08 令嬢、幼女を背に庇う
男と私たちの距離は三メートルもないだろう。私とリーゼの足では、大柄な男から逃走することは難しい。私はそっと袖に触れ、護身用のカードに手をかける。手を後ろにまわしている今、男の視線からは私の身体で隠れている。
カードに刻んであるのは火系統の初級魔法だ。こぶし程度の大きさの火球を飛ばすことしかできないが、当たれば多少は怯むはず。その隙にリーゼと一緒に逃げるしかない。屈強な男と戦っても私の勝ち目はないだろう。
私の心臓は痛いくらいに早鐘を打つ。魔法で人を傷つけることが私にできるだろうか。私がリーゼを守らないといけないのに……。
「お前、さっきから酷い顔をしているな。おとなしくこっちへ来たらどうだ」
いやらしい笑みを浮かべながら、男は私たちに近づいていく。私は袖からカードを引き抜いた。指先からカードに魔力を注ぎ込む。男に気づかれないように魔法の準備を進めた。
「お断りします。あなたこそ、私たちに近づくのを止めていただけませんか?私たちに用なんてありませんよね」
「お前、何言ってんだ?」
「あなたは店員さんではないですよね?いえ、例え店員さんであったとしても、お客を追いかけまわすなんておかしいです」
私は言葉を切り、呼吸を整える。男への恐怖を隠せず、早口で話してしまったことを少し後悔した。私たちは男の獲物だ。狩人に弱みを見せるわけにはいかない。
「あなたはどういうつもりなのですか?」
小心者な私をごまかすように挑発的に言い捨てる。
男が「どういうつもりって、言われても……」ともごもごとつぶやく。私には訝しげな視線を向けてきた。
「お前こそ、どういうつもりなんだ。店をのぞきに来たんじゃないのかよ」
「ええ、そのつもりでした。大切な友人に送るプレゼントを探していたんですよ?……このお店、素敵ですよね。物語から飛び出してきたようなシックな雰囲気が実に私好みです」
背中に隠したカードに少しづつ魔力を流し込む。私の魔力を刻んだカードの構成は複雑だ。ただの初級魔法であっても発動までに時間がかかる。少しでも私は時間を稼ぐつもりだ。
もう一方のリーゼとつないだ手は小刻みに揺れている。リーゼは何も言わず私に庇われたままだが、やはり怖いのだろう。
「店が気に入ったのなら、とっと入れよ」
男の不満げな声が空間を切り裂く。私が立ち止まったので、男も距離を保ったままだ。
「実は友人に送る花はもう決めているのです」
背中越しに「えっ」とリーゼの声が聞こえた。サプライズで連れてきたはずの私が、送る花を既に決めていることに、リーゼは驚いた。
私がエリアルを傷つけたのは、エリアルからの信頼に答えられなかったからだ。私はエリアルを信頼しているし、大切にしたいと思っている。その気持ちを花に込めて伝えたい。
「本当かよ!?」
「本当よ!」
男は胡散臭そうに私を見る。初対面の私たちに対して、不審な行動をする男になぜ嘘つき扱いされなければならないのか。時間稼ぎの会話であることを忘れ、言い返していた。
「私は友人を信頼しているし、大切に思っている。そんな気持ちを伝えたい……。私の送りたい花がわかりますか?」
「はぁ、そんなの知るわけないだろ」
「あら、あなたは店員さんなのでしょう?おかしいですね、ヒントはたくさん出ているはずなのですが?」
私は芝居がかった声を出す。店員ならば花言葉に思い至らないはずがない。男の言い淀む姿から、男が店員でないと私は確信した。
「本当にわかりませんか?」
「ちっ、わかるかよ。……けれどよ、俺にだってわかることがあるんだぜ」
私の挑発に一瞬驚いた様子を見せた男だが、すぐに不敵な笑みを浮かべる。
「お前こそ、俺が気づいていないと思っていたのか?」
「何を言っていますの?」
男の問いに、私は小首をかしげた。
「そろそろ準備ができたんじゃないのか?」
「だから、あなたは何を言ってますの?」
「お前が背中に隠してるカードのことだよ」
ああ、バレている。男の言葉が聞こえた瞬間、私の息が止まった。男に向けて魔法を発動させるべく、カードを突き出したのは、私の意地だ。
男はやはり荒事に慣れていたのだろう。私と男との間にあった距離は瞬く間になくなり、眼前にいやらしい男の笑みが広がっていた。
「お前は気づけていなかったようだがな」
男は私のカードを掴み、顔を扇ぐ。私はようやく自分の勘違いに気づく。私に勝機ははじめからなかった。ただ男に遊ばれていただけだ。
「……見逃してはいただけませんか」
小刻みに震えだしそうな身体を叱咤し、私はつぶやく。
「私になら、何をしてもかまいません。だから、リーゼには何もしないでいただけませんか?」
この男に慈悲を求めても無駄かもしれない。それでも、言わずにはいられなかった。リーゼの「ルティお姉ちゃん!?」と私を呼ぶ声が聞こえたが振り向けなかった。
どうかお願いします、と私は頭を下げる。リーゼを守るどころか私自身を守ることもできないのが悔しくて悲しい。涙だけは見せまいとまぶたで蓋をし、必死に耐えた。
男は「な、何してんだよ」と、戸惑うように身じろぎする。
私もリーゼも、そして男も数十秒の間沈黙した。いたたまれない空気が漂い、誰もが居心地の悪さを感じた。
「あんたたち、一体何をしてるんだい!?」
困惑した女の声が聞こえて、三人の視線が集中する。女は「な、なんだい?」と顔を引きつらせた。
「フローラ!やっと帰って来てくれたのか!」
男は破顔して女に歩み寄ると、猛牛のような体全身で抱きしめた。先ごろまで私に向けていたいやらしい笑みは霧散し、子供のような笑みを浮かべていた。
「頼むから、こいつらをどうにかしてくれ!」
「ゲーベル、あんたは店番もできないのかい……?」
女はあきれたようにつぶやいた。そして、私とリーゼを見て眉根を寄せた。
「……ゲーベル、あんたはこの子たちを泣かせて何をしていたんだい」
女の顔は憤怒でゆがんでいて、熊のような男をにらみつけた。男は「ひっ……」と小さな悲鳴をあげ、ピクリと肩を跳ねさせた。
「いや、俺は悪くない。……そうだ、俺に悪いところは一つもない。俺は声をかけて、そばに来るように言っただけだ。店番としては当然だろ」
「そう。それでどうして店の外に出てきたわけ?店番なら、店内にいるのが当然でしょ。この子たちが盗みでもした?」
「そ、そんなことしてない。店の中に入ってもいなかった」
男は早口で言う。女は冷たい瞳で見るばかりだ。
「ふーん。それで、あんたが掴んでいるカードは何だい?」
「あ、いや、これは、何でもないんだ」
一瞬言い淀む男の様子を見て、女は華やぐような笑みを浮かべる。
「ゲーベル、あんたとは話し合いが必要みたいね」
男の背中がやけに小さく見えた。
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