42 令嬢、熊男の配慮に感謝する
「ルティ、すまない」
ゲーベルはつむじが見えるほどに深く頭を下げる。膨れあがる恐怖に支配された私は、息も絶え絶えになりながら見つめていた。まるで私の体でなくなってしまったかのように、下半身には全く力が入らなかった。
両手を床につき、倒れないように体を支える。背筋を伸ばして顔をあげたのは、ちっぽけな私の意地だった。
「ゲーベル様、ですよね?」私は震え声で訊ねた。
「……そうだ。……すまない、ルティ。俺は、またお前にひどいことを……すまなかった!」
ゲーベルはしどろもどろに言う。頭が床につくのでは、と心配になるほどに体を折り曲げた。
痛いほどに脈打つ胸を鎮めるように、私は深く深呼吸をする。強張った体から、少しずつ力を抜いていった。
「……ゲーベル様で、良かった」
私が安堵を含んだ声を出すと、ゲーベルが勢いよく顔をあげて目をしばたかせる。戸惑いに満ちたゲーベルの顔を見て、私の引きつった顔はいくらか緩んでいった。
「ゲーベル様でなかったら、私も、リーゼも、どうなっていたことか……。だから、謝らないでください」
ぎこちない笑みを私は浮かべる。フローラの事件に関わるならば荒事は避けられない、とわかっていたはずだ。俯く資格は、私にはない。
「……そうだな、ルティの言う通りだ。俺で良かったな」
考え込むように天井を仰いだゲーベルは大きく息を吐き出す。穏やかな笑みを浮かべると、私の正面であぐらをかいた。
私から奪ったカードを、ゲーベルは突き出してくる。もう一方の手で顔を掻きながら、気まずそうに私から目を逸らした。
両手でカードを受けとった私は、そのまま胸元に抱き寄せる。まぶたをギュッと強く閉じ、気持ちを落ち着かせていく。
数秒間、目を閉じた後、私は振り返ってリーゼを探す。涙を拭いもせずに立ちつくすリーゼを見つけ、私は目を見開いた。
「……リーゼ、こっちに来て、もう大丈夫だから」
顔を俯かせて唇を噛み締める痛々しい姿のリーゼに、私は震え声で呼びかける。私の声が届いていないのか、リーゼの瞳に私が映ることはなかった。瞳に涙をあふれさせたリーゼは、ただゲーベルをにらみつけていた。
「リーゼ、どうしたの?……リーゼ!」
私は何度もリーゼを呼ぶが、リーゼは何も答えてはくれなかった。抱きしめてあげたい、と望んでも私の足はピクリとも動こうとはしなかった。
たった数歩の距離が、永遠に思えるほどに遠い。力任せに私は、太ももに右こぶしを叩きつけた。
二度目のこぶしを振り下ろした瞬間、私のこぶしをゲーベルが受け止めた。私に向かって身を乗り出したゲーベルは、小さく首を左右に振る。ゆっくりと私のこぶしは下ろされていった。
呆然と見上げる私に、ゲーベルは微笑む。「ルティ、俺に任せてくれ」とゲーベルは言うと、素早く立ちあがった。
私の頭を一撫ですると、リーゼに向かってゲーベルは歩き出す。ゲーベルを止めようと伸ばした私の右手は宙を掴んだ。
「俺が憎いか?」
ゲーベルが言い捨てた瞬間、リーゼの体がピクリと跳ねる。私は動かない体を引きずるように、右手を精一杯に伸ばした。
「……違うよな?お前が憎いのは、かっこわるいお前自身、違うか?」
ゲーベルがリーゼに訊ねる。表情をクシャクシャに歪めたリーゼは、顔をあげてゲーベルをにらみつけた。
「お前は、ルティを守りたかったんだろ?でも、逆にルティに守られた。……かっこわるくて、泣きたくもなるよな」
優しく話しかけながら、ゲーベルは両膝を折り、リーゼと目線を近づける。涙が零れることも忘れ、リーゼは目を大きく開いた。
「まして、ルティはお前よりも明らかに弱い」
私は伸ばしていた手を力なく下ろし、顔を俯かせていく。ゲーベルの言わんとすることを察した私には、リーゼを直視できなくなった。
リーゼの「……止めてよ」と懇願する声が、私の胸を激しく締めつけた。
「騎士失格だったな」ゲーベルははっきりと告げた。
「ちがう、違うもん!……違うの、ちがうの、ちが、う……」
感情を爆発させたリーゼの声は次第に弱まっていく。弾かれたように顔をあげた私は、どれほど情けない顔をしていたのだろうか。
一瞬だけ私に視線を向けたリーゼの表情は、酷く歪んでいった。リーゼの瞳から涙が一気にあふれ出した。
「そのとおり、違うんだよ」
ゲーベルは強く両手を叩きつけ、甲高い音を響きわたらせる。私とリーゼの視線がゲーベルへと向かった。
「お前は、これからの騎士だ。ルティを守れなくて、悔しいと思えるならば、騎士を名乗る資格は十分にあるさ。……小さいお嬢ちゃん、どうなんだ?」
ゲーベルは穏やかな口調でリーゼに訊ねる。リーゼは涙をこぼしながら「悔しいよ!」と声をあげた。
「そうか……それなら、小さいお嬢ちゃんはもっと頑張らないといけないな。次は、俺に負けるなよ、俺を倒してみせろ。そして、ルティを守って見せろ、いいな?」
リーゼは大きくうなずくと、その場に座り込む。抑えが効かなくなったのか、火がついたかのように激しく泣き叫んだ。
泣き出したリーゼに声をかけることなく、ゲーベルはじっと見つめる。私は頬を濡らす涙を、静かに拭い続けた。
「ゲーベル様、ありがとうございました」
泣き疲れて眠ってしまったリーゼを寝室に運び込んだ後、廊下に出た私はゲーベルに深く頭をさげた。
「ルティ、紅茶は淹れられるか?」
ゲーベルは優しげにつぶやくと、私の頭を一撫でする。思わずのぞき見た私に向かい、ゲーベルは揶揄うように笑うと、「あのメイドがいたら怒鳴りつけられてたな」と大げさに肩を竦ませて見せた。
私とゲーベルは顔を見合わせて笑い合った。
「ゲーベル様、私に紅茶を淹れさせて下さいませ」
「ああ、頼む。……それで、貸し借りなしといこうぜ」
紅茶にはミルクたっぷりで頼むぞ、とゲーベルは楽しげに言う。私を先導するように、ゆっくりと歩き始めた。
私はゲーベルの背中に向け、もう一度深く頭をさげる。小走りでゲーベルを追いかけた。
「なかなか美味いじゃないか」書斎で私を待っていたゲーベルが微笑んだ。
私がテーブルにティーカップを置いた瞬間、ひったくるようにゲーベルは掴みあげる。勢いよく紅茶を飲み干した。
空になったティーカップを、ゲーベルは得意げに掲げる。言葉以上に、弧を描く頬が雄弁に語っていた。
小さく噴き出し笑いをした私は、受け取ったティーカップをトレイに乗せる。足どりも軽く、調理場へと歩き出す。背中越しに「ルティの分も、淹れてきていいんだぞ」とゲーベルの声が響いた。
トレイに二つのティーカップを乗せ、書斎へと私は足を踏み入れる。満面の笑みで私を出迎えるゲーベルに、私は困ったような笑みを返した。
ゲーベルは左手でトレイを私から奪うと、右手の人差し指で私の額を小突いた。
「フローラも、相手がルティなら文句も言わないさ。……ありがとな」
私の席を用意していたのか、ゲーベルは私の分のティーカップを置くと、真向かいに座る。一拍遅れて、私も席についた。
本当にいいのだろうか?
ゆっくりと紅茶を飲みながら、ゲーベルはやわらかく笑う。窺い見る私は、恐るおそる紅茶を口にした。
まろやかなミルクの味が口一杯に広がっていく。人心地をついた私は、深く息を吐き出した。
「美味いだろ?」
ゲーベルはティーカップを小さく持ち上げ、穏やかな口調で訊ねる。私は小さくうなずき、紅茶をもう一度口にした。
私とゲーベルは同時にティーカップをテーブルに置いた。
「先日、別れた後のことが聞きたいんだよな?」
紅茶を見つめたまま、ゲーベルはつぶやいた。
「予想はしていたが、俺は香水店には行けなかった」ゲーベルは言い放った。
「どうしてですか?あんなにわかりやすく香りを出していたのに……」
私が首をかしげると、ゲーベルが顔をあげて私を見やる。言い淀むように開いた口を閉じ、ゲーベルは小さく首を左右に振った。
「ゲーベル様?」
「ルティ、本当にこのまま力を貸してくれるのか?わかっているだろうが、危ない橋を渡ることになる。……別に、無理をしなくてもいいんだぞ」
ゲーベルはゆっくりと諭すように言う。真剣みを帯びたゲーベルの瞳に、私の姿が映りこむ。瞳の中の私は微笑んでいた。
同じことをリーゼに訊ねたな、と私は思い起こす。ゲーベルの瞳の中に、リーゼの姿が見えた気がした。
「無理なんてしていません。だから、心配なんて必要ありません。ゲーベル様に理由があるように、私にも、ちゃんと理由があるんです」
私は得意げにウィンクを送る。ゲーベルは口元をヒクヒクと動かしながら、肩を揺らしていく。口から小さく噴き出し笑いしたことを皮切りに、声を出して笑い始めた。
「そうか、そうか。ルティにも、理由があるんだな。それなら、かまわないか」
笑い混じりに、ゲーベルはひとりごちる。自身の膝を何度もたたき、肩を大きく揺らしていった。
私は目をパチクリさせながら、ゲーベルを見上げた。
「ルティ、お前は覚悟を決めているんだな」
私とゲーベルの視線が絡まった瞬間、ゲーベルは笑みを消し、目をとがらせる。冷たい口調で言い切った。
小さく息を吸った私は、ゲーベルを真正面から見返した。
「私にも、退けない理由があります」私は言葉に想いをのせた。
「……俺は、退くことを勧めるぞ。今なら、まだ何とでもなる。……だが、俺の勘が正しければ、進めば戻れなくなる。本当にいいんだな?」
ゲーベルは念押しするように言葉を重ねる。威圧するゲーベルの瞳を、私はにらみつけた。
「退くわけにはいかないんです」
エドモンド様の隣に立ちたい――私自身の欲を否定したりはしない。でも、それは一部でしかない。私を信じてくれたエリアルと、私を守ると言ってくれたリーゼ。ちっぽけな背中を押してくれた二人に、私は応えたい。
「……なるほどな、確かに悪くない。あいつの言う通りだな」
ゲーベルは小さくつぶやくと、私に穏やかな笑みを見せる。椅子から立ちあがり、私の隣に向かって歩き出す。
椅子に座ったままの私は、首を後ろに大きく傾けてゲーベルを見上げた。
「ルティ」
ゲーベルが私を呼ぶ。私は体をゲーベルへと向き直した。
「誰かに言われたからじゃない。……俺が、俺自身で決めた。俺にも、お前を守らせてくれ」
片膝をつけたゲーベルが私の右手をとる。戸惑う私に一つ微笑むと、手の甲にゲーベルは額を押し当てた。
私の言葉を待っているのか、ゲーベルは頭を伏せたまま動かない。私は左手を強く握りしめた。
「ゲーベル様、私を……いえ、私とリーゼを守ってくれますか?」
ゲーベルの体が小さく跳ねる。私の願いをゲーベルはどう思ったのだろうか。見下ろす私には、ゲーベルの表情を窺うことはできなかった。
「約束しよう、ルティも、小さいお嬢ちゃんも、俺が守って見せる」
「……ゲーベル様、ありがとうございます」
力強く宣言すると、ゲーベルは立ちあがる。頭をさげる私を横目に、テーブルの上に置かれたティーカップに触れ、ゆっくりと紅茶をあたためていく。
やさしい香りに私は顔をあげる。悪戯っ子のように笑うゲーベルを見やった。
「いろいろと話すことはあるが、とりあえず紅茶を飲んでからにしようぜ」
「……そうですね」
自分の席に向かって歩き出すゲーベルを見ながら、私は紅茶を口にする。紅茶の熱が体に行き渡っていくにつれ、私の心まであたたかくなっていった。




