前編①
「お父さんて、本当は魔法使いなの?」
「ん? ああ、まあそんなところだな」
ベアーテが父の膝上に陣取って広げた絵本の頁は、黒装束の魔法使いが杖を一振りしてテーブルを埋め尽くす程のご馳走を召喚する場面である。皿の一つ一つを指差しながら、父は目を細めた。絵本の中でここがどうやら一番の見せ場らしく、暗い色調を主とした流れから一転、明るい橙色の光と共に現れた色とりどりのスープやお肉、お魚料理や果物、食べきれない程の美味しそうな焼きたてパンは、まるでこちらに飛び込んで来るかのようだった。
「……この間、俺が一人で厨房にいる時、こんな衣装を着たおじさんが店に来たんだ。この時間、このテーブルに料理を並べておいてくれって不思議な注文を受けた事があったよ。それでその通りにしておいたら、いつの間にかご馳走は消えてて、代金が置いてあった」
「へええ……」
ベアーテはその戯れをすっかり信じ込んで、色とりどりのご馳走が並んだ頁と、得意げな顔の父とを交互に見やった。
結論から言えばベアーテの父は魔法使いではなく、この国で魔術師、と呼称されている人々でもない。王都の一画で自分の店を切り盛りする、寡黙で腕の良い料理人である。また、妻と三人の息子と末娘を可愛がる父親でもあった。
「俺ならこのくらい容易いさ。みんな、美味しいって言って通ってくれるしな」
父は自称、単なる下町の料理人だが、どうやら只者ではないらしい事を、四人いる子供達は何となく理解している。
ある時は店の前に立派な馬車で乗り付けやって来た品の良い恰好の人が、貴方はこんな所にいるべき人ではない、と父に懇願した事があった。今の人は誰なの、と客人が肩を落として帰って行った後に一番上の兄が父に尋ねたけれど、結局詳細は教えてもらえなかった。
他にも見るからに荒っぽい男性が父の料理を一口食べた途端に咽び泣きした事もあったし、もっと以前には食事を終えた若い女性がここで店の手伝いをさせて欲しいと頼み込んで来た事もあったそうだ。後者に至っては後に結婚してベアーテ達四人の母親になったと言うのだから、父の店で食事をする時、とにかく油断は禁物である。あまりの美味しさに普通とは違う突飛な反応、行動をとってしまう可能性が存在していた。
父の美味しいご飯を成長の糧とし、またそんな逸話を聞かされて育ったまだ幼いベアーテはすっかり騙され、父の美味しい料理は魔法が使えるおかげだと思い込む事になった。
父の店、これまた当時のベアーテにとっては紛らわしい名前の≪お腹を満たす幸せの魔法≫亭は、酒ではなく提供する料理の味に重きを置いた人気店である。一番の売れ筋は特製骨付き鶏の揚げ物であった。もちろん煮込み料理もパンにも野菜にもこだわっているので、誰と行っても手ごろな値段で美味しいと喜んでもらえる場所としてよく知られていた。
多くは他の店でも食べられるありふれた料理である。しかし父が作ると一味違う、という言葉の意味がよくわかってしまう程、父の腕は周囲から抜きんでている事は間違いなかった。
「……お父さん、私にも美味しいご飯を作る魔法、使えないかな?」
絵本を閉じ、意を決してベアーテが問いかけると、それまで娘に優しい眼差しを向けていた父は、打って変わって仕事中にだけ見せる鋭い目つきに切り替わる。これは真剣な話なのだ、とこちらもなるべく真面目な顔に見えるように頑張ってみた。
「……習得は厳しいぞ、厨房にある物は大体熱くて重くて繊細でその上、客は流行廃りに厳しいからな。まあ、料理に限った話でもないが」
それでも良ければ教えてやるよ、と父は言うのでベアーテはこれまで以上に、手伝いと称して店に入り浸る事となった。やがて、成長と共に自分の父は魔法使いではなく単に腕の優れた料理人である事と悟ったけれど、尊敬や熱意が冷める事は少しもなかった。
お腹を満たす幸せ、の手段が魔法であろうと技術であろうと、どうにかして身につけたい、その強い気持ちに変わりはなかったからである。
フェイリム・ハーコートは強くてカッコいい軍人に憧れる少年である。しかしのんびり屋で体躯も小柄、元々住んでいた別の集落では他の子について行けないのが常と来れば両親の心配の種は尽きなかったそうだ。
彼にとっての運命的とも言える出来事は、都会へ出て来て新しく借りた家の隣の建物が、一日中賑わい美味しそうな匂いを漂わせる人気の料理屋であった事、らしい。
「わかるよ、軍人さんもいいね。私はお父さんと同じ魔法使いになって、美味しい料理を作ろうと思うんだ」
ベアーテが隣の家に引っ越して来た家の同い年の男の子、フェイリムに賛同してみせると、彼はニコニコと自分の後ろをついて回るようになった。読み書き手計算を習うため、教会の敷地に開設された学び舎に通いつつ、朝から晩まで店の手伝いを含めて一緒に遊ぶ仲であった。
フェイリムの、この辺りでは珍しい赤茶けた髪の色と形の綺麗な緑の目を見る時、こんな色味の猫がいるよな、とベアーテはいつも思う。
昨日は魔法使い、今日は軍人さんのつもりで、と大してやる事は変わらないけれど、拾った手ごろな木の棒を手に、二人は家の周囲を探検した。半年も経てばフェイリムは健康的に日焼けし、ベアーテの三人もいる兄達から取っ組み合いの必勝法を伝授され、夏が終わる頃にはすっかりやんちゃな男の子としてできあがっていた。その頃には後ろを付いて回るのではなく、二人は競争するように街中を走り回って遊ぶ仲になった。
厨房の仕事は体力勝負、とベアーテは身体を鍛えるのを兼ねて街を走り回っている。最初はフェイリムに街のあちこちを案内する、という大義名分があった。教会を出て近くの噴水広場、青々とした小麦畑がよく見える坂の階段を一番上まで登るという過酷な旅に、彼はどこまでも付いて歩いた。
「ほら、僕も軍人志望。体力をつける必要があるから」
お腹が空くとご飯も美味しい、と彼はよく笑った。
唯一、ベアーテの母親は挨拶の時にはあんなに可愛かったフェイリム君が、とこちらを睨む。しかし対照的にフェイリムのお母さんは息子にこんなに素敵な友達ができて、と涙ぐむのである。これは家族、教会と学び舎関係者、お店の常連さん達、と大人がたくさんいると各自好き勝手な事を言う、という現象の典型である。ベアーテは心得ているので全方向に、はいわかりましたと適当な相槌を打つ対応であった。
本当に駄目な事は普段は料理以外に口を出さない父が動いた時、というのが末っ子の認識に深く刻まれている。ベアーテはあまり要領のよくない自覚は十二分にある子供だったので、三人もいる上の兄達の失敗を、よく観察しているのであった。
「母さん! 自分で産んだ可愛い息子が三人もいるのが見えないのかい?」
一家の朝食準備は今日も賑やかである。フェイリムの件で娘に文句を言いかけた母の前に、縦にも横にもよく伸びた息子三人が立ち塞がる。何を食べたらこんなに大きくなるの、と同い年の子供より二回りほど体格が良く筋肉質な息子達に母が文句を言う横で、ベアーテはもくもくとお皿の準備を進めた。
もちろん料理担当の父が原因は俺の飯、と呟く時もあれば今日のように半ば呆れた目線を壁みたいな息子達に向けながら、どこかでつまみ食いでもしているのではないか、とぼやく時もある。
ベアーテも兄くらい大きかったなら、と思う事は重い物を運ぶ作業の多い店の手伝いをしていれば幾度もあったけれど、小柄な母の影響が強く出たのか、背丈はいつもちょうど平均なのだった。
丸テーブルに勢ぞろいした一家は、卵液に浸して焼いた余り物のパン、甘いはちみつがたっぷりかかったご馳走をお腹いっぱい食べつくした。昨日はこれが塩気の効いた味付けで、それぞれ好みの焼き加減の目玉焼き付きであった。
食事が終われば子供達の成長によってすっかり狭くなった二階部分から押し合いへし合いしながら長兄が修行先のお店、残りの二人が軍の学校にそれぞれ出かけて行く。兄達は毎日お腹いっぱい食べているせいで、将来の職業選択における重要事項は、どうすれば食いっぱぐれのない暮らしができるだろうか、という一点であった。
それは厨房にいるか有事の際に最前線に立つ人間、と父に諭されて、下の兄達は軍の学校へ入ったのである。どうして長兄以外に料理人を勧めなかったのかと後でこっそり父に聞いてみると、あんなに大きい男が三人もいたら暑苦しいし仕事場に収まらない、という理由であった。そのおかげで、ベアーテ自身はまんまと自分の希望通りの場所に入り込んだのだった。
残ったベアーテもお店に降りて行って、テーブル拭きをよいしょよいしょと、腕を伸ばしても半分より少し向こうまでしか届かないのに苦戦していると、タイミング良く反対側から伸びて来た別の手が濡れ布巾を受け取った。
「やあ! ベアーテおはよう」
「おはよう、フェイリム」
やあやあ、と今日も元気なフェイリムが協力してくれたので、テーブル拭きを手早く終わらせる事ができた。友達なんだから手伝って当たり前、と彼は言ってくれるが流石に申し訳なく感じていたところ、父がお隣さん一家が食事に来た時に色々とサービスしてくれる事で先日話がついたところであった。彼は骨付き揚げ鶏の本数をおまけしてもらえるので嬉しい、と増々熱心にやって来るようになった。
しかし今日に限っては、教会に呼ばれているので後で遊ぼうね、という報告である。二人は店の外に行って、ゴミや落ち葉が散らかっていないかをどうかを確認する作業に移った。
「ああ、そっか男の子は今日か」
男女別で十歳の子供が教会に集められて、身体検査や読み書きの習熟度の確認と、それから王立の機関からの要請で、魔術師の素養があるかどうかを調べる検査が行われる。
ベアーテの兄も通っている軍の学校に入りたがっているフェイリムは、教会から健康状態に特段の異常は見当たらない、という一枚の紙きれをもらうために今日は必ず行く必要があった。数日前にあったベアーテの時も午前中には終わったので、その後で一緒に遊ぼうと約束をした。
「ところで魔術師の検査っていうのは何か知っている? ベアーテ」
「なんかね、水晶玉を触って、素質があるときらきら光るらしいよ。私がいる間に合格した人は子はいなかったから、見たわけじゃないけど」
絵本の中には割と頻繁に出て来る魔法使いは、現実で魔術師と呼ばれている。彼らは、大きな街の検査で一人見つかれば御の字、と非常に希少な存在であった。不思議な銀の髪を持ち、真っ黒な外套を着こんでいるらしいという話だが、本物がお店に揚げ鶏を食べに来たことは一度もない。
何故なら彼らは昔の騎士のように国王陛下直属という身分を得て、かなりの報酬を約束されるためだ。なれる人間が少ないので、才能があるとなれば平民出身でも貴族のように豪勢な暮らしができるらしい。
逆に言えば一人しかいない跡継ぎ息子だろうと、適性があるとされればほぼ強制的に魔術師としての職務に励むのが、納税や労働と並んで、この国に住む者の義務とされていた。
彼らは北の山脈とその一帯に広がる≪魔の森≫から恐ろしい怪物が出て来ないように特別な魔法でぐるりと囲み、人々の暮らしと豊かな土地を守っている、らしい。
市井の人々より恵まれた暮らしを提供されるけれど、魔術の行使というのは危険を伴う側面もある。容姿や性格が後天的に変じ、果てには人でない生き物になってしまうとか、信じがたい恐ろしい噂もいくつかあった。
ベアーテは手が止まらないように気を付けながら話をしているうちに、厨房の奥に父がやって来るのが見えた。もうこんな時間、とフェイリムは慌てて出発し、ベアーテも残りの準備を終わらせて手伝いに入った。
「……どうしたベアちゃん、相棒はまだ帰って来ないのかい?」
「そうみたい、男の子は時間が掛かっているのかな」
お昼の忙しい時間帯を過ぎても、フェイリムはまだ戻って来なかった。なんとかお店の混雑を切り抜けたベアーテは店前に用意されている椅子に座って、今にも一雨降り出しそうな空を見上げる。食事を終えた常連さんや持ち帰りの人と話しながらずっとそこにいたのに、とうとう親友はやって来なかった。
どうやらフェイリムが、教会で問題事を起こして留め置かれたままになっているらしい事を、その日の夕方になってようやく知った。