす。
しかし彼女はこちらを一瞥することもなく凛とした所作のまま庭園を静かに出て行った。
残されたのは足元から崩れ落ち、情けない顔を晒した僕と、近衛騎士の二人だけ。
彼らは腫物のようになった僕の両側に跪き、どう対応すべきか神経をすり減らし続けている。
もしくは、あまりにも滑稽な僕を憐れんでいるのかもしれない。
どちらにしても、未来の為政者としては在ってはならない醜態だ。
それでも、僕は涙を止めることも出来ず、顔すらまともに上げられなかった。
本当は、あの時。
あの部屋で君があの男に「信じてくださいますか」と訊いた瞬間。
直感していたんだ。
君の心が既に、僕のもとから離れてしまっていたということを。
取り戻せると、やり直せると思っていた。だって誤解だったから。
運命のいたずらで、すれ違ってしまっただけだったから。
最初からずっと僕は君を愛していたし、君も僕を慕ってくれていた。
僕たちはこれから長い時間を掛けて連れ添い、国を統治しながら一生を終えるはずだったんだ。
すれ違いのきっかけを作ったのは確かに僕だ。
僕が君の意思に反して真実を告げずにいたから、君は僕の愛を疑った。
けれど、たったそれだけのことで、君を永遠に失うだなんて。
これまでの人生で思い通りにならないことなんてなかった。
それなのに、一番失いたくないものだけが、僕の手の中から零れ落ちていくなんて。
「……殿下、お身体に障ります。せめてお部屋に戻って、傷の手当てを」
僕が重用する近衛騎士が、意を決したように話しかけてくる。
確かにここにいても何も変わらない。もうリーフィアは去っていってしまった。
永久に僕のものにはならないと宣言をして。
僕は顔を上げる。ふと目線を横に向ければ、そこには咲き誇る紫の花々があった。
名前は分からないが、どことなくリーフィアを思わせる色をしている。たったそれだけのことで、彼女の存在を強く感じてしまう自分は、この先、まともに別の人間を愛することが出来るのだろうか。
僕は無言で立ち上がると、王宮の自室へと戻る道を進み出した。追従する騎士たちから安堵のため息がわずかに漏れ聞こえてきて、思わず苦笑してしまう。
リーフィアは陛下やクライン侯爵の判断に身を委ねると言っていた。
であれば、父である陛下を説き伏せれば、心は手に入らないまでも、リーフィア・クラインをそのまま我が妃に留め置くことは出来るかもしれない。
はたして、それに意味があるのかは分からないけれど。
だって僕は、リーフィアの笑顔が好きだったのだから。
初めて見た日の、あの邪気のない笑顔。
他の令嬢のような打算に塗り固められたものではない、ただただ純粋で、清らかな心が。
僕が本当に欲しかったのは、リーフィアの器ではない。その中身。
一度は手中に収めたはずのもの。愛し、愛され。信頼し、信頼される。そんな関係。
それでも心のどこかで、真っ黒な自分が囁くのが分かる。
まだやり直せるのではないか。
妃として縛り続ければいつかは僕を再び好きになってくれるのではないか。
いや、いっそ憎み続けてくれれば、彼女の感情を僕という存在で満たすことが出来るのではないか。
閑散とした庭園を抜け、王宮へと続く長い外廊下の石畳を踏む。
早ければ数日中にもリーフィアとクライン侯爵は父に謁見し、婚約解消を正式に申し出るだろう。
父を説得するのであれば、今をおいて他はない。
「……ゼノン殿下?」
歩みを止めた僕を不審に思った近衛騎士が伺いを立てる。
あの日、僕は選択を間違えた。そして今、また大きな分岐点に立っていると自覚する。
僕は迷った。これほど迷いを生じさせたのは、おそらく生まれて初めてかもしれない。
いつも自分の判断が正しいと信じてきた僕だけれど、既にそんな自信は小指の爪の先ほども残っていない。完璧な王太子の仮面が壊れた僕は、こんなにも不安定で矮小な存在に過ぎない。
そんな風に考えて、ふと、思った。
――あの男ならば、どうするのだろうか、と。
忌々しいことに思考回路も女の趣味も似ている男。僕からリーフィアを奪っていった男。
殺してやりたいほどの憎悪を抱いている一方で、それでも有能だと認めざるを得ない存在。
僕はおもむろに空を見上げた。冬の到来を告げる寒風が頬を舐めていくのが心地いい。
頭の芯から冷えていくようだった。
「……陛下に急ぎ内密の話があると伝えてくれ。出来れば今すぐにでもお会いしたいと」
僕の言葉に騎士が一瞬、目を見開く。しかしすぐさま表情を切り替えると、二人で目配せをし、一人が一礼をして足早に王宮内へと向かっていった。
僕は残った騎士に「部屋に戻る。付いてこい」と端的に命じると、歩みを再開させた。
不思議と、気分は悪くなかった。




