逆鱗(アルフォンソ視点)
愛しい妹が残した手紙は、俺たち家族にとってまさに青天の霹靂だった。
何の冗談だ。こんなもの面白いどころか不愉快極まる。あり得ない。だって、こんなことは。
「……アルフォンソ、この手紙の内容に心当たりはないか……」
現在時刻は夕方付近。
本日の正午頃に緊急の要件だと知らせを受け、王宮から自宅へと急遽呼び戻された俺に妹からだという手紙を見せた父上は、憔悴したような、同時に怒りを噛み殺しているかのような声で問うた。
俺はもう一度、信じられない気持ちで文面を浚い、そして、
「……あります」
正直にそう答えた――瞬間、胸倉を掴まれた。他でもない父によって。
温厚で常に冷静さを心掛けている人だ。普段なら絶対にこのような暴挙には及ばない。
だからこそ、この状況の異常さが浮き彫りになる。壁際に押し付けられ、息が止まりそうになる。
「あなたっ! アルフォンソを放して!! 今は事情を聞くのが先でしょう!?」
母の涙交じりの叫びにも、父の腕の力はまったく緩まなかった。
結局、母が腕にしがみついてようやく解放され、俺の呼吸は正常に戻った。軽く咳き込み床へ座り込んだ俺に、父が冷たい眼差しを向けてくる。
「――説明しろ、今すぐに」
「っ……確証は、ありません。それでもよろしいですか?」
「構わない」
父の言葉に、母も俺を心配そうに見つめながら頷く。
俺は自分の推論を両親に話した。
二人の表情は次第に青ざめていく。
おそらく、鏡を覗けば俺も同じような顔をしていただろう。
途中から母は完全に泣き崩れてしまい、父はそんな母を強く抱きしめながら、後悔の念に押し潰されそうな、苦痛に満ちた表情を浮かべていた。
俺は父といくつかのやり取りをした後に、屋敷を飛び出した。
既に我が家の従者を総動員して、消えた妹の捜索は開始されている。
だが、このことはまだ屋敷の人間しか知らない。
一番知らなければならない人間には、まだ伝わっていない。
俺は歯を食いしばりながら、王宮に向けてひたすら愛馬を走らせた。
我が家から王宮までは馬の速さで数刻。
休憩なしの強行軍で王宮に辿り着いた頃には、既に日は完全に沈んでいた。
それでも俺はここ一週間ほど通い続けているゼノン殿下の執務室へと直行する。
一大スキャンダルとなった今回の事件の事後処理に追われる殿下が、夜遅くまで執務を行っていることを誰よりも知っていたからだ。そして想像通り、殿下の執務室にはまだ明かりが灯っていた。
息を切らせたまま、護衛の騎士たちを押しのけるように入室すれば、殿下が驚いたように顔を上げた。
「……アルフォンソ? どうしたんだ、実家に戻ったのではなかったのか? それに、その顔は……」
よほど俺が酷い顔をしているのだろう。殿下は書類を机に投げると椅子から立ち上がり、俺のほうへと近づいてくる。
俺は整わない息のまま懐から手紙を取り出し、殿下に差し出した。
「っ……お読み、ください。その上で、今後について話を……っ」
殿下は怪訝そうな顔で手紙を受け取り、その場で目を通す。
俺は目を閉じて息を整えつつ、殿下から声が掛かるのを待った。
だが、いつまでたっても殿下からの反応は返ってこない。
さしもの殿下もショックが大きすぎて思考が追い付いていないのか……そう考えながら顔を上げた時。
――俺は、この世でもっとも恐ろしいものを見た。
別に表情自体が恐ろしいわけではない。それどころか無表情だった。
だが、真っ黒だと直感的に思った。
オニキスの瞳から完全に光が消え失せ、代わりに煮えたぎるような激情が渦巻いている。
逆鱗に触れた。その言葉が、脳裏を過る。
完全に固まってしまった俺に、殿下は手紙から目を離さず、言った。
「私のリーフィアは、今、どこにいる?」
喉が渇く。下手な答えは命取りになる。そう肌で理解した。
「……現在、我が家の関係者を総動員して捜索を開始しています。昨日の夜まで妹が屋敷に居たことは確実ですので、そう遠くへ行けるはずはありません」
「――こちらからも人を出す。おい、近衛騎士団長を呼べ。今すぐにだ」
殿下は扉の傍に控えていた護衛騎士に向かって淡々と指示を出す。
弾かれたようにその中の一人が部屋を出ていくと、ようやく手紙から目線を俺に向けた。
相変わらずその瞳は真っ黒で、俺は恐ろしさのあまり背筋に寒気を覚える。
「この手紙は本当にリーフィアが書いたもので間違いないんだな」
「……はい、妹の筆跡です。殿下、この内容は、おそらく――」
「ああ、聞かれていたと考えるべきだろう。あの、リーフィアが倒れた夜にした、私たち三人の会話を」
やはり殿下も俺と同じ結論に達したようだ。
妹にあの時の会話を聞かれていたことは、あり得ないほどの失態だ。
しかも会話が断片的な内容だったせいで妹自身は取り返しのつかない大きな誤解をしている。
メイベル嬢と殿下が婚約? あり得ない。ああ、本当にそんなことは決してあり得ない。
前提が、そもそも逆なのだ。
婚約者選定の最終局面、グレタ・ハリスとカペラ元王妃が結託し、ゼノン殿下の婚約者になろうと画策していたのは明らかだった。
そして、それが叶わなかった際に、何らかの強硬手段に出ることは容易に想像できた。
殿下の婚約者になれば、必ず危険が迫ると分かっていた。
だから最初は、リーフィアの代わりにメイベル嬢が偽の婚約者という囮になる予定だったのだ。
ゼノン殿下とは幼少期から幼馴染の間柄であり、宰相の娘として貴族令嬢の誰よりも国政状況を把握していた彼女が。
しかしそれを、ほかならぬゼノン殿下が拒んだ。
嘘でも別の女性を婚約者にすることは出来なかったのだ。
――彼は、リーフィア・クラインを、俺の妹を、心から愛していたから。
すべてを隠したまま、秘密裏に危険を取り除き。
自分の婚約者として、生涯の伴侶として、リーフィアを迎えることを選択した。
その結果が、このような最悪なものになると、誰が想像出来ただろうか。
「…………なぁ、アルフォンソ」
殿下に名を呼ばれ、俺は固唾を呑んで「はい」と返事をする。
すると彼は妹の手紙の文字を指でなぞりながら、微かに笑った。そう、笑ったのだ。
ぞくり、と。冷たい汗が俺の蟀谷を伝う。
「リーフィアが戻ってきたら、嫌というほど分からせなければならないな」
「……何を、ですか」
「決まっているだろう? 私がどれほどリーフィアを愛しているのか、だよ」
いっそ、閉じ込めてしまえばいいかもしれないね。
そう満更でもなさそうに口にする殿下の姿に、俺は何も言えなかった。
もしかしたら妹はとんでもない方に執心されてしまったのかもしれない。
だが、今の俺にはどうすることも出来ない。それよりもまずはリーフィアを見つけ出して保護し、今回の件での誤解をすべて解き、それから殿下と改めて向き合うべきだ。
この時の俺は、心配していたものの、心のどこかで妹はすぐに見つかるだろうと、ある意味で高をくくっていた。失踪が発覚してから捜索開始まで半日も掛かっていないのだ。
おまけに場所はクライン家の屋敷がある王都の一等地。
ここのところ夜盗の目撃例もなく、治安も悪くはない。
だから、大丈夫だ。俺はそう、自分に言い聞かせていたのかもしれない。
だが、一週間が経過しても、リーフィアの行方は掴めず。
本当に、最初から存在しなかったかのように、最愛の妹は俺たちの前から姿を消してしまった。




