怒りと尊厳
私が蹴り上げた右足は、殿下の左側の太ももを中心に当たった。
正直、体勢の関係もあってあまり威力はなかったと思う。
それでも、殿下にとって衝撃を与えるには十分だった。
今まで見たことがないほどに目を見開いた彼は、咄嗟に上体を起こした。私を拘束していた手を両方とも離して。
私はその隙を衝いて殿下を渾身の力で突き飛ばし、その反動でベッドから転がり落ちた。
殿下も体勢を崩して反対側へと倒れ込むのが視界に入る。
受け身もろくに取れなかったものの、床には絨毯が敷かれていたため、痛みはさほどでもなかった。
私は歯を食いしばって無理やり立ち上がると、まだ状況が呑み込めずどこか呆然としている殿下を――睨みつけた。
全身が燃えるように熱い。初めて感じる、許しがたいほどの怒り。
それを私はそのまま視線に込め、殿下へと言葉を叩きつけた。
「……殿下が今なされようとしたことは、私に対する侮辱です!! このような手段を取られて、私が殿下のことを愛するなど本気でお考えですか!? それとも、本当に私の意思など必要なく、ただ私という人形が得られればそれで満足なのですかっ!!!」
心臓がドクドクと早鐘を打つ。呼吸も荒くなり、視界は涙でぼやけていた。
淑女として、王族に対してあるまじき態度であることは明白だった。それでも、言わずにはいられなかった。罪に問われたっていい。軽蔑されたっていい。これは、私の尊厳の問題だった。
私の怒りを真正面からぶつけられた殿下は、途方に暮れた顔をしていた。
それでも、しばらくして頭が冷えたのか、
「…………すまなかった」
とだけ、かすれた声で零した。
その表情からは先ほどまであった昏い狂気の色が完全に抜け落ちている。
それを見て、私は心の底から安堵した。すると途端に膝に力が入らなくなり、そのまま絨毯の上にぺたりと座り込んでしまう。精神的疲労がピークに達したのだ。
このまま倒れるわけにはいかないと、何とか自分を落ち着けようと深呼吸を繰り返す私に、殿下は戸惑いながらも近づいて手を伸ばそうとした。
だが、それに対して私は反射的に先ほどの行為が頭を過り、
「っ……いや! 来ないで!!!」
両手を顔の前で交差し庇うように拒絶してしまう。
体の震えが一向に止まらず、今更になって涙が後から後から溢れてきた。自分でも感情の制御が出来ないくらい気持ちが昂っているのが分かった。
そんな私の状態を目の当たりにした殿下は、伸ばした手を引き戻し、もう一度「すまなかった」と言った。そしてそのまま彼は寝室を出ていき、廊下へと続く扉を開ける。
そして部屋の前で待機していたと思しき人間に「侍女を寄越してくれ」と命令して、自らもそのまま部屋を出て行ってしまった。
殿下の背中が扉の外に消えた瞬間、私は今度こそ完全に絨毯の上に倒れ込んでしまった。
起き上がらなければと思うのに身体に上手く力が入らない。もう何もかもが疲れてしまっていた。
しばらくそのままでいた私だが、慌ただしく入ってきた二つの足音に思わず身を竦めた。
しかし、近寄ってきた人を認識した途端、緊張が緩む。
逆に相手は私の状態がよほど酷かったのか、心配そうな顔で駆け寄ってきた。
「リーフィア様、大丈夫ですか!? ミラ、早く抱き起して差し上げて!」
「はい、お嬢様! リーフィア様、さぁ、私に掴まってくださいませ」
「……メイベル、様。それに、ミラも……なぜ、ここに……」
「話は後で! とにかく今は休息が必要です。そんな真っ白なお顔、只事ではありません」
私はかつて王宮で世話になった侍女ミラの手を借り、なんとか立ち上がった。そしてそのままベッドに寝かされそうになるが、私はそれを頑なに拒否した。殿下の寝室から一刻も早く立ち去りたかった。
すると何かを察したのか、メイベル様が廊下にいた人物を呼ぶ。
入ってきたのは、兄のアルフォンソだった。
「リーフィア!! お前、本当に心配したんだぞ……!!!」
「っ……お兄様……申し訳、ありません……」
記憶よりも少々やつれた兄は泣きそうな顔で私を抱きしめようとしたが、それはメイベル様によって阻止された。
不満そうな兄を目線だけで黙らせた彼女は、私の耳元で囁くように問いかけてくる。
「リーフィア様、その……身内でしたら、触れても大丈夫でしょうか……?」
私はメイベル様の気遣いに感謝するとともに「大丈夫です」と小声で頷き返す。
するとメイベル様はお兄様に「リーフィア様を休ませたいので、別室まで運んでいただけます?」と促した。兄は当然のように了承し、私を背負ってくれる。
少し身体が強張ったが、それほど酷い拒絶感がなくて自分自身にホッとした。
そうして連れ出された私は、王宮内でいつも使っていた私の私室へと運ばれた。そのままベッドに座らせて貰い、着替えなどもあるので兄とメイベル様には申し訳ないと思いつつ退室してもらう。
身体はすぐにでも睡眠を欲していたが、心はそれよりも優先すべきものがあった。
私は支度を手伝ってくれるミラに申し出る。
「……ごめんなさい、眠る前にどうしてもお風呂に入りたいの」
そんな突然のわがままにも嫌な顔ひとつせず、ミラは二つ返事で請け負い、準備をしてくれた。
バスルームに入ると、私は「一人になりたいの」と言って介助を断り、用意されたばかりのバスタブに身体を沈めた。そしてお湯を掬うと、化粧が落ちるのも構わずにザバザバと顔を洗う。
特に唇を入念に拭ううちに、またしてもボロボロと涙が零れ落ちてきた。
それで緊張の糸が完全に切れた私は、感情に身を任せてそのまま子供のように泣きじゃくった。




