冬の庭園で、もう一度
両親との再会から二日後。
私は限られた者のみが立ち入ることを許される王宮内庭園のガゼボで、侍女であるミラが淹れてくれた紅茶を飲んでいた。
季節はまもなく本格的な冬を迎える。今日はまだ日差しが出ていて比較的暖かいが、以前に殿下と拝見した薔薇の大半は既に見頃を終えたため、晩秋から冬が見頃の花々のエリア以外はやや寂しい印象を受けた。
それでもこの場所を選んだのは私だった。
室内で話すよりも開放的な場所の方が心身ともに安心だと考えたから。
待ち合わせの時刻の少し前に、そうして、彼は現れた。
私は立ち上がると、外套の裾を摘まんで恭しく頭を下げる。
「……お時間をいただき、ありがとうございます。ゼノン王太子殿下」
「…………ああ。顔を上げてくれ」
視線を上げれば、珍しくも非常に気まずそうな表情をした殿下と目が合う。その背後には護衛の近衛騎士が二名付いていた。私のすぐ傍にも同じく護衛としてクライン侯爵家の騎士二名と、侍女のミラが控えている。
これから私たちが話をする内容は、決して人に聞かせるようなものではない。
けれど二人きりになることも出来ないので、口が堅い最低限の護衛と侍女を付けることを条件に、私たちは二人での話し合いに臨むことで合意した。
打診をしたのは昨日だったが、殿下はすぐさま時間を作ってくれた。
私の捜索に多大な労力を割いたことは明白だったのでとても忙しいはずだが、それでも二つ返事で時間を空けてくれたことに私は感謝の意を示す。
そして、私は殿下と数歩ほどの距離に立つと、冬の花々が咲く庭園の方角を手で示した。
「よろしければ、少し歩きながら話をしませんか?」
「……分かった」
殿下の硬い声に私はぎこちない笑顔で返すと、ゆっくりと歩き出した。冬薔薇をはじめ、ビオラやサザンカといった花々を愛でながら、澄んだ空気と柔らかな花の香りを楽しむ。
しばらくはお互いに無言だったが、先に立ち止まり、口を開いたのは殿下の方だった。
ちょうど目の前には、色鮮やかな紫が印象的なアメジストセージが咲き誇っている。
「……先日の件は、本当にすまなかった」
私はすぐに何についての謝罪かを理解し、きゅっと唇を噛む。
結果的に未遂ではあったものの、あの時に感じた恐怖心をすぐに忘れ、なかったことには出来ない。
しかし同時に、殿下を延々責め続ける意思も私にはなかった。
迷った挙句、私は素直に今の自分の気持ちを吐露する。
「――謝罪を、受け入れたいと思っています。しかし、すぐに以前と変わらぬ距離に戻ることは難しいこと……ご容赦くださいませ」
私の返答に、殿下は「それは無論、理解している」と顎を引く。
手を伸ばしても決して届かない距離。これが今の私たちの距離だった。
それでも、こうして真摯に声を交わすことは出来る。
「私の方からも改めて謝罪申し上げます、殿下。私の身勝手な振る舞いの結果、殿下には多大なるご迷惑とご心配をおかけいたしました。本当に、申し訳ありませんでした……」
私は深々と腰を折り、頭を垂れた。
「……顔を上げてくれ、リーフィア。君の謝罪を受け入れる」
殿下の言葉にゆっくりと姿勢を戻せば、彼は左手で自らの右腕を掴みながら、儚げに微笑んだ。
「それに謝る必要があるのは私の方だろう。あの夜会の日の会話を君に聞かれているなんて、想像もしていなかった。君を深く傷つけた。それを謝罪したい」
「……それについては、私が結果的に盗み聞きをした形ですので、謝罪の必要はございません」
私は軽く首を横に振って、謝罪の必要はないと殿下に示す。
納得のいかない様子の殿下が再び口を開く前に、私は言葉を続けた。
「殿下たちが私のためを想って敢えて囮の件を伏せていたこと、今はきちんと理解しています。ですが、それと私の感情とは別でした……殿下。私は――」
一度目を伏せた後、覚悟を決めるとともに真っ直ぐに殿下を見つめる。
「貴方に、信頼して欲しかった。守られるだけの、知らないままに囲われるだけの存在ではなく。貴方の伴侶として、共に喜びも悲しみも怒りも不安も分かち合いたかったんです」
それが嘘偽りのない私の本心だった。
「っ……それは、私だって同じ気持ちだ! 確かにあの時はやり方を間違えたのかもしれない……だが、それだけ君のことを愛していたから、余計な心配をさせたくなかったんだ……っ!」
普段の穏やかな表情は鳴りを潜め、殿下が苦し気な顔のまま私に訴えかけてくる。
私はそれに「はい、分かっています」と静かに頷き返した。
「私自身、今回の出奔に際しては誰にも相談せず、一人で勝手に決めて行動をしました。それがどれだけ信頼を裏切り、大切な人たちを傷つけるかにも思い至らずに。だから私が殿下を非難する資格なんてないんです」
「――ならば、今からでも遅くはない。……リーフィア、私たちはやり直せるはずだ。今度は絶対に間違えない。君に隠し事は絶対にしないと誓う……だからッ!」
彼は今にも私に向かって歩き出そうとする自分自身を、必死で抑えているようだった。
代わりに濡れたオニキスの瞳でじっと私を見つめ、懇願してくる。
この人のことが、私は本当に好きだった。
初恋で、今でもあれほど酷い仕打ちを受けたにもかかわらず、心の底から嫌いになることは出来ない。
だけど今、この人に抱いている感情は――
「……殿下、どうかお願いいたします」
――――愛では、ない。
「私との婚約を、解消してください」
目は決して殿下から逸らさなかった。
私の言葉に彼の表情から感情というものがごっそりと抜け落ちる。
整った美貌ゆえにまるで精緻な人形のような殿下は、二、三度瞬きをすると、虚ろな瞳のまま淡々とした口調でこう口にした。
「…………今更、そんなことが許されると本気で思っているのか?」
「後ほど、陛下にクライン侯爵家当主である父と共に婚約辞退を申し出るつもりです。そもそも、このような事態を引き起こした私が一国の王妃を務めることなど、認められるはずがありません」
「それが理由なら私がなんとでもする! 私の伴侶は生涯ただ一人、君しか考えられないと何度も言っているだろう!?」
食い下がる殿下に、どう言えば納得してもらえるのかと私は頭を悩ませる。
すると殿下が何か思いついたように表情を変えた。そして薄ら笑いを浮かべながら、
「……今回の件、私がエイセズの王弟を直接訴えればいいのかな? 彼は私の婚約者である君を誘拐したのだから、相応の報いを受けるべきだろう?」
と、明確な脅しをかけてきた。
想定外、というわけでは実はなかった。けれども、殿下の口から最も聞きたくはない言葉だった。
これ以上、この方に失望したくなかったから。
だから、私も分かった上で卑怯な手段を取る。いっそ、幻滅してもらえたらと願いながら。
「……仮に殿下がそうされたとしても、私の心が変わることはありません。たとえ私が殿下の伴侶になったとしても、私は未来永劫、貴方ではない別の方をお慕いします。そして、殿下のことは永遠に軽蔑し続けることでしょう」
私のこの発言に今まで静観を決め込んでいた周囲が思わずといった様子で息を呑む。
婚約相手に対する明確な裏切りの言葉。言い逃れのしようがないほどの不敬。すぐにでも捕縛され、罪に問われかねない行為。
しかしそれが私の決断だった。もう、二度と元には戻れない。
私たちは決定的にすれ違い、そして間違えてしまったのだから。
「――――嫌だ」
殿下が、低い声で唸るようにそう言った。
私はどんな誹りでも受ける覚悟でいたが、目に飛び込んできたのは殿下の――涙だった。
「私は認めない。決して認めない!! 君は私のものだ!!! やっと……やっと手に入れたのに!! 手放すことなんて出来るわけがないじゃないかッッ!!!!」
美しい顔をぐちゃぐちゃにして泣き叫ぶ殿下の姿に私はもちろん、周囲も動揺を隠し切れなかった。
心配した近衛騎士たちが落ち着きを取り戻させようと殿下との距離を詰めようとするが、それを敏感に察知した彼が「近寄るな!」と牽制する。
いつしか彼の握りしめた拳からは血が滴り落ちていた。まるで赤い涙のように。
「なぁ、リーフィア。私はどうすればいい? どうすれば君と元通りになれるんだ? 私に出来ることならなんだってする……だから、私を……僕を、僕はどうしたらいいんだ……!!」
身も世もない、涙交じりの悲痛な訴えを前に、私はただただ立ち尽くした。
それでも、彼を受け入れることだけは駄目だと本能的に理解していた。それがたとえ殿下をより深く傷つけるとしても。もう自分の気持ちに嘘はつかないと誓ったのだから。
「…………殿下、申し訳ありませんが何度乞われても私の気持ちは変わりません。この気持ちも含めてすべて詳らかに奏上し、後のことは陛下や父の判断に従うつもりです。……それでは、失礼いたします」
私は別れの一礼をすると、自分の護衛や侍女に目配せをして来た道を引き返すべく足を踏み出した。
これ以上は問答をしても平行線になるだけだろう。
だが、立ち去ろうとする私を殿下のかすれた声が引き留める。
「……リーフィアッ、お願い、だから……僕を捨てないでくれ……」
「っ……!」
「愛してる……君を、愛してるんだ……リーフィア――」
罪悪感に全身が支配される心地だった。
完璧な王太子であるゼノン殿下の弱々しい声音が耳にこびりついて離れない。
私は零れ落ちそうになる涙を唇を強く噛みしめながら堪え、決して後ろを振り返ることなく、再び歩き出した。それだけが、私に出来る唯一の誠意だった。




