34 令嬢、幼女に言い詰められる
「ルティお姉ちゃん、どうかな?」
リーゼが楽しげに声をかける。私がゆっくりとまぶたを開けると、ブラシを片手に微笑むリーゼが鏡に映っていた。
私は小さく頭を振り、整えられた髪を確認していく。頭の動きに合わせて体を左右に傾けるリーゼに、思わず忍び笑いを漏らした。
椅子から立ちあがり、私とリーゼは向き合った。
「リーゼ、ありがとう。とても素敵だわ」
「リーゼは騎士なんだもん、当然だよ。ルティお姉ちゃんは、リーゼにもっと頼っていいんだからね」
両手を腰に当てたリーゼは、小さく背を反らして言い放つ。私はリーゼの頭を二度三度と撫でた。
さらに大きく背を反らし始めたリーゼの頭をトントンと叩き、私は机に向かって歩き出す。真っすぐに見つめた先には、青薔薇の香水を納めた木箱が置かれていた。
「置いていくなんて、ダメなんだから」リーゼは不満げな口調で言った。
小走りでリーゼは私を追う。横に並んだリーゼにちらりと視線を向けると、悪戯っ子のような笑みが返される。
リーゼはブラシを握ったままの左手を大きく掲げていく。私は首をかしげながらも、リーゼの左手に視線を固定していた。
ふいに私の左手にリーゼの右手が絡まっていった。リーゼはニンマリと口元を綻ばせ、私を見上げる。どこか気恥ずかしさを感じた私は、表情を隠すために顔を前へと向き直す。
リーゼと繋がれた手はしっかりと握り返した。
二つの木箱が机の上に鎮座する。ゆっくりと息を吐き出し、私は繋いだ手に力を込めていった。
「ルティお姉ちゃん、あの木箱の中身は香水?」
リーゼはブラシで木箱を指し示す。私がうなずくと、リーゼは机の上へと身を乗り出していく。リーゼの勢いに乗って、私の足は前へと動き出した。
私は「リーゼ」と小さく声をかける。リーゼは一瞬だけ私に視線を向けると、ブラシと私の左手を机に置き去りにし、机から離れるように力一杯に飛ぶ。その勢いのままに、私の背中からまわりこんだリーゼは、木箱を一つ持ち上げた。
「お姫様、どうぞ」
得意げな表情でリーゼは木箱を差し出す。私は頬を緩めたまま、そっと木箱の中から香水瓶を取り出した。
「ありがとう、私の騎士様」
私は香水瓶を両手で抱えて、リーゼに深く礼をする。リーゼは満足げに一つうなずいた。
空の木箱を机に戻すと、私のスカートを引っ張り、ベッドに向かって歩き始める。飛び跳ねながら歩くリーゼに合わせて、私も軽快な足音を響かせた。
ベッドに腰かけたリーゼは、真横に向かって手を振り下ろす。手の衝撃に合わせてリーゼの体は上下した。
リーゼは「早く来て」と弾んだ声で呼びかける。私の脳内で『ご期待に応えてやろうぜ』と小悪魔な私のささやき声が響いた。
私はしっかりと香水瓶を抱きしめ直す。目をギュッと閉じると、振り返りざまにベッドに向かって後ろ向きに飛んだ。
「わっ、ひゃっ、お~。……ルティお姉ちゃん、楽しいね!」
リーゼから漏れた悲鳴は、歓声へと変わってゆく。羞恥のあまり赤く染めあげた顔のまま私は黙り込んだ。
脳内の小悪魔な私は『少し楽しかっただろう』と揶揄うように笑った。
「お姉ちゃんは楽しくなかった?」
言うや否やリーゼは私の頬をつつき出す。私が逃げるように顔を背けると、リーゼは身を乗り出してくる。私が逃げた分だけ、リーゼは距離を詰めていった。
「ひゃっ」
リーゼの甲高い声が響くと、私の膝に小さな衝撃が走る。驚きのあまりまぶたを開いた私は、慌てて膝元をのぞき込む。うつ伏せに倒れこんだリーゼが、もぞもぞと顔を動かしていた。
私とリーゼの視線が交わった。リーゼは目を限界まで開くと、気まずそうに顔を背ける。耳元は薔薇のように赤く色づき出した。
リーゼの頬に拡がりゆく深紅の花畑にそっと指で触れる。指先で感じる熱を確かめるように、何度も指でつついていった。
鮮やかな深紅の薔薇園は急に隆起した。
「お姉ちゃん、もう止めてよ。リーゼだって怒るんだから」
リーゼは頬を膨らませたまま目を怒らせる。私の膝に両手を置くと、勢いよく体を起きあがらせた。食べ物を頬に隠した小動物を思わせる愛らしい姿に、私の指先は疼き始める。
衝動のままに、膨らみ切った頬袋に指を突き立てていた。
「ぶふっ!――ルティおねえちゃん!」
「リーゼったら、はしたないわ」
声を張りあげるリーゼを見ながら、私は口元を隠して笑う。リーゼは眉根を寄せて、私をにらみつけた。……やりすぎてしまったかしら?
私が悪戯を謝ろうとした瞬間、リーゼは私の肩に手を置いた。思わず呆けた声をあげた私を、リーゼは体当たりをするように強く押し倒す。その勢いのままに、リーゼは私の体の上に乗りあげた。
不意の出来事に、私は必死に香水瓶を抱きしめて身を固くする。ゆっくりとまぶたを開くと、ニンマリと口元を歪めたリーゼが見えた。
「……リーゼ?」
「わかっているよね、ルティお姉ちゃん?」
震えた声を出す私に、初めて聞く低い声でリーゼは訊ねる。私は表情を引きつらせた。
リーゼの両手が、私の両頬に触れる。リーゼに体で押さえつけられた私には、小さく身じろぎすることしかできない。不安を押し隠すようにまぶたを下ろし、私は殻に閉じこもった。
「えい!」
「はふっ。……リーへ?なに、ふるの?」
リーゼは一声あげると、私の両頬を引っ張り出す。ろれつが回らない口で私は訊ねるが、リーゼは私の問いを無視し、ひたすらに私の頬を弄りまわした。
……痛くはないのだけれど、止めてくれないかしら?
そろそろ文句の一つでも言うべきか迷っていると、リーゼは私の両頬を力強く叩いた。唐突に走った痛みに私は目を剥くが、リーゼの真剣な瞳に私は息をのんでいた。
「ルティお姉ちゃん、ちゃんと笑わないとダメだよ」
リーゼの咎める声が響く。私は呆然とリーゼを見上げた。
「私は笑っているわよ?」
「笑ってないもん。リーゼがお手本を見せてあげる」
リーゼは体を起こすと、自分の頬をペシペシと叩く。軽く両頬を揉みしだくと、私に視線を向けた。
何をするつもりなの?私は困惑のにじんだ視線をリーゼに送る。リーゼの澄んだ瞳に、寄り辺を失った迷い子のような私が映っていた。
リーゼは体をのけ反らせるほどに、大きく息を吸い込んだ。
「あはは、ルティお姉ちゃん、頬が真っ赤っか」
私の体の上で、リーゼは笑いながら踊りだす。笑いの衝動に流されるままに、前後左右に思いのまま体を揺らし続けた。
口を大きく開いて笑うリーゼを、ただ呆然とした私が見上げる。私の時間だけが止まったのか、体はピクリとも動かせなかった。
「お姉ちゃんのお顔、とっても変。そんな変なお顔で、リーゼを笑わせないで」
リーゼはさらに声量をあげる。私はそんなにおかしな顔をしているのだろうか?
声をかけようと私は口を開く。私の掠れた声は、リーゼの一笑いでたやすく掻き消された。二度三度と挑戦した結果も惨敗。私は何もできずに唇を震わせた。
「ルティお姉ちゃん、わかった?」
リーゼは肩で息をしながら告げる。笑いの余韻を残したまま、私の眉間に向かって右手の人差し指を突きつけた。
放心していたのは数秒だろうか、私は戸惑いがちに首を左右に振った。
「もう、お姉ちゃんは難しく考えすぎなの」
唇を尖らせたリーゼは半目で私を見た。
「お姫様の一番の魅力はね、笑顔なんだよ」
「……笑顔?」
「そうなの!笑顔が魅力なの!」
不満げな口調から、軽やかな口調へと切り替わる。我が意を得たりとリーゼの瞳の奥が強く輝き出した。
「ルティお姉ちゃんは、とっても可愛いんだから、もっと笑顔にならないとダメなの!」
「私は今日だけでも、たくさん笑ったと思うのだけど……」
「――違うもん!」
言い淀む私の言葉を、リーゼは一言で切り捨てる。両手をリーゼ自身のお腹に当てると、眉を吊り上げて私を見下ろした。
「笑うときはね、お腹の中から元気よく声を出すんだよ。お口を隠したりはしないんだもん。ルティお姉ちゃんは、隠してばっかり。全然、笑えてないもん!」
リーゼは勢いよく吠える。澄んだ瞳には、私だけが映っていた。
「……淑女は、口を開けて笑うものではな――」
「そんなの知らないよ!」
リーゼは私の言葉に被せて言う。私は最後まで言い訳を続けられなかった。リーゼは両手で私の肩をつかむと、ベッドに私を押しつける。
私の視界はリーゼで支配されていた。
「リーゼは……リーゼの前では笑ってよ。笑ってくれないと嫌なの。……隠したりしないでよ。……寂しいよ」
涙混じりの声が響く。リーゼの潤んだ瞳から涙がこぼれ落ち、私の頬を小さく叩いた。
「ルティお姉ちゃんは、リーゼを頼らないといけないの。騎士は、お姫様を守るんだから、だから、我慢なんていらないもん」
リーゼは絞り出すように言う。私を押さえこむリーゼの両腕は震えていた。
「リーゼ、貴方は……」
私は思わず開いた口を、慌てて閉じる。考え込むように私は黙り込んだ。リーゼは右手で涙をぬぐい、私をじっと見下ろしていた。
「私はリーゼが大好きよ」
数十秒の沈黙後、私は微笑んで見せる。リーゼの体は大きく跳ねた。
「素直になれなくて、ごめんなさい。……いつからかしらね。隠すことばかりが上手くなってしまったのよ」
私は歯を見せて笑う。肩から重しが外されていくが、口元を隠すつもりは私にはなかった。
私とリーゼの間に壁はいらない――それはきっと私の望みでもあるのだから。
「……ごめんなさい」リーゼがポツリとつぶやいた。
「貴族令嬢として言えば、口を開けて笑うことは、とても恥ずかしいことだわ。でもね、ここには私とリーゼしかいないのよ」
もぞもぞと動かしてリーゼの拘束から右腕を外す。リーゼの頬にそっと右手を当てた。
「だから、リーゼが正しくて、私が間違っていたのよ。ごめんなさい、リーゼ」
どこかでリーゼに対して線引きをしていたのかもしれない。正式にデビューしていなくとも、リーゼはライラック伯爵家の御令嬢。公爵令嬢として接するべきである、と。
リーゼが差し伸ばした手に気づけていなかった。私は大馬鹿者だ。
「リーゼ、もう一度お願いさせて欲しいの」
私は一瞬だけ瞑目する。涙目で微笑むリーゼと視線が交わった。
「私はリーゼに危ないことをさせてしまうかもしれない。それでも、リーゼに助けて欲しい。私には貴方が必要なのよ。友人の貴方だからこそ、助けて欲しい。お願いできるかしら?」
こみ上げる思いを一息で私は告げた。
「リーゼはルティお姉ちゃんの騎士だから、友達だから、もっと頼らないとダメなんだよ」
リーゼは大きくうなずくと、泣き笑いを浮かべる。両手を腰に当てて、堂々と宣言した。
「ありがとう、リーゼ」
小さな騎士の頼もしい姿に、私の頬は自然とゆるんでいた。
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