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35 令嬢、幼女の心を慮る

 「ルティお姉ちゃん、その香水瓶に魔力を流したらダメ!」


 香水瓶に魔力を流した、と私が話すや否やリーゼが慌てた声をあげる。ベッドに隣り合わせで腰かけていたリーゼが急に身を乗り出し、私から無理やり香水瓶を取りあげた。私に奪われまいと、リーゼは胸元に香水瓶を抱きしめた。

 思わぬリーゼの行動に、私は「リーゼ?」と呆けた声を漏らす。私は戸惑いがちにリーゼへと視線を向けた。

 リーゼは香水瓶を隠すように身をよじると、顔を俯かせる。


 フローラの香水事件に関して、リーゼに説明している最中の出来事だった。

 青薔薇の香水でエリアルは感情的になり、リーゼは意識を飛ばしている。その事実を知っている私には、香水をもう一度試すほどの蛮勇は持てなかった。


 リーゼを不安にさせてしまったのだろうか?

 体を小さくさせたまま、リーゼは恐る恐る私を覗き見る。脳内の小悪魔な私がささやかなくとも、私のすべきことは明白だった。


 「リーゼ、心配してくれたのね。ありがとう」私はリーゼに微笑みかけた。

 「……怒ってない?」

 「怒るわけないわ。リーゼは、騎士様は私を守ろうとしてくれただけ……そうでしょう?」


 私はリーゼにウィンクを送る。リーゼは小さく噴き出し笑いをすると、私へと体を向き直した。


 「この香水瓶の魔法式がね、何だかおかしいの」


 リーゼは香水瓶にチラリと視線を向けると、困惑した表情を浮かべる。自信が持てないのだろうか、リーゼの声は萎れていた。


 「どういうことかしら?私もその香水瓶に魔力を流したけれど、何もおかしくはなかったわ」


 私は小さく首をかしげてリーゼに訊ねる。魔力を流した香水瓶は、青薔薇の香りを放っていたのだ。他の香水瓶と何ら変わりはない。

 香水店でのエリアルは、確かに感情的ではあった。ただ香水瓶を使ったときは、いつもと変わらない様子に思えた。香水瓶に何かがあるとは、私には信じられなかった。


 「魔法式の中にね、加熱式が組み込まれてるの」

 「加熱?」

 「香水瓶の魔法式は、香りの拡散だけでいいんだよ。それなのに、どうして加熱が必要なのかがわからないの」


 リーゼは表情をくしゃりと歪ませた。涙混じりの声で言い切ると、リーゼは唇を強く噛み締める。膝元に下ろされたリーゼの手は、握りこぶしを作っていた。

 魔法士の顔をのぞかせたリーゼに、私は小さく息をのんだ。魔法には絶対の自信を持っているだろう、リーゼが悔しげに顔を俯かせている。『香水瓶は関係ないわ』と口先から出かけた言葉は、霧散していった。

 私はゆっくりと息を吸い込むと、リーゼの左こぶしに右手を重ねる。私はリーゼと二人で、香水瓶を支え持った。


 「魔法式自体が間違っていることはない?魔法式を一般化して組み込むのだから、冗長な部分ができてしまうのは仕方のないことだわ」


 できるだけ穏やかな声で、私はリーゼに問いかけた。

 魔法に関して言えば、私よりもリーゼの方があらゆる面で優れている。技術も知識も私がリーゼよりも劣っているのは、疑いようのない事実だ。

 私が考えつくこともリーゼならば検討済みかもしれない――無駄なことしているのでは、と嫌な想像が沸き上がっていく。冷え込み始めた心を無視することはできなかった。

 それでも、落ち込むリーゼを放置する選択肢は、私にはなかった。


 「……間違いじゃない、と思う」リーゼは弱々しく首を振る。

 「わざと組み込んだ、リーゼはそう考えているのね」


 リーゼの肩が小さく跳ねる。数秒後、リーゼは躊躇いがちにうなずく。私の視線から逃げるように、顔を背けた。

 私はゆっくりとリーゼの指を香水瓶から外していく。リーゼは抵抗することもなく、香水瓶を手放した。


 香水瓶を手元に引き寄せ、上から下へ、右から左へと視線を動かす。逆さまにひっくり返して、再度確認していく。香水瓶の中を蒼い液体が流れていった。

 私は視線を天井に向けて香水瓶を掲げると、小さく息を吐き出す。左目を閉じて、私は思考の海に埋没していった。


 どうして『加熱式』を香水瓶に組み込む必要があったのかしら?魔力の少ない者も使いやすいようにするならば、『増幅式』を組み込むべきではないの。

 わざわざ魔法式の調和を乱したのだから、何か意味はあるのでしょうけど……。『加熱式』はリーゼの勘違いで、実は『増幅式』だったりするのかしら?


 ハッとした私は疑惑を振り払うように、強く頭を振った。

 リーゼを信じるのは、私の大前提だ。リーゼまでをも疑い始めたら、私は寄る辺を失い迷子になってしまう。

 私は下唇を強く噛み締める。痛みを耐えるように、右まぶたを下ろし、左目だけで香水瓶を見た。

 

 香水瓶に『無駄な加熱式』を組み込んだのはどうして?……無駄?本当に?

 私はふいに昨日のエリアルとの会話を思い出す。エリアルは言っていたはずだ。『感じ方は人によって違う』、と。つまりは、一面からだけ見ていてはいけないということだ。

 ……『加熱式』を加えたのは、魔法式の問題からではない?


 私は大きく目を開く。視界の先では青薔薇の香水瓶が鈍く輝いていた。手元に香水瓶を引き寄せ、顔の正面で目を凝らす。

 波打つ香水に小さな違和感を覚え、私の目は細くなっていく。

 衝動のままに、私は香水瓶を逆さに持ちかえる。私は限界まで目を細めて香水瓶を凝視した。


 数秒後、私は大きく息を吐き出して顔をあげる。痛みを伴うほどに、私の鼓動は早く強くなっていた。

 私はだらりと下ろした右手に視線を向ける。香水瓶をつかむ右手は小さく震えていた。私は一つ息をのむと、先ほど見た光景をもう一度だけ頭の中で巻き戻す。結果は何も変わらなかった。

 ――間違いなく、香水が二層にわかれている。


 私は衝動のままにベッドから立ちあがる。私の目には机の上に置かれた木箱しか映っていなかった。

 はやる心を抑えきれず、私の歩みは速度を増していく。加速する鼓動に耐えるかのように、私は胸元を握りしめた。


 香水瓶を机に置く私の手に、落ち着きなどありはしない。香水瓶が机を叩く不快な音が鳴り響く。私は慌てて香水瓶を置き直した。

 数秒間、私は瞑目する。答えを知りたいと望む強い心と、逃げ出したいと震える弱い心が交差していく。

 私は下唇を強く噛み締める。奪うかのように、木箱から香水瓶を取り出し、眼前に引きずり出した。


 ……ああ、こんなことがあってもいいのかしら?

 今にも零れ落ちようとする涙に、まぶたで蓋をする。数歩ふらつきながら後ろへさがると、私は香水瓶を抱きしめたまま、安堵して膝から崩れ落ちた。


 「……ルティお姉ちゃん!」


 一拍遅れでリーゼの甲高い声が響く。慌てて駆け寄る小さな足音が聞こえた。


 「リーゼ……」私は震える声で小さな騎士を呼ぶ。

 「お姉ちゃん、大丈夫?」


 私が目を開けると、下からのぞき込むリーゼと視線が交わる。私の真正面で膝をつくリーゼは瞳を潤ませていた。

 膨れあがった不安が破裂してしまったのか、私はリーゼに抱き着いていた。


 「ルティお姉ちゃん?」

 「ごめんなさい、少しだけ許して」


 私の唇からは弱々しい声が漏れる。リーゼは小さくうなずいた後、何も言わなかった。

 数十秒後、私はそっとリーゼから離れる。うつむいた視界の隅に、握り締められて白く染まったリーゼの両こぶしが見えた。


 「……リーゼ?」

 「ルティお姉ちゃん、もういいの?」


 リーゼの声に私は顔をあげる。私は思わず息を止めて目を見開いた。リーゼは精一杯の笑みを浮かべていたのだろう。不安や悲しみを至るところに貼りつけたリーゼの表情に、私は固まってしまった。


 「リーゼは騎士なんだもん。お姫様は頼らないとダメなんだから」


 台本を読みあげるかのごとく、リーゼはゆっくりと言葉を紡ぐ。どこか侮蔑すら感じる口調は、誰に向けたものか。

 瞳に映る私を掻き消したかったのか、リーゼは顔を背ける。既視感のある姿に、私はこみ上げてくる笑いを噛み殺した。


 『私はエドモンド様が大好きなの。だから、私が一番になって認めさせるわ』


 いつか私の語った言葉は、誰に向けたものだったのだろうか。少なくとも、言い合いをしたお父様ではなかったはずだ。

 目の前で不貞腐れるリーゼは、二年前の私。絶望の矛先は、きっと弱い自分自身に向いている――。


 「リーゼ、貴方は立派な騎士よ。だから、顔を見せてくれないかしら」


 私はリーゼの頬に触れて、そっと押し出す。リーゼは一瞬だけ体を固くするが、手の動きに合わせて顔を私に向けた。

 目を伏せるリーゼに、私は微笑みかけた。


 「私はね、私自身のことが嫌いだったの」


 リーゼの頬から手を離し、口元を隠して私は笑い出す。リーゼは茫然と私を見上げていた。


 「そうでしょう?何かをしたい、そう望んでいるのに、何もできない。何をしていいかもわからない。役立たず、と何度も自分を責めたわ。そうしている内にね、憎んだり恨んだりするような、悪い心が芽生えてきたの」


 私は笑みを消してリーゼを見やった。


 「あの子がいなければいい。消えてしまえばいい」


 底冷えするほどの低い声に、リーゼの肩が大きく跳ねる。怯えを孕んだ瞳が私を射貫いた。


 「そう思っていたわ」


 私は心の中でため息をつく。怯えの色が滲みだすリーゼの瞳に、悲しみと後悔を覚える。下がり始めた視線を、私は強引に押し上げた。


 「でも、私は変われた、そう思うのよ。きっとリーゼのおかげね」

 「……リーゼのおかげ?」リーゼは目を大きく開いて聞き返した。

 「そうよ。騎士様が……いえ、リーゼが変えてくれたのよ」


 口元を隠すのを止め、リーゼの頭に手を伸ばす。困惑したようにキョロキョロと目を動かすリーゼを、優しく撫でた。


 「私のことを、友達だと、お姫様だと言ってくれたわ。……何よりも私が間違えたら怒ってくれる、あの一言がとても嬉しかったの。リーゼは私を見てくれる、それが伝わってね、とても嬉しくて仕方なかったわ」

 「リーゼは騎士だもん。当たり前のことだよ?」


 意味がよくわからないのか、リーゼは不思議そうに首をかしげる。私は笑みを深めてリーゼを見つめた。

 騎士がお姫様を支えるならば、お姫様もまた騎士を支えるべき――私はそう考えている。 

 リーゼは『私』を認めてくれた。例え、リーゼの演じる騎士役のために当てられたお姫様役だとしてもかまわない。それでも、弱い『私』の背中を押してくれたことに、違いはないのだから。『私』は『私』のままでいてもいい、と。


 私とリーゼは似た者同士だ。

 誰かに認められたい、その思いがリーゼを騎士役に駆り立てているに違いない。恋愛小説のお姫様は、騎士様と恋に落ちる。その恋心は、相手を認めたからこそ育まれたはずだ。

 リーゼが『騎士様』で私が『お姫様』。『恋心』の代わりはきっと『友情』。

 ハッピーエンドを迎える恋愛小説に置き換えれば、リーゼ自身も幸せな結末を迎えられる――リーゼはそう思ったのかもしれない。


 本当の意味で『私』を見てくれてはいないのだろう。それでも、リーゼの目に映るお姫様の『私』も『私』自身だ。リーゼが差し伸べてくれた手は、確かに私と繋がれている。

 胸に小さく灯ったあたたかな火を、リーゼにも返したい。リーゼにも心の火を移してあげたい。

 リーゼが『騎士様』でありたいならば、私は『騎士様』のリーゼを認める。でも、いつかはリーゼ自身を認めさせて欲しい。リーゼにも本当の『私』を認めて欲しい。

 誰かを演じなくても、私は『私』でリーゼは『リーゼ』なのだから。


 「騎士だから当たり前、ね。でも、リーゼのその当たり前が、私にはとても嬉しいことなのよ」


 掴んだままの香水瓶をそっと床に置き、両手でリーゼの頬をつつむ。リーゼの瞳には、微笑む私が映りこんでいた。


 「……リーゼは、ルティお姉ちゃんの心を守れている?」


 リーゼは躊躇いがちに訊ねる。震える声に追随しているのか、リーゼの視線も波打ち始めた。

 私はリーゼの頬を、思い切り横に引っ張る。痛みで表情を歪めるリーゼを見て、私はニンマリと笑う。リーゼが私を見つめた瞬間、私は手を離した。


 「リーゼのおかげで、私は笑えているのよ。それなのに、俯くなんて酷い騎士様だわ」


 呆然とするリーゼを無視し、私は揶揄うように声を出して笑う。リーゼの小さな手が、私に引っ張られた頬に触れる。二度三度とさする内に、リーゼは顔を真っ赤にして唇を尖らせた。


 「リーゼは騎士なの!俯いたりなんてしてないもん!」

 「そうね、俯いてないわ」私は笑い混じりに言った。

 「本当だもん!ルティお姉ちゃんのいじわる!」


 感情的に言い返すリーゼに、私の笑い声は増していく。リーゼの小さな拳がポコポコと何度も私の胸を叩いた。

読んでくださってありがとうございます。

まだまだ頑張ります。

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