31 令嬢、葛藤する
私は旧校舎の屋上へと続く階段をのぼっていく。薄暗く視界はおぼつかない。踏みしめる私の足音がやけに大きく響いていく。
休日の学園には平時の賑やかさは欠片もない。北端の奥まった場所にある旧校舎であれば尚更だった。
どこか退廃的な空気を感じながら、私はひたすらに足を動かす。私の足音は床の軋む音に掻き消されていった。
不快な鳴き声が私を嘲笑うかのように響きわたる中、震える足は逃げ出すように前へ前へと進んでいく。両手で抱えていた木箱はズシリズシリと重みを増した。
木箱の中身が青薔薇の香水から置き換わったのではないか、と錯覚を抱かずにはいられない。衝動的に木箱を投げ捨てたくなる。誘惑を振り払うように、私は両腕に力を込めた。
怪しげな足どりで私は進み続ける。一瞬とも永遠とも思える時間が過ぎるころ、私は終点にたどり着いた。
何の気なしに私は振り返り、薄暗い階下をのぞき見た。私の歩んできた道は闇に覆われてうかがい知ることはできない。風に窓が打ち鳴らされる音が大きく響いた。
――本当にいいの?後悔しない?
どこか遠くから私に問いかける声が聞こえる。私は小さく息をのみ、顔を前に向ける。屋上へと続く扉からは、かすかに光が漏れていた。
もう一度、後ろに振り返れば闇はより深く私に近づいている。退路を断たれた私は、意を決して屋上の扉を開いた。
開かれた扉から差し込む光は眩しく、思わず私は目をしばたかせる。ピントのずれた視界の中、一歩二歩と足を必死に動かす。ぼやけた視界が一つに結ばれた先に、二週間ですっかりと見慣れたリーゼの背中が見えた。
私が小さな騎士にかける言葉を探していると、天に向かってリーゼの右手が突き出され、蒼く光り出していく。屋上の温度は急激に下がり始めた。
リーゼを中心とした浮かびあがった蒼い円は、徐々にその範囲を拡大していく。その範囲は私の足元にまで及び、私を蒼い光で包み込む。私は目を細めてリーゼを眺めた。
展開された蒼き光の円は次第に収束し、リーゼの右手を深青に染めあげる。唐突に収束した蒼の光は爆発した。
驚きのあまり閉じていたまぶたを、私はゆっくりと持ち上げる。伸ばされたリーゼの右手の先に、巨大な氷塊が宙に浮かびあがっていた。
吐きだす息が白みがかっていることに驚くことも忘れた私は、思わずリーゼに拍手を送っていた。
驚くリーゼの身体は大きく跳ねあがる。勢いのままに振り返ったリーゼと私の視線が重なると、リーゼは目をパチクリとさせた。
私が小さく手を振ると、リーゼの表情は嬉しげな笑みへと変わっていく。リーゼは右手を軽く振って宙に浮かぶ氷塊を消すや否や、私に向かって駆け出して来た。
「ルティお姉ちゃん!」
「おはよう、リーゼ」
私は声を張りあげる。リーゼの駆け足はさらに速度を増していった。
リーゼに倣うように私も前へと足を踏み出していく。眩いばかりの陽が降り注ぎ、私の足元を照らし出した。
両手を力一杯に振りながらリーゼは走る。屈託のない笑みを浮かべるリーゼは、あどけない少女にしか見えない。自然と私の表情は和らいでいた。
リーゼは勢いのままに私へ飛び込む。私は木箱を両手で持ちあげ、体でリーゼを受け止めた。
両腕の間から見下ろすと、楽しげに笑うリーゼが見える。リーゼの両手は私の腰にまわされ、離すまいと強く抱き止められた。
木箱を左手で抱え持った私は、空いた右手でリーゼの頭を撫でる。小さく背伸びをしたリーゼは、目を閉じて私に身をゆだねる。リクエストに応えるように、私はリーゼを優しく撫であげた。
左手を塞ぐ木箱の存在が、わずらわしくて仕方がない。両腕でリーゼを抱きしめ返せないことが残念でならなかった。
「お姉ちゃんも魔法の練習をしに来たの?」
満足した様子のリーゼが訊ねる。私は首を左右に振った。
「今日はリーゼにお願いしたいことがあるの」
「リーゼにお願い?」
呆けたようにリーゼはつぶやく。私の腰からリーゼの手が離れていった。私は一歩後ろにさがると、木箱をリーゼに向かって掲げて見せた。
リーゼは不思議そうな顔で木箱を眺めていたが、ふいに小さく鼻を鳴らす。まじまじと木箱を観察すると、真っすぐな瞳を私に向けてきた。
私がリーゼを見つめ返すと、リーゼからの視線はすぐに外される。リーゼは私と木箱の間でせわしなく視線を動かし始めた。
「リーゼ、どうしたの?」私は困惑した表情を浮かべる。
「えっとね、この木箱からルティお姉ちゃんと、同じ香りがするの」
戸惑う私は目をしばたかせる。リーゼは私の様子に気づかぬまま顔を木箱に近づけるや、鼻をピクピクと動かし始める。
数秒後、得意げな笑みを浮かべたリーゼが顔をあげた。
「ルティお姉ちゃん、リーゼはわかったよ!」
リーゼが弾んだ声を出す一方、私の顔には困惑が色濃く表れていた。
「その木箱の中身は香水!それも、ルティお姉ちゃんがいつも使っている香水だよね!」
一息で言い切ると、リーゼは木箱に向かって右手の人差し指を突きつけた。空いた左手を腰に当てて軽く胸を張る。自信に満ちあふれた表情を私に向ける。
リーゼの言葉を聞いた瞬間、私は固まっていた。
「リーゼは私の香りだと思ったの?」私は震えた声を出す。
「そうだよ!木箱の香りを嗅いでいたらね、どうしてかわからないけどね『ルティお姉ちゃんだ』って思ったの!」
リーゼは瞳の奥を輝かせ、私からの解答を今か今かと待ちわびる。私は気持ちを切り替えるように、ゆっくりと息を吐いた。
……リーゼも、エリアルと同じなのね。
「残念だけれど、半分は正解だけど、半分は間違えているわ」
「えっ、リーゼ、間違っていた?……ルティお姉ちゃんの香りだったよ?」
私は小さく首を左右に振る。自信満々に突き出されていたリーゼの右手が力なく下ろされていく。
リーゼは恥ずかしそうに頬を赤く染めると、私から視線を逸らす。私は表情を緩めると、抱えていた木箱をそっと床に下ろし、木箱の中から香水瓶を取り出した。
「リーゼ、見てくれるかしら。貴方の予想通り、木箱の中身は香水よ」
私は屈んだままの姿勢で香水瓶をリーゼに差し出す。リーゼはチラッと視線を香水瓶に送ると、私をうかがい見る。私は小さくうなずいた。
おずおずとリーゼは香水瓶を受け取る。リーゼは香水瓶を四方八方から観察すると、不思議そうな顔を浮かべた。
何か気になることでもあったのだろうか。リーゼは香水瓶を顔の真ん前に近づけ、考え込むように黙り込む。おおよそ一分の沈黙の後、リーゼは「きっと、そうだよ」とひとりごとを言った。
「ルティお姉ちゃん、この香水を使ってみてもいい?」
リーゼは顔をあげる。あまりにも真剣な表情に私は何も答えられず、求められるがままに首を縦に振った。
リーゼは香水瓶を両手で包むように持ち替え、自身の胸元に近づけた。魔力を流し始めたのか、またたく間に香水瓶は青白く光り始める。青薔薇の香りが、屋上に広がっていった。
一瞬で香水瓶に魔力を行きわたらせたリーゼに、私は舌を巻く。たっぷりと一分は魔力を流し込んでいた私との差は、あまりにも歴然としていた。
光の終息に合わせ、私は伏せていた目線をあげる。虚ろな瞳で立ちつくすリーゼの姿が、私の瞳に映っていた。
「……リーゼ?」
私はリーゼを下からのぞき込む。輝きを失ったリーゼの瞳は、私の姿を捉えようとはしない。まるで糸の切れた人形のように動きを止めていた。
リーゼの眼前で、私は小さく手を振る。虚空に向けられたリーゼの視線は、ただ一点を見つめ続けていた。
「リーゼ、どうしたの?……リーゼ?……リーゼ!」
反応が全く見られないリーゼに、私の表情は歪み始める。呼びかける声にも、深い焦燥が混じっていく。リーゼの世界から私が隔絶されていた。
えもいわれぬ恐怖を覚え、私は衝動のままにリーゼを抱きしめる。リーゼの掴んでいた香水瓶の割れる音が、遠くに響いた。
涙混じりに私は何度もリーゼの名を呼ぶ。リーゼの小さな体に縋るように、私は両腕に力をこめる。私の背筋に、冷たい汗が流れていった。
何も映していないリーゼの瞳には見覚えがある。アレクセイの冷めきった瞳と、私の大嫌いな目と同じだった。
喉が張り裂けんばかりに私は叫ぶ。何度も何度もリーゼの名を、必死に呼び続ける。リーゼの肩を、私の涙が濡らしていった。
「……リーゼ、リーゼ。……私を一人にしないでよ」
泣き喚くような響きは、言葉としての体を失っていく。次第に、私のすすり泣く音だけが響きわたった。
リーゼの背中にまわされていた私の両腕から、力が抜け落ちていく。リーゼの肩に額を押し当て、崩れていく体を懸命に支える。無力感に苛まれる私の手足は鉛のように重かった。
「泣かないで、ルティお姉ちゃん」
私の耳元に優しげな声が聞こえた瞬間、小さな両腕に私は抱き寄せられた。
「……リーゼ?」私は蚊の鳴くような声でつぶやいた。
「そうだよ、リーゼだよ。……ルティお姉ちゃん、心配をかけてごめんなさい」
リーゼは強く私を抱きしめ、あやすように私の背中へまわした手でさすり始める。私はリーゼに身をゆだね、両腕をだらりと下ろした。
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