37 令嬢、幼女に触れる
「……死ぬ?」
呆けた私は、現実味のない言葉を口にする。
リーゼは立っていることすら辛いのか、その場で座り込んだ。二人で持っていた香水瓶から、リーゼの手がするりと抜け落ちていく。リーゼの瞳からこぼれた涙が、床を濡らしていった。
私とリーゼが死ぬ。どこか他人事のような言葉が染み渡っていくにつれ、私は顔をしかめていた。
……何を馬鹿なことを言っているの?私も、リーゼも、死ぬわけない。死んでいいわけがない。
ふつふつと沸き上がる怒りが、凍てつく体を溶かしていく。冬眠をしていた脳内の小悪魔な私も『死ぬわけないだろ』と起きがけに怒鳴り出す。私は小さく苦笑を漏らしていた。
私はリーゼに向かい合うように、両膝を床につけた。
「リーゼは、泣き虫さんね」
私は指先でリーゼの涙を拭う。まずはリーゼの右目、次に左目、もう一度右目に……。リーゼの涙が落ち着くまで、何度も何度も繰り返した。
リーゼのすすり泣きが小さくなる頃、私はポンポンとリーゼの頭をやさしく叩く。リーゼは伏せていた瞳を私に向け、両手でゴシゴシと涙を拭うと、泣き笑いを浮かべる。どこかすっきりとしたような笑みに、つられて私も微笑んでいた。
「リーゼはもう大丈夫。もう泣かないもん」
もう一度だけ目元を拭ったリーゼが宣言する。座り込んだまま両手を腰に押し当てると、精一杯に背伸びをして見せた。
「本当かしら?」
「本当だよ!」
揶揄うように訊ねた私に向かい、リーゼは口元を尖らせる。リーゼの声に張りが戻っていくにつれ、クシャクシャに歪んだ表情も少しずつ柔らかさを取り戻していった。
私は香水瓶を床に置くと、リーゼと膝をつき合わせる。一つ息を吐いた私が真っすぐにリーゼを見つめと、リーゼも負けじと私を見つめ返してきた。
「リーゼ、教えてくれる?」
私がつぶやくと、リーゼは大きくうなずいた。
「お母様はね、とっても魔法が得意なの。だから、お父様のお仕事をよくお手伝いしているの」
唐突なリーゼの言葉に、私は首をかしげる。どこか誇らしげな笑みをリーゼは浮かべた。
「お父様はね、この街を守るとってもかっこいい騎士なの。リーゼもお母様も、そんなお父様が大好きだから、お母様と一緒にリーゼもお父様を応援しているの。リーゼは魔法が上手だもん」
「……リーゼもお手伝いをしているのね」
要領の得ないリーゼの言葉を噛み砕き、確かめるように私は独り言ちる。
リーゼのお父様――ライラック伯爵様は王都の守護伯だ。王都の治安が安定しているとは言え、事件が起きないわけがない。
事件の調査を行う上で、解析魔法は欠かすことができない。犯人の痕跡を探索することはもちろん、毒物の成分分析も行うのが常だ。解析魔法に熟達している魔法士であれば、事件が起こるたびに、引っ張りだこな状態となる。
リーゼの魔法士としての才能を思えば、リーゼのお母様が優れた魔法士であっても驚くことではない。リーゼ自身にも期待が寄せられるのは、自然なことだ。
……リーゼが毒物について知っているのも、守護伯のお手伝いをしているからに違いない。リーゼの言葉どおりならば、私とリーゼが香水の毒を浴びているのは事実なのだろう。
一瞬だけ私はまぶたを閉じると、再度リーゼに目を向けた。
「リーゼは、香水瓶の毒について、どこまで知っているのかしら?」
「それはね……」
リーゼは逃げるように顔を背けて、言い淀む。表情が晴れから曇りへと、急激に移り変わっていく。私は「リーゼ!」と強い口調で名前を呼んだ。
驚きのあまり顔を私に向け直したリーゼの両頬を、私は両手で包み込む。限界まで目を開いたリーゼの瞳に、私の姿がくっきりと映りこんでいた。
「貴方は私の騎士様、違うのかしら?」
私は語気を鋭くしてリーゼを咎めると、リーゼは必死に首を何度も振る。勢いに流されるまま、私の両手はリーゼの頬から振り払われた。
「私は騎士だもん。騎士なんだもん」
「だったら、わかるわね。私は、貴方の姫は、覚悟を決めているわ。騎士様もそろそろ覚悟を決めなさい。私は本当のことが知りたいの」
「でも、だって……」
リーゼは唇を噛みしめる。不満を顔の至るところに貼りつけ、悔しさのにじんだ瞳で私を射貫いた。
「リーゼ、隠すことは優しさではないわ。例え傷つけるとしても、本当のことを話すことが、優しさとなることもあるの。私には、隠す優しさはいらないわ」
私は優しく言い聞かせるようにリーゼへ話しかける。くしゃりと表情を歪めたリーゼは、こぼれ落ちそうになる涙を閉じたまぶたで必死に堪える。リーゼの悲痛な姿を見た私は、言葉を続けられなくなった。
かけるべき言葉を見つけられずに、私は両こぶしをただ強く握りしめていた。
永遠とも思える数秒間が過ぎた頃、リーゼは重々しくまぶたを開いた。
「ゆっくりと体が動かなくなるの。手が動かなくなって、足も動かなくなって、何も見えなくなっていくの」
「すぐには死ねないのね」
言葉を発するほどに、リーゼの体の震えは大きくなっていく。リーゼは自分自身を守るように、両腕で体を抱きしめていた。
私は小さく息を吐き、知識の海に没入していく。リーゼが語る毒物に少しずつ当たりをつけていった。
「最後には、眠るように死ねるのかしら?」
私は薄ら笑いを浮かべながら、リーゼに訊ねる。首が捩じ切れてしまうのでは、と思うほどリーゼは激しく首を振った。
「体中が痛くなって、ずっと苦しみ続けるの。自分のことも、家族のことも、わからなくなって……最後は、一人ぼっちで死んじゃうの」
リーゼ自身を抱きしめた両腕に力がこもる。俯きそうになるたびに顔を押し上げているのか、リーゼの顔は小さく上下を繰り返した。
「……血もたくさん吐くのでしょうね」私はポツリとつぶやいた。
「血は、吐かないよ。でも、ずっとずっと痛い痛いって、泣いちゃうの」
顔を青ざめさせたリーゼは体を大きく震わせると、縋るように私を見上げる。こっそりと浮かべていた酷薄な笑みを私は消し、リーゼに優しく微笑んだ。
「ありがとう、リーゼ。……でも、ごめんなさい。リーゼには、嫌なことを思い出させたわね」
私はリーゼをそっと抱き寄せる。リーゼは私の胸に頭を押し当てたまま、肩を小さく跳ね上げた。
リーゼが実際に見たことだと、気づかれないとでも思ったのだろうか。どこか抜けているリーゼに、自然と頬が緩んでいく。
私自身が死ぬかもしれない――その残酷な事実を他人事としか受け止められない私は、どこかおかしいのだろうか。逃避するように、私は静かに瞑目する。
心とは裏腹に、妙に冷静な私の思考はどこまでも澄み渡っていった。
「リーゼ、もう少しだけ教えてくれるかしら?」
小さくうなずくリーゼの頭を、私は一撫でする。リーゼの両腕が私の背中にまわされた。
「毒の効果は、すぐ現れるのでしょう?それでいて、効果の持続時間は長い。……私の予想は外れているかしら?」
私はゆっくりと目を開く。視界の先で、目を見開いたまま固まるリーゼが、私を見上げていた。どうやら当たりのようだ。
「リーゼ、貴方、早とちりをしたわね」
私は安堵のため息をつくと、揶揄うように声を出す。私の言葉の意味を理解できないのか、リーゼは首をかしげて困り顔を浮かべた。
「……ルティお姉ちゃん、どういうこと?」
「私も、リーゼも、死んだりはしない。そういうことよ」
指先を私自身からリーゼへと向け直し、私は満面の笑みを浮かべる。数秒の遅れを伴って意味を理解したリーゼは「えっ、えっ」と呆けた声を出した。
困惑のままに、首をキョロキョロとリーゼは動かす。私は指先をリーゼの鼻先に押し当てた。
「リーゼ、貴方自身の言葉を思い出しなさい。その毒は即効性なのでしょう?それなら、私も、リーゼも、もう毒に当てられて苦しんでいないとおかしいわ」
リーゼにウィンクを一つ送ると、私は肩を震わせて笑う。口を半開きにしたまま、リーゼは固まった。
数秒後、リーゼは「ふぇ」と呆けた声をもらし、表情を赤らめさせる。断続的にリーゼの口から飛び出す呆けた声が、私の笑い声を大きくしていった。
「もう、笑わないでよ」リーゼは拗ねたような口調で言う。
「ごめんなさい、リーゼ」
笑いの余韻に浸りながら、私はリーゼの頭を撫でる。リーゼは私の手を払いのけると、顔を赤く染めたまま、私をにらみつけた。
私はちらりと振り払われて、所在なさげに漂う手を眺めた。
「死なないのは嬉しいけど、何も解決してないよ」リーゼは頬を膨らませた。
「そうかしら?香水瓶のことも、毒のことも、繋がったと思っているわ」
私は得意げな表情でリーゼを見やる。振り払われた手で床に置かれた香水瓶をつかみ、リーゼの鼻先に近づけた。
「リーゼ、貴方は、香水に入れられていた毒の名前を知っているのかしら?」
リーゼは香水瓶に押しやられるようにのけぞる。膨らんでいたリーゼの頬は急速にしぼんでいった。
「……わからない」リーゼは悲しげに首を振った。
「リーゼ、貴方は少し勘違いをしているわ」
一つため息をつくと、私とリーゼの視界を別つ香水瓶を床に置き、真正面から向き合った。
私は下ろした手で握りこぶしを作り、力を込めていく。乾きはじめた喉をゴクリと鳴らした。
「リーゼ、私はね、一方的に守られたいわけではないの。貴方に、一人で抱え込んで欲しくないの」
大きく息を吸い、私ははっきりとした口調でリーゼに告げた。
「騎士様に守られるだけの、そんなお姫様にはなりたくないわ」
「……ルティお姉ちゃん」
リーゼは蚊の鳴くような声でつぶやく。歯と歯がぶつかる不快な音を、何度も何度も響かせた。
「それとも、何もできない人形にでも、なればよかったのかしら?リーゼ、貴方はずいぶんと、残酷なことを望むのね」
「……何を、言っているの?リーゼは、そんなこと考えていない。考えたこともないよ。違うよ……違う!」
リーゼの震えた声は、悲しみから怒りへと色を変えていく。眉を吊り上げたリーゼは、表情を歪めて私をにらみつけた。
私は薄笑いを浮かべてリーゼを見下ろした。
「どうして、そんなにひどいことを言うの!リーゼは違うもん!」
「リーゼ、騎士様の役割とは何だと思う?」
激昂するリーゼに反し、私はゆっくりとした口調で訊ねる。
「心を守ることに決まっているよ!騎士はお姫様を守るの!」
「お姫様が騎士様を守ることは、許されないの?」
私は努めて穏やかな声を出す。リーゼは表情を強張らせた。
「リーゼ、恋愛小説のお姫様を思い出してみなさい」
唇を引き結ぶリーゼの頬に、私は右手を伸ばす。硬い表情をやわらげるようにさすった。
「お姫様は、騎士様のことを知りたがっていたはずよ。同じものを見て、同じものを聞き、同じものを感じる。好きな人のことを知りたいと思うのは当然のことなの。お姫様は、ただ騎士様に近づくことを望んでいたのよ」
恋愛物語における『承』の部分――お姫様が騎士様のことを知りたいと動き始めるのは、心が傾くからだ。愛する人への思いが、欠けていた心を少しずつ埋めていく。お姫様の抱える不安や孤独から、解放されていくことが多いのだ。
騎士様がお姫様の心を守った、そういうことなのだろう。
「でも、いつしか騎士様にも近づいて欲しいと願っているでしょう?それはね、騎士様の力になりたいと、お姫様自身が望んでいるからよ。騎士様一人でできることは限られているわ。だからこそ、お姫様は大切な人の、騎士様のために立ちあがるの。リーゼが読んできた物語でも、そうだったのではなくて?」
私はリーゼに微笑みかける。表情をやわらげたリーゼは、頬に当てた私の右手に自身の左手を重ねた。
恋愛物語における『転』の部分――騎士様に問題が発覚し、お姫様が問題を解決するべく行動する。どんなに完璧に見えたとしても、どこかしらに弱さを孕んでいるものだ。その弱さを受け入れ、一緒に笑い、一緒に泣く。
特別なことなんて何もない。ただ騎士様に寄り添い、お姫様にできることを成すだけだ。
現実でもきっと同じことなのだろう。お互いに寄り添い合うことで、バランスが保たれている。
誰かを好きになったのならば、その誰かにも私を好きになって欲しい。
誰かが助けてくれたのならば、その誰かを私も助けたい。
必ず私自身がしたことが返ってくるわけではない。それでも、私とリーゼならば……。
「リーゼに一人で抱え込まないで欲しいの。私にも貴方を守らせて欲しい」
リーゼが私を助けてくれるならば、私もリーゼを助ける。対等でありたいと望むならば、一方的に受けとるだけでいいわけがない。
孤独な私に手を差し伸べてくれたのはリーゼだ。私はリーゼの手を握りたい。
「私もリーゼと一緒に悩みたいの。リーゼ、私が隣に立つことを許してくれないかしら?」
私はリーゼの頬に当てた右手を下ろし、リーゼの瞳を一心に見つめる。リーゼに向けた私の言葉は、語尾に近づくほど震えていた。
リーゼは下がっていく私の右手を留めると、胸元へと引き寄せた。
「許すに決まっているよ。ルティお姉ちゃんは、リーゼが助けるから……だから、リーゼのことは、お姉ちゃんが助けて」
リーゼは両手で私の右手を覆いつくす。瞳を潤ませたまま、その表情に笑顔の花を咲かせた。
まだまだ頑張ります。
読んでくださってありがとうございました。




