きれいごとじゃない気持ち
旅は想像以上に順調だった。無事に二日目を越え、三日目の宿へと到着する。
明日には関所を通り、行商人たちとの合流地点である交易都市入りを果たす予定だ。
そうなればこうして二人きりで宿を取ることもなくなるだろう。
夕食を部屋の中で簡単に済ませ、寝支度まで整えた後。
私はひとり、ベッドの上でぼんやりとレオンさんから貰った腕輪を見つめていた。
寝る時くらい外せばいいのに、それが出来ないでいる理由。
考えれば考えるほどに辿り着いてしまいそうな結論を前に、二の足を踏む。
「……リーフィア」
ふいに呼ばれて、顔を上げる。声の方へ視線を向ければ、私と同じく就寝時のラフな格好に着替えたレオンさんが、両手に持ったカップの片方を差し出してくれていた。
ほのかに湯気が立つそれからは、柔らかなミルクの香りがする。
「今日は冷えるから、良かったら」
「あ、ありがとうございます。……あれ? レオンさんはミルクじゃないんですか?」
「俺のはホットワイン」
「私、ワインは飲んだことないです。どういう味なんですか?」
「安酒だからあんまり美味いもんじゃないけど、試してみるか?」
この国は15歳で成人のため、私もお酒を飲むこと自体は出来る年齢だったが、家庭の方針で今まで飲む機会には恵まれなかった。
少し迷いつつも、私は好奇心に負けて「じゃあ、ひと口だけ」とカップを交換する。
恐る恐る口に含むと、少し酸っぱいような苦いような初めての味に戸惑う。けれど嫌いではなく、喉を通ると後から身体がポカポカするような不思議な感覚があった。
美味しいとは違うけれど、癖になる、という感じだろうか。
「……はい、ストップ。これ以上はダメ。リーフィアはこっち」
続けてもうひと口飲もうとしたのを遮られ、ミルクのカップと強制的に取り換えられてしまう。
私は素直に「もうちょっと欲しいです」と強請ってみたが、レオンさんは折れてくれなかった。
「ホットワインは酔いが回りやすいから。明日二日酔いにでもなったら困るだろ?」
「うー……それはそうですけど。もう少し試したかったのに」
「別に今日じゃなくても、エイセズに着いたらいくらでも試せばいい。自由に生きていくんだろ?」
「……そう、ですよね。エイセズに着いたら……自由に……」
「ああ、独り立ちまではある程度面倒見るから心配しなくていい。着いて早々に放り出したりはしないから」
「あ、ありがとう……ございます……」
――エイセズに着いたら
それは希望の言葉のはずなのに。
――独り立ちするまでは
今の私にはまるで、別れの言葉のように聞こえる。
カップを持つ手が微かに震えて、訳もなく泣きそうな気持ちになる。
「……リーフィア、どうした? 具合でも悪くなったか?」
心配そうな声が降ってくる。けど、今は優しくしないで欲しかった。
頭の中がぐちゃぐちゃで、うまく考えが纏まらない。
私は首を大きく横に振って「大丈夫です」と俯きながら返事をする。
顔を見られたくなかった。見られてしまったら、気づかれてしまうと思った。
お願い、放っておいて。そう心の中で願ったのに、
「……リーフィア、こっち向いて」
この人が私を放っておくわけがないことも、同時に理解していた。
――ぽたぽたと。カップの中の白い水面に透明な雫が零れ落ちていく。
それが自分の涙だと気づいたときには、もう、ダメだった。
「ご、ごめんなさい……っ……」
咄嗟に謝って、何に対しての謝罪なのか自分でもわからなくて、混乱して。
涙腺が壊れてしまったように止めどなく流れてくる涙が次から次へと頬を滑っていく。
そんな自分でもどうしようもなくなった私の手から、するりとカップが取り上げられて。
触れるか触れないかのギリギリの距離で、レオンさんが言う。
「泣いてる理由は、王太子のせい? 今になって、戻りたくなったとか?」
「……っちが、い、ます……」
「なら……原因は、俺か?」
その言葉に、思わずびくりと反応してしまって。
察しのいい彼に対しては既に誤魔化しはきかないと悟った。
こんなことを言ったら絶対に迷惑になる。分かっているのに、それでも苦しくて。
知って欲しくて。
「……わ、私……っ」
やがて、嗚咽交じりの私の声が、室内に落とされ始めた。
「…………わたしは、殿下の婚約者だったん、です……そう、信じていたんです」
「……うん」
聞き手となった相手は、ただただ、優しい相槌を打ってくれる。
それに後押しされるように、自分の口からあの日の感情が次々と紡がれていく。
「でも、違うって、分かって……好きだったのに、裏切られたって、思った。けど、好きだったから、役に立ちたかった。嫌われたくなくて、無理して笑って、演じて、痛くて、苦しかった……っ!」
あの頃は、それでも泣けなかった。
泣いたら役目が果たせない。個人の感情なんかよりも、優先すべきことがあった。
「……本当に、殿下のこと、好きだったの……初恋だったの」
私は完璧な婚約者を演じることで、自分の矜持と恋心を守り続けた。
もう、こんな風に誰かを好きになることはないとさえ思っていた。なのに。
「なのに……わたし、いまはもう、殿下のところに戻りたいなんて、思ってない……それが、すごく、嫌で……」
たった二週間で、こんなにも心が変わってしまうなんて。
自分がこんなにも薄情な人間だったなんて認めたくなくて。
それでも、どうしても変わっていくのを止められなくて。
「……自分で自分が、コントロールできないのが、怖い……こんな自分、知りたくなかったのに……っ……わたし、いま、レオンさんと離れたくないって、思ってる――」
言いながら、取り返しがつかないことを口にしていると気づいていた。
私は貴族の娘として育って、そうあるべきだと自分を戒めて、生きてきたのに。
この人といると、どんどんわがままになってしまう。
素直な気持ちでいても良いんだと、許されるのだと、甘やかされているのだと。
――この人と生きていけたら、きっと幸せだと。
腕輪が本当の意味での贈り物になればいいのに、なんて願ってしまった自分は、もう戻れない。
……ああ、私は……この人のことが、好きだ。
「……ごめんなさい。訳が分からないですよね、えへへ……っ」
言うだけ言って気持ちの整理が出来たことで、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻した私は、無理やりにでも笑って場の空気を変えようとする。
それはおそらくレオンさんにも伝わったはずだ。これ以上は踏み込まないで欲しいという意思表示。
だけど、やっぱりこの人は、それを許してはくれなかった。
「……離れたくないなら、離れなければいいだろ」
その声は、少し怒ったような、何かに耐えるような響きをしていた。
驚いて反射的に顔を上げそうになった私は、そのまま大きな身体に正面から包まれてしまう。
抱きしめられている。その事実に、頭が真っ白になる。
「俺は、仕事で腕輪を贈ったりなんかしない。こんなに優しくなんてしない。気遣って、ホットミルクなんて用意するような柄じゃない」
ぎゅうっと、強く。まるで縋るように腕に閉じ込められる。
「――好きだ」
紡がれた音が信じられなくて、目を見開く。
「今、これを言うのはフェアじゃない。たぶん、アンタは冷静な判断が出来てないんだと思う。俺と離れたくないのだって、保護してくれる相手がいなくなるのが怖いだけかもしれない」
聞きながら、傷ついている自分と、その通りかもしれないと思っている自分がいる。
私は何も言い返せず、ただただ彼の言葉に耳を傾けた。
「だから今すぐに結論を出さなくていい。分かるまで、一緒に居よう」
その言葉を最後に、身体を覆っていた腕の力が緩む。
大きな掌が私の頬を、目元を拭ってくれるのに、また涙が溢れそうになってしまう。
「……レオン、さんは……っ! わたしを、あまやかしすぎです……!」
「それは仕方ないだろ。俺、好きな女は甘やかしたくなるんだよ」
「~~~~っ!?!! もう、そういう、ところ、ずるい……!」
無性に悔しくなった私は今度は自分からレオンさんの胸に飛び込む。
これ以上グズグズになった顔も見られたくないし、ちょっとはドキドキして欲しいという打算もあった。
すると、彼はいつものようにポンポンと私の背中を叩きながら、
「うん、だから王太子なんか忘れて、はやく俺だけのものになって」
そんな殺し文句を耳元で囁いて、満足そうに私ごとベッドに倒れ込んだのだった。




