33 令嬢、幼女に懇願する
「ルティお姉ちゃん、リーゼかわいい?」
リーゼは椅子に座ったまま、頭を左右に振る。鏡に映ったリーゼは花咲くような笑みを浮かべている。私は頬を緩めたまま「とってもかわいいわ」と声をかけた。
ぴょんと椅子から飛び降りたリーゼがその場で一回転する。編み込んだ髪はふわふわと流れていった。
「気にいってくれたみたいね。なかなか上手くできたでしょう」
私は満足げな微笑みを浮かべたまま小さく胸を張る。リーゼは肩にかかった毛先をいじりながら、大きくうなずくと鏡台へ体を向けた。
数秒間、リーゼは鏡を見つめたまま毛先をいじり続ける。手遊びに満足したのか鏡越しに私をのぞき込んだ。
「ルティお姉ちゃんは髪型をどうするの?」
「どうしようかしら?一人だと難しい髪型にはできないし……」
私は顎に指を当てて考え込む。鏡台に顔を向けると、髪を乱した鏡の中の私と視線が交わる。みっともない姿に自然と苦笑が漏れ出した。
「ルティお姉ちゃん、あのね、お願いがあるの」
「リーゼ?」
鏡に映ったリーゼは顔を俯かせる。どこか期待するような目線を、私に向けては外すを繰り返す。
私は小さく首をかしげると、鏡を介してリーゼを見つめる。リーゼと私の視線が絡まった瞬間、リーゼは顔をほころばせた。
「リーゼはルティお姉ちゃんとお揃いがいいの。リーゼと一緒でもいいよね?」
私の答えに疑いを持っていないのか、リーゼは歌うように訊ねた。
「もちろん、かまわないわ。リーゼとお揃いにするわね」
「うん、お揃いにして!」
私が首肯すると、リーゼは上機嫌に言う。振り返るや否や、私の手を引いて椅子に座らせる。早く早く、と急かすように足先を立てては下ろすを繰り返した。
「すぐに髪を整えるから、少しは落ち着きなさい。……そうね、私が髪を整えている間に、目元を冷やしておいてくれる?水桶の場所は――」
「ルティお姉ちゃん!」
椅子から立ち上がろうとする私を、リーゼの言葉が押し留める。鏡越しに見えるリーゼの表情には、自信が満ち溢れていた。
「リーゼに任せて!準備もリーゼがする!」
背筋を伸ばしてリーゼは胸を叩く。リーゼの瞳の奥が眩く光を放ち始める。私は目尻を下げると、深く椅子に腰かけ直した。
「水桶は奥にあるから、それを使って。タオルはあの棚に置いてあるわ。好きなものを使ってくれていいから」
私が一つ一つ指さしていくと、リーゼは楽しげにうなずく。我慢できないのか、リーゼの体はそわそわと揺れ出していた。
私に任せて、とリーゼの瞳が雄弁に問いかけていた。
「リーゼ、お願いしても大丈夫かしら?」
「任せてよ。ルティお姉ちゃんの分も用意しておくからね」
リーゼは弾んだ声で宣言する。両手を腰に当てて小さな体を目一杯に大きく見せた。私は目を細めてゆっくりとうなずく。
飛び跳ねるように小走りをするリーゼを、私は鏡越しに眺めていた。
私は編み込んだ髪を鏡で確認し終えると、椅子に座ったまま軽く背伸びをする。鏡に映り込むリーゼには、気付いていない振りをした。
悪戯っ子の笑みを浮かべたリーゼは、両手に絞ったタオルを抱えている。私はひっそりと息を殺して身構えた。
「――ルティお姉ちゃん」
「ひやっ」
リーゼの声が聞こえたと同時に、私の首筋に冷たいタオルが触れる。私は思わず小さな悲鳴を漏らし、肩を大きく跳ねさせる。両頬を赤く染めた私は、振り返って唇を尖らせた。
私の反応に満足したのか、声を出して笑うリーゼはその場で小さく飛び跳ねた。
「リーゼ!」
「お姉ちゃん、リーゼとお揃い!」
私の咎める声を気にする様子もなく、リーゼは私の髪を凝視する。私は内心で小さくため息をついた。
タオルを片手に持ち替えたリーゼは、空いた右手で私の編み込みに触れる。上から下に向かって撫でおろすと、私の毛先をくるくるとまわし始めた。
熱心に私の髪に触れるリーゼを眺めたまま、私はひっそりと息を吐く。私は顔を前へと向き直した。
「満足できたかしら?」
数十秒後、私の髪からリーゼは手を離した。私が声をかけると、リーゼは勢いよく顔をあげる。目を大きく開いたリーゼと私の視線が鏡越しに交わった。
口を半開きにしたまま固まるリーゼの姿に、私は小さく噴き出し笑いをする。慌てて両手で口元を隠した。
「ご、ごめんなさい」
リーゼは首元まで朱色に染めあげる。蚊の鳴くような声でつぶやくと、逃げるように私から視線を逸らした。
脳内の小悪魔な私が『わかっているよな』とささやく声が聞こえる。私はうなずいた勢いのままに椅子から立ちあがり、リーゼと向き合う。リーゼの額に静かに手を近づけると、指を引き絞り、力を一気に解放した。
「――いたっ」デコピンの衝撃でリーゼの体が跳ねる。
「リーゼ、タオルを渡してくれるかしら?」
目をまん丸にして見上げるリーゼの頭をトントンと叩く。呆然とするリーゼの目の焦点が合った瞬間、私は会心のウィンクを送った。
再び固まったリーゼは、まじまじと私を見る。我慢できなくなったのか、リーゼは笑いを爆発させた。
私は、脳内の小悪魔な私に向かってサムズアップして見せた。
「ルティお姉ちゃん、どうぞ」リーゼは片膝をつき両手でタオルを捧げ持つ。
「ありがとう、小さな騎士様」
私はリーゼからタオルを受け取り、両手で目元に押し当てる。ひんやり冷たい感触がここちよい。視界を隠したまま、私はゆっくりと深呼吸をする。
閉じたまぶたの裏側に、リーゼの笑顔や泣き顔が浮かんでは消えていく。胸の鼓動に合わせてジクジクと痛み始める。タオルを握る両手には、力がこもっていった。
「リーゼ、貴方に助けて欲しいことがあるの」
リーゼが立ちあがった瞬間、私は口を開く。私の声は震えていないだろうか。
タオルの下で私は必死になってまぶたを閉じる。リーゼの「ルティお姉ちゃん?」とつぶやく声が遠くに聞こえた。
「私は弱いから……私だけでは、私とエリアルだけではどうにもならないの。だから、貴方の力も貸してほしい」
私は声を振り絞る。タオルを両手で押し上げて、俯きそうな顔を上に向かせた。
「リーゼには一度だけ話したけど、私には大好きな人がいるの。でも、私は認められていないから、認められるように、何かをしないといけないの」
私は一息で言い切る。けたたましいほどに強く私の胸は脈動を繰り返す。リーゼの様子を気にする余裕は、私にはなかった。
「その何かを、私がしないといけない何かを、私はようやく見つけたんだと思う。だけど、きっと、それは危険なことだと思うの」
焦燥だけが募っていくのか、私の声に不安が色濃く混じる。エドモンド様の代わりを果たすことができるのか。エリアルとリーゼを巻き込んでも、私のわがままに付き合わせてもいいのか。
理性と感情がぐちゃぐちゃに混じり合い、黒く塗り潰されていく。
エドモンド様と一緒にいたい――弱い心が私の願いを腐らせ始めていく。予兆を告げるかのように、胸の痛みは増していった。
「リーゼに危ないことなんてさせたくないわ。リーゼは私にとって大切な、友達だから、だから……」
涙混じりの私の声は途切れていく。下唇を噛み、体の震えを抑え込む。嗚咽を漏らさないのは、ちっぽけな私の意地だった。
数十秒間の沈黙が、私には永遠のように思えた。
「ルティお姉ちゃんは悪いことをするの?」
リーゼの咎める声が響く。私は一つ息を飲み込むと、首を左右に振った。
唐突に、私の両肘をリーゼの手が掴む。驚きから身をよじる間もなく、一気に両腕が引き下ろされる。
私の顔を隠していたタオルは宙を舞う。私の頬には涙が伝っていた。
「泣かないで、ルティお姉ちゃん」
前のめりになった私をリーゼが抱き止める。体に力の入らない私は、勢いのままに膝を床につけた。私は額越しに、トクントクンとリーゼの鼓動を感じていた。
「リーゼはね、ルティお姉ちゃんの騎士なんだもん。ルティお姉ちゃんが、お姫様が困っていたら、騎士は格好よく助けるんだ」
リーゼは平時と変わらない口調で告げる。当然のことと言わんばかりに、小さく笑い声をあげた。
「リーゼのお父様も、お母様が困っているところを助けたんだよ。リーゼもお父様みたいに、ルティお姉ちゃんを助けるんだ」
「……いいの?」
「リーゼにお任せだよ!ルティお姉ちゃんはリーゼを、もっと騎士を頼らないといけないんだよ」
私の不安を吹き飛ばすように、リーゼは声を張りあげる。小さな体で精一杯に胸を張った。
ドクンドクンとリーゼの鼓動が力強く響く。リーゼの胸に額を押し当てたまま、私は泣き笑いをする。下げたままの両腕をリーゼの背中にまわした。
「……騎士様、私を助けてください」
「お任せください、お姫様」
一瞬言葉に詰まった後、私は絞り出すように願いを口にする。私の願いを受け入れるかのように、小さな騎士の腕のぬくもりで私は包まれていた。
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