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前編②


 国土の北にある山脈と裾野の一帯は別名≪魔の森≫とも呼ばれている。人を喰らう恐ろしい魔物が跋扈し、空気も水も普通の生き物には毒で、近付くだけで内臓を腐らせ死に至らしめるとされている。

 人々は長らく≪魔の森≫に苦しめられてきたけれど、ある時から怪物の襲撃と土地の汚染を食い止める、領域の魔術なる手法が確立された。それを操る魔術師、と呼称される彼らは国王直属の機関に所属し、危険な任務に従事している。

 王都周辺では毎年、辺境では数年ごとに十歳前後の全ての子供に、魔術の素養の有無を確認する事が義務付けられている。もし適合すれば直ちに機関へ迎えられ、領域の魔術の習得と研鑽に励むのであった。  



 フェイリムは他の男の子達と同様に一列に並ばされて自分の番が来た時、魔術の素養の有無を調べる綺麗で希少な水晶を粉砕して別室に連れて行かれたらしい。店の手伝いをしながら一向に戻って来ない親友を待っていたベアーテは、その事実を悪ガキの情報網で知る事となった。


「あれって高いんだぜ、どうなっても知らないぞ!」


 ベアーテはわざわざ店の前まで言いに来た彼らを相手にしなかった。しかしあまりに鬱陶しい上に、いつもなら適当に取り成してくれる親友もいないため、兄直伝の取っ組み合い必勝法でも披露しようかと顔を上げた矢先、通りの向こうから偶然行き会ったのか、三人の兄達が帰って来るのが見えた。悪ガキは蜘蛛の子を散らすように逃げて行ったので、ベアーテは素知らぬ顔でお店前を掃除しているふりをした。しかし、フェイリムが教会で折檻を受けているのではないだろうか、と心配で仕方がないのは確かだった。


 思い出す限り、その大きな水晶は見るからに高価で、事前に絶対にふざけて触らないように厳重な注意がされてから、そっと手を伸ばしたのを覚えている。悪ふざけをするような彼でもないので、尚更首を捻る事態であった。



「メアリさん、何か知らない?」

「……ごめんよ、教会は場所を貸しているだけみたいなんだよ。フェイリム君、敷地の中にはいないみたいだね」


 夕刻の忙しくなる時間帯の前、比較的空いている店にちらほらと姿を見せ始めたのは、身寄りや住む所がなく、教会に身を寄せている人々である。そのような境遇の人達のためにお金や物品、服や食料を寄進する事は賛否両論あるけれど、ベアーテの両親は熱心に取り組んでいる側の人間だった。

 ≪お腹を満たす幸せの魔法≫亭では、お食事券なるものを教会が彼らに配り、それさえあればお金がなくてもベアーテの父が腕を振るう取り決めになっていた。普通の客と同じように対応するように両親から言われているので、いらっしゃいませこんばんは、と愛想よく聞こえるように声を掛けつつ、その中の一人にこそこそと耳打ちした。

 教会からのお客さんの中で、特にベアーテと仲良くしてくれるメアリという妙齢の女性は教会の敷地内を掃除したり、繕い物を引き受けて暮らしている。彼女の話によれば、教会は子供の検査の場所を貸しただけで、今はもういつもの状態に戻っているらしい。親友が別室に連れて行かれた後の足取りは、誰も知らなかった。



 何の報せもないまま数日も経てば、どこも未だに戻らないフェイリムの話題で持ち切りだった。相変わらずなのは≪お腹を満たす幸せの魔法≫亭の混雑だけである。午前中で勉強を終わらせたベアーテも急いで帰宅し、髪をまとめ、エプロンの紐を後ろで結び、店の一員としての役割をこなそうと懸命に働いた。食事の終わったテーブルを手早く片付け、その間においチビさん、と声を掛けられれば注文を承り、厨房に向かって適度な大きさの声を張り上げた。誰かが了解と返事をくれるのを聞き届ける作業を何回もこなしては、今度は店の外で注文を待つ人のところにも届けるために奔走した。


「……国王直属だか何だか知らないが、魔術師ってのはどいつもこいつも偉そうな人間ばっかりだよ。特権を良い事に、ふんぞり返って歩きやがる」

「髪の色が変わるってのは、一体どういう仕組みなんだろうな」

「ずっと前だが選ばれた知り合いの次男坊、もう何年も親元に顔すら出さないって話だぜ」


 ベアーテは忙しく立ち回りながら、噂話にこっそり耳を傾けた。市井に暮らす人々にとって、危険な任務と引き換えに多額の報酬と特別な階級を約束されている魔術師は、遭遇する事すら滅多にない存在である。夜な夜な子供を浚っているとか黒いフードの下には角が生えているとか、真偽の怪しい噂話はたくさんあった。

 ただ普通の人間には近づく事すらできない≪魔の森≫付近で仕事をする悪影響は少なからずあるらしい。彼らの髪が揃って不思議な銀色なのは、魔術の行使を重ねて身体に負担が掛かっている現れだと、誰かが口にした。


 フェイリムの両親もどうやら家に帰っていないようで、隣の家は夜になっても真っ暗だった。お隣はしっかりした人達だから心配するな、と言われてもやはり、気になってしまう。


  

 そんな風にしてフェイリムに会えないまま数日が経ち、そして今日も店の混雑が山場を迎えた頃、妙な客に初めに気が付いたのはベアーテだった。引きずって汚すのではないかと心配する程に丈の長い真っ黒な外套、フードの下には無表情な、年齢の判断が難しい顔が覗いている。店内の隅で席が空くのを待っている人々には目もくれず、まだ暑い日の続く中で季節感の全くない恰好はどう考えても奇妙だったが、これが仕事上正式な恰好である人達がいる事を、不思議な話をたくさん拾ったベアーテは知っていた。

 噂に名高い銀の髪、特別な機関に所属し、魔術の行使を重ねるごとに少しずつ外見が変わるという奇妙な現象には、流石に誰もが畏怖や畏敬の念を抱かずにはいられない。


「ベアトリクス・エリソン?」


 そんな人がこちらに目を留めて、ベアーテの本名を口にした。普段ほとんど呼ばれないのもあって、自分の事だと認識するのに時間がかかった。瞬きを何度かしてから、どうして知っているのだろう、と思いつつもベアーテは頷いた。


「あの、失礼ですけど、お食事でしたら少し待っていただく形に……」

「ご息女はこちらに同行させてもらう」


 給仕の責任者として店内を忙しく回っていた母親が、異様な雰囲気を察知してこちらへやって来た。娘との間に身体を割り込ませながら、入り口付近で席が空くのを待っている人々の方を示す。こんなに混んでいる建物の中に、店側の案内を待たずに入って来る時点でなかなか威圧感がある。

 魔術師の男は母の言葉を遮るようにして用件を述べた。はあ、と歯切れの悪い返事しかできないこちらに苛立つ様子もなく、ただ淡々と同じ台詞を繰り返す。人々のために危険な仕事に従事している人だ、というベアーテの認識を以てしても、少しばかり怖いと思う。


「……ただいま一日のうちで一番忙しい時間なんで、後にしてもらえませんかね?」


 揉め事の気配を察したのか誰かが知らせたのか、せっかく来てくれたお客さんの楽しい食事の時間に水を差すまい、とやって来た父はあくまで丁寧な口調で対応しようと試みた。滅多にお目にはかかれない職業の人間を前に、賑やかだった店内はさざ波が広がるように、いつのまにか静かになっていた。席に座っている客も持ち帰り分を待つ人達も、不安そうな様子で推移を窺っている。


 無表情ながらも居丈高な客人は父を店の責任者と判じたのか、つかつかと歩み寄って行って、鼻先に羊皮紙を無遠慮に突き出した。ベアーテや母親、それから店をよく知る常連たちの間には緊張が走る。父は基本的に丁寧な態度を崩さないが、たまに来る変な人、たとえば教会から来る人々を指差して、自分にもタダで食事をさせろとふんぞり返るような場合は、父が無言で襟首を引っ掴んで、自警団の詰め所に放り込む事もある。仕事の集中を乱すような余計な刺激は与えない、というのは一家の鉄則である。


 しかし先方は国王陛下直属、つまり逆らってはいけない相手である。さしもの父も少しは怯むかと思いきや、ざっと書面に目を落とした後、受け取った勢いと同じ強引さで突き返した。


「注文は承りましたのでね、最後尾でお待ちくださいよ!」


 十分でお待ちいただいている方全員分出せますので少々お時間を、と父は客人全員に告げて、踵を返して厨房へ戻った。去り際に娘の頭を、配達の仕事が入ったのでよろしく、と大した事じゃないとばかりに軽く撫でて行った。


「こんなに忙しいのに十分で!?」


 ベアーテは素で思わず声を上げて、近くにいたお客さん達に笑われてしまう。張り詰めた空気はそのせいで幾分和らいだようだった。何が起きているのかさっぱりであったが、この混雑を十分間で、というのには店の者の全ての働きが含められている。ベアーテも母も妙な客を気にしながらも、仕事に戻るしかなかった。

 魔術師相手に逆らう事はしないが、店の決まりには従ってもらう。父は毅然とその姿勢を貫く事に躊躇いはなかった。店主の意向で客の一部として扱われた魔術師は立ち尽くしていたが、常連の好々爺に列の最後尾はこっちだよ、と穏やかに呼ばれて初めて邪魔になっていると気が付いたのか、渋々壁際へ移動したのがちらりと見えた。




 きっかり十分後、全ての注文を捌き切った父はベアーテに二人分、そして魔術師にも何食わぬ顔でお持ち帰りの包みを手渡した。とても骨付き揚げ鶏を喜ぶような客人には見えなかったが、何も言わずに受け取った魔術師の人にも驚いた。


「ところでお届け先はどちらでしょう?」


 しっかり頼むよ、頑張れチビさん、とまだ怪訝そうな顔の母やお客さんに見送られ、ベアーテは賑やかさを取り戻した店の中から、暑い日差しの中へと足を向けた。このくらいは知る権利があってもいいのでは、とおそるおそる尋ねてみる。


「フェイリム・ハーコート」


 こちらに目を向ける事なく、それから感情の読み取れない声で紡がれた親友の名前に、ベアーテは目を丸くする。続いて離れず後ろをついて歩くように言われ、素直にその通りにした。お持ち帰りの包みとは反対の手にはいつの間にか、素材のわからない不思議な光沢を放つ黒い長めの杖がある。外套の裾を翻して、彼は雑踏の中に足を向けた。すれ違う人々の驚いた表情が見えたのは最初の数秒だけで、突然辺りの景色が一変した。



 辺りの景色が薄暗い石造りの廊下である事にベアーテはびっくりしながらも、父から託された籠の中身を落とさないように足早に続く。明かりは彼の杖に灯った、微かな淡い光だけだ。やがて高い天井の、教会の聖堂みたいに広い場所へ出た。柱の影で何やら数人、同じような杖と恰好の人々が言葉を交わしているのが目に入った。


「……ヴェルナー?」


 その中の一人がこちらに気がついて、近寄って来た。お揃いの黒いローブ姿なのでわかり辛いが、声からして女性である事が推測された。リボンが結ばれた銀の髪が一房、目深に被ったフードの隙間から覗いている。


「寄り道して来たの? すごくいい匂いがするけど。あの子への差し入れのつもりなら、いいアイデアだと思う。何も口にしようとしないから」

「……目的地だっただけだ」


 ところで私の分は、という親し気な問いかけには微かにバツの悪そうな声音で、ヴェルナーと呼ばれた魔術師は後を頼む、と短く言い残してどこかへ立ち去ろうとする。女性魔術師は引き止めようとしたけれど、彼はこちらを一顧だにせず行ってしまった。


「……あの、一人分に二つ入っているので、良かったら」

「……とても美味しそうだけれど、お嬢さん達のお昼ご飯を取り上げる程ではないのよ。魔術師には、ちゃんと上が派遣して下さった立派な料理人さんが常駐している食堂もあるから。良かったら覗いて行く?」


 慌てたように杖を取りだして、辺りを幾分明るくしてくれた女性の魔術師はエイミー、と名乗った。杖を握る手は指先まで白い細い布が覆っている。手袋をしているのかと思いきや、彼女のフードの中、首の辺りが一瞬だけ明かりに照らされた時、どうやら包帯が巻かれているらしい事に気がついた。どこか身体が悪いのかと心配になったけれど、親しくもない間柄でそんな事を尋ねるのは気が引けた。

 それから国王陛下が選定したであろう、魔術師達の食事の面倒を見ている料理人には大いに興味があったけれど、フェイリムの事が最優先だと考え首を横に振った。ここは普通に暮らしていれば足を踏み入れる事なのない、魔術師の拠点の中なのだ。好奇心と心細さと、それからフェイリムの身を案じる気持ちがせめぎ合う中、魔術師エイミーに先導されて奥へと進んだ。彼女は先ほどのヴェルナーとは違って話好きのようで、ベアーテがここに来るまでの経緯を知りたがった。


「ごめんなさいね。さっきの彼、最近任務を外されて、気が立っているの」


 本当はあんな風じゃない、とエイミーは魔術師ヴェルナーの振る舞いを謝罪した。お店の手伝いをして偉い、と褒めてくれたので、両親が好きなのと、自分の将来のために頑張っているのだと説明した。


「……どうしてもね、お隣さんのベアーテ嬢とお話したいそうなの」


 彼女はある一室の前で足を止めた。中から錠前が回る音がして、鍵が開けられ薄く開いた。おそるおそる扉の中を覗くと、窓があるらしく、他の場所よりはいくらか明るい。


 やあ、と一週間ぶりの親友、フェイリムが、部屋の最奥の椅子からこちらに声を掛けて来た。誰が開けてくれたのだろうか、と近くには誰もいないのを訝しむ前に、そろそろと一歩足を踏み入れたその背後で、扉が静かに閉まった。


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