40 幼女父、把握する
リーゼのお父さん視点です。
父:クロード
母:エレーナ
「話がある、そう聞いたがどうしたんだい?」
夜のとばりが下りた頃、エレーナの私室を訪ねた私は、穏やかな口調でエレーナに話しかける。私を泣き出しそうな顔で出迎えたエレーナは、私にソファーへ座るように促した。
ソファーに腰かけた私に向かい小さく頭をさげ、エレーナは私と隣り合って座る。私を潤んだ瞳で見つめると、口をまごつかせて顔を俯かせた。
私はエレーナの頭に軽く触れ、二度三度と優しく撫でる。エレーナは小さく身じろぎしたが、私には手を離すつもりがなかった。
沈黙は数分間だろうか、エレーナが私の体に額を押し当ててきた。
「クロード様、リーゼが、リーゼが……」
エレーナは震えた声で、リーゼの名を呼ぶ。縋るように私の服を強く掴み、エレーナは顔を押し上げる。私はエレーナの頭から背中に手を動かし、そっと抱き寄せた。
「リーゼがどうしたんだい?エレーナ、教えてくないか?」
私はもう片方の手でエレーナの髪を掻き上げると、エレーナの額に唇を落としていく。私の服を掴む手が緩むのを感じた瞬間、額から唇を離し、呆けた表情のエレーナに口づけた。
驚きのあまり目を大きく開く姿が愛おしい。困ったように笑みを浮かべて目を閉じたエレーナに、私の表情はだらしなく緩んでいく。エレーナに倣うように、私もゆっくりとまぶたを閉じる。
エレーナの両手はだらりと下ろされていった。
十数秒後、小さく首を振ったエレーナに合わせ、名残惜しさを感じながらも私は唇を離した。私とエレーナの視線が交わっていく。エレーナは唐突に声を出して笑い始めた。
「エレーナ?」
「だって、クロード様に、そんな顔をされたら……」
エレーナは言葉を切ると、悪戯っぽく微笑み出す。私の服を掴んだ瞬間、身を乗り出したエレーナが一瞬だけの口づけを私に贈った。
「クロード様、私もお慕いしております」
満開の笑みを見せるエレーナを、気恥ずかしさを覚えた私は顔を横に向ける。エレーナは「こっちを向いてください」と弾んだ声を出すが、私は顔を大きく背けていった。
エレーナは楽しげな口調で「紅茶をご用意しますね」と一声かけ、部屋の外へと出ていく。
愛しい妻が戻ってくるまでの数分間、私は必死に火照りを冷まそうと首を振り続けていた。
私とエレーナはテーブルを挟んで向き合ってソファーに座り、二人そろって紅茶を口にする。ふぅ、と小さく息を吐き出したエレーナは、気合の入った表情を私に向けた。
「リーゼが、犯罪に巻き込まれようとしています」
エレーナがはっきりとした口調で告げる。私は紅茶を飲もうと持ちあげていたティーカップをテーブルへと置き直した。
「エレーナ、それは本当か?」私は短く訊ねる。
「……私は本当だと思っています。リーゼは、王太子妃様にそそのかされている、そうに違いありません」
一瞬、悩むそぶりを見せたエレーナが言い切る。エレーナの澄んだ瞳が一心に私を見つめていた。私は口元に手を当て、エレーナの言葉を少しずつ噛み砕いていった。
最近、王都では不可思議な事件が頻発しているが、そのことをエレーナは言っているのだろうか?エレーナやリーゼが巻き込まれることは、私も懸念しているが……なぜ王太子妃が出てくる?
私は眉間にできたしわを揉み、エレーナに訝しげな視線を送った。
「王太子妃がどうして関係する?犯罪に手を染めるほど、愚かではなかったと思うのだが……」
「違うのです、クロード様」
表情を曇らせたエレーナが首を左右に振る。胸元に引き寄せた右手首を、エレーナは左手で掴み目を伏せた。
「王太子妃様は、事件を解決されようとしています。それに、リーゼを巻き込もうとしているのです」
震えた声でエレーナは言い切る。感情を抑えきれないのか、エレーナの右手は強く握りしめられ、表情は悲しみで彩られていく。悲しみと怒りが混ぜこぜになった瞳は大きく揺れ、涙の膜がうっすらと輝いていた。
エレーナは「どうしたらいいのでしょうか?」と蚊の鳴くような声でつぶやいた。
「難しい質問だな……」
私は小さくつぶやくと、ソファーの背もたれに体を預ける。顔を上に向け、目を閉じた。
犯罪への協力を求められている、そうであったのならば仮に全てを失うとしても私とエレーナはリーゼを止める。だが、事件解決への協力――正当な理由での助力要請をどうして断れるだろうか。
スターチス王国では、王の不在時は王妃が統治するのが習わし。ならば、王太子が不在の今、不確定とはいえ王太子妃に従うのは当然のことだ。王太子の承認があればの話だが……。
「正式な書状は届いているのか?」
私が訊ねると、エレーナは首を振る。泣き出しそうな顔で、エレーナは私を見上げた。
「リーゼがとても嬉しそうな顔で『騎士として、私が守るんだ』って、そう言うんです。……私、リーゼから話を聞いて、証拠品を調べていたら、どうしていいかわからなくなって……」
しどろもどろに話すエレーナは両手で顔を覆う。私は表情を歪め、体を震わせてすすり泣くエレーナを見つめる。リーゼを巻き込もうとする王太子妃への怒りが、ふつふつと沸きあがっていく。
私は気持ちを落ち着けるように、大きく息を吐き出した。
「証拠品があるのか?」
私は努めて穏やかな口調でエレーナに訊ねる。小さくうなずいたエレーナは「香水です」と涙まじりにつぶやく。目を見開いて私は固まっていた。
思考が再起動を始める頃には、私の中で燻っていた怒りの炎は急速にしぼんでいた。
「エレーナ、その香水について教えて欲しい」
私の震え声を訝しく思ったのか、エレーナはおずおずと顔をあげた。
「クロード様……?」
「香水について教えて欲しいんだ。エレーナが確認したのだろう?」
戸惑うエレーナに私は微笑みかける。宙にぼんやりと浮いたエレーナの両手を、私の両手で包み込んだ。
視線を両手に向けた後、エレーナは表情を緩めて私を見つめ、一度うなずいた。
「リーゼが持ってきた香水には……毒が入っているんです」
エレーナは意を決して言い切った。
「とても危険な、その日のうちに激痛に苛まれて死に至る、恐ろしい毒です」
「恐ろしい毒か……」私はおうむ返しに繰り返した。
「でも、その香水に含まれている毒は無効化されているんです。だから、使っても死ぬことはありません。……リーゼや王太子妃様が生きているのも、それが理由なんです」
エレーナが悲しげに告げた言葉を理解した瞬間、私は目を剥いた。
「待ってくれ!リーゼと王太子妃は香水を使ったのか?」
「……リーゼからは、そう聞いています。私が預かった香水は二本なのですが、一本は使われていました」
表情をくしゃりと歪めたエレーナは頬を涙で濡らす。私は両手に力を込め、エレーナの両手を強く握り締めた。
「リーゼの体は大丈夫なんだな?」
私が訊ねると、エレーナは「はい」と泣き笑いを浮かべてうなずく。私は安堵からかため息を一つついた後、エレーナに微笑み返した。
すぐに表情を引き締め、私は口を開いた。
「毒が無効化されている理由はわかったのか?」
「……恐らく、ですが」
迷いがあるのか、エレーナの表情は苦しげに歪んでいく。私はエレーナと繋がる両手を軽く持ち上げ、エレーナに話の先を促した。
「香水の使用者を人形に変えてしまうためだと、私は思います」
「……どういうことだ?」
「誰かの意のままに動かさてしまう、ということです。人形は自分の意思で動いたりはしません。誰かが腕や足に繋がった糸を引くから動くんです。……人には意思があるので人形と同じとは活きませんが、腕を動かさないといけない、と働きかけることはできると……思うのです」
不安で染まったエレーナはかすれた声を出す。私は眉間にしわをつくったまま、思考を巡らせていった。
エレーナの話す香水の効果は、夕方にアレクセイが語っていたものと酷似している。無関係とは言えないだろう。
本当に人の心を誘導できるならば、王都で事件が頻発していることにも説明がつく。何者かが、件の香水を使用して事件を起こすように命じたと考えられる。……この一週間に起きた事件を全て見直す必要があるな。
私は視線をエレーナに向ける。エレーナは沈痛な面持ちで私をのぞき見ていた。
「エレーナ、私は君が優秀な魔法士だと知っている。その君から自信を失わせているのは、いったいなんだい?」
努めて穏やかな口調で私は訊ねる。エレーナはわかりやすくキョロキョロと視線を揺らし始めた。
「エレーナ」私は愛しい妻の名を呼んだ。
「それは……香水の成分から考えれば、私の見立ては正しいはず……。でも、人の心に干渉するなんて……」
エレーナは歯切れ悪く答えた。私と目を合わせられないのか、エレーナの瞳の揺れは大きくなっていく。
人の心を操作する魔法は存在しない――スターチス王国に限らず、魔法を知る者の一般常識だ。人の体を構築する魔力路は複雑怪奇であり、常に変動を繰り返す。魔力と心は互いに溶け合い、全身を循環し続けている。二つで一つとも言える魔力と心は引き離すことは不可能であり、心は常に魔力で守られている。
魔力の質に個人差があるとは言え、心と魔力の関係性だけは決して変わらない。例え、魔法適性の低い者に対してであったとしても、心に干渉することはできないとされている。……体から心を引き離す薬は存在するが、大罪人を処刑する以外の用途はないのだ。強引に魔力ごと体から引き離された心は、体に戻すことは二度とできず永劫にさまよい続けることになる。
私自身もエレーナの言葉でなければ『人形に変える』など信じたりはしないだろう。恐らく発言者の正気を疑うに違いない。
「心を体の外に追い出すのか?」
エレーナの言葉が正しいことを前提として私は訊ねる。驚愕を顔に貼りつけたエレーナと視線が交わった。
「違うのかい?」
「え、あの……外には出ません。体の中に、疑似的な魔力路が作られます。一時的ですけど、心がその魔力路に流れてしまうので、影響を受けることになります。例えばですが、香水を吸った際に腕をあげる魔力路が構成されたとすると、本人にその意思がなくとも腕をあげないといけない……強迫観念に駆られてしまうのだと、私は思います」
心を守る魔力を破るのではなく、体内に任意の魔力路を作るわけか。心を誘導することが限界ならば、精度自体はそれほど高くはないのだろう。不幸中の幸いかもしれない。
特定の日時に特定の人物を殺害する――詳細に条件を指定できるとするならば、国を揺るがすほどの脅威となったはずだ。いや、件の香水に改良の余地があるとすれば同じことか。
……犯人を捕まえ、聞き出さなくてはならないな。
黙り込んだ私を、エレーナは窺うようにのぞき見る。私は笑みを返すと、エレーナの両手を包むのを止める。私の手が離れた瞬間、エレーナは今にも泣き出しそうな顔に変わっていった。
ソファーから立ちあがり、悲しげに目を伏せたエレーナの隣に腰かけた。驚いて顔をあげたエレーナを、有無を言わさずに私は抱きしめる。エレーナの体は震えていた。
「私はエレーナを信じている」
エレーナの耳元で、たったの一言を伝える。それ以外の言葉は、ただの飾りにしかならないと思った。
想いを告げた瞬間、私の背中にエレーナの両手がまわっていく。何も言えずただ体を震わせるエレーナを、私は左手だけで強く抱き寄せた。
すがりつくエレーナの頭に右手を伸ばし、私は何度も撫でていく。エレーナの体温を感じながら、私は今後の方針を思い描いていった。アリウム侯爵は王太子妃の参戦を予測できただろうか。
嫉妬のあまり他の令嬢を威嚇していた王太子妃の姿を思い出し、私は心の中で嘲笑う。予測などできるはずがない。侯爵が描いた盤上に、王太子妃の駒などありはしない。
王都伯である私は、不確かな状況では動けない。だが、誰にも期待されていない王太子妃ならば別だ。王太子妃は自由に行動できる。そして、私と王太子妃には、接点のない私たち二人を繋ぐ存在――リーゼがいる。
小さく笑った私は、ふいにテーブルへと視線を向ける。冷めきった紅茶の液面に、楽しげに笑う私の顔が映っていた。
読んでくださってありがとうございます。




