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28 令嬢、熊男に忠告される

 「ゲーベル様は、相手に合わせて香りを変化させる、夢のような香水についてはご存知ですか?」


 私は真横に立つエリアルへ一瞬だけ視線を移す。ゲーベルも私に倣うようにエリアルをのぞき見た。

 エリアルは木箱を抱え直し、ゲーベルへ挑むような視線を向けた。


 「いや、聞いたことはない。だが、それがその香水か?」


 ゲーベルは眉を寄せながら否定すると、小さく顎をあげて香水を指し示す。驚く様子は見られなかった。

 エリアルの見立て通り、私たちが香水を持っていることに気づいていたのね。私は小さく息をのむと、目を細めてゲーベルを見上げる。ゲーベルの瞳には、エリアルだけが映っていた。

 私はエリアルを隠すように体を寄せた。


 「残念ながら、この香水は違います」

 「違うのか?」


 ゲーベルは身を乗り出すと、いぶかしげに私を見つめる。目を逸らさぬまま私は小さくうなずいた。

 表情を歪めたゲーベルは私の顔と木箱の間でせわしなく視線を動かす。数秒後、気落ちしたのか、大きく肩を落とした。


 「ようやく手掛かりを見つけたと思ったんだがな……」

 「香水を使ったこと、気づいていたんですね」

 「ああ、そうだな。俺は王都中を走りまわって、件の香水に関わった奴を探してたんだぞ。香水にも詳しくなるし、鼻も利くようになるさ」


 ゲーベルは目を伏せてポツリとつぶやく。

 なるほど、状況的に見れば私とエリアルは実に疑わしい。裏通りで隠れるように香水を使う女が二人。それも、わざわざ魔法を使い、屋外で香りを拡散させる不可解な行動。加えて、怪しげな木箱を三個も抱えている。

 香水にまつわる事件を知っている者が見れば、私とエリアルを疑わずにはいられないだろう。ゲーベルがどこか確信めいたものを持って、私たちを詰問したのも当然のことだ。私もゲーベルの立場ならば、同じ行動をとるに違いない。

 胸のつかえがとれた気がした。


 「手掛かりがないわけではありません」


 私は努めて明るい声を出す。ゲーベルは勢いよく顔をあげた。


 「どういうことだ?その香水は違うんだろ?」

 「そのとおりです。ただ、この香水を購入したときに面白い話を聞いたのです。ゲーベル様、嗅覚と同時に他の感覚にも刺激を受けたことはありますか?」


 私は香水店でのトリスタの言葉を思い出す。あの香水店で私は不思議な体験をしているのだ。本来ならば香水の香りを嗅いだだけで意識を失うことは決してないだろう。けれども、嗅覚以外の感覚も刺激された私は簡単に意識を失った。私の体は何らかの影響を受けたのだ。

 人の心に作用する件の香水と近いものがあるのではないか。私の胸には小さな疑惑の火が灯っていた。

 それでなくとも、香水店の外に漏れ出していた香り――私とエリアルで受けた印象は全く異なっていた。同じ香りを嗅ぎながら、異なるイメージを思い描く。ただの偶然とすましてもよいのか。私とエリアルの心が何らかの作用を受けた、というのは考えすぎだろうか。


 思考の沼にはまり込んだ私は色なき瞳でゲーベルを見やった。目を閉じたゲーベルは黙り込んだまま腕を組んでいる。私の言葉の意味を反芻しているのか、ときおり指でトントンと腕を叩いていた。

 横目でエリアルに視線を向けた。エリアルは顔を俯かせ、ぼんやりと佇んでいる。今にも消え入りそうなほど弱々しかった。


 「……すまないが、そんな経験はしたことがない」


 ゲーベルは大きく首を振る。エリアルに向けて開きかけた口を結び、私は小さく喉を鳴らす。後ろ髪を引かれながらも、体を前に向けた。

 私は香水店での出来事をゲーベルに説明する。ゲーベルは考え込むように顎に手をかけた。まるで先を促すかのように、私の話に小さく相槌を打ち続ける。

 エリアルを私は何度も盗み見るが、下を向いたままのエリアルは何も言わない。私の話を聞いているのかどうかも定かではない。私からはその表情を見ることはできなかった。ただ香水の入った木箱を強く抱きしめていた。


 「――なるほど、一通りは納得がいった。ルティ、ありがとな」


 ゲーベルは満足げにうなずくと、小さく頭をさげる。私は一つ息を吐いた。


 「ゲーベル様はどう思われますか?」

 「関連がないとは言い切れないだろうよ。だが、確証がないからな、断定することはできんさ」


 私の問いにゲーベルは嘆息するが、その瞳の奥は強く輝いている。ゲーベルは熊を思わせる強靭な体躯で軽く背伸びを始めた。


 「ルティ、その香水店の場所だけ教えてくれないか?」

 「いえ、案内しますよ。ここから、そう遠くはないですから」


 私は軽く胸を叩く。ゲーベルは目を見開くと頬を緩める。どこか気恥ずかしそうに頭の後ろを掻き始めた。


 「気持ちだけ受け取っておく。今晩は天気も崩れそうだしからよ、ルティはさっさと帰っておけ。女は暗がりを出歩くもんじゃないさ」


 言うやいなやゲーベルは天に向かって指を立てる。釣られて私も天を仰ぎ見た。空にはどんよりとした雲がかかっている。一雨降る前の前兆だろうか。鈍色の空はどこか物寂しい。

 優しげに笑うゲーベルの瞳を前に、私は小さくうなずくしかなかった。


 香水店までは歩いても十分はかからないだろう。何よりも店外にまで香りが漏れ広がっているのだ。鼻をくすぐる香りの道案内に従いさえすれば、迷うことは決してない。

 私は自信満々に道順を伝える。ゲーベルは私の説明の聞き終えると、薄ら笑いを浮かべた。


 「なるほど、ルティの言うことが本当ならば、香水店に迷わず着けそうだな」

 「嘘をついていると思っています?」


 どこか含みを持たせたゲーベルの言葉に私は眉をひそめる。私の声には不快の色がにじみ出ていた。


 「違う!お前を疑ったわけじゃないんだよ!」


 ゲーベルは慌てた声を出す。首がねじ切れそうなほどに大きく首を振った。


 「ただ、もしそれが本当のことならば……」


 言い淀んだゲーベルは静かに瞑目する。突然の沈黙に私は「どうされたのですか?」と言葉の先を促した。

 ゲーベルは大きく息を吐くと私の両肩に手をかけた。驚く私は逃げるように身を捩ろうとする。本気で掴まれてはいないのだろうが、私の肩は少しも動きやしない。

 一拍ほど遅れて反応したエリアルは「何をされているのですか!」と悲痛な声をあげる。木箱の落ちる音が遠くに聞こえた。


 「ルティ、一つだけ約束してほしい」


 真剣味をおびたゲーベルの声が響く。おずおずと顔を向けると、真っすぐに私を見つめるゲーベルの瞳があった。動揺のあまりせわしなく動く私の視線は、一瞬で捉えられた。

 ゲーベルの腕を外そうとしたエリアルも動きを停め、ゲーベルを注視していた。


 「お前が話してくれた香水店には、二度と行くな」


 ゲーベルは言葉尻を強くして言い切った。掴まれた私の両肩にずきりと痛みが走る。私は首振り人形のようにコクコクと頭を振ることしかできなかった。


 「おい、ちゃんとわかっているのか?二度とその香水店には行くんじゃないぞ。わかったな?」

 「え……。わ、わかりました。香水店には行きません。約束します」


 ゲーベルのあまりにも強い剣幕に、私は目をしばたたかせる。ゲーベルの強い念押しに対して、疑問を呈することはできなかった。

 ゲーベルは一度うなずくと、私の両肩から手を離す。エリアルが私を隠すように前に進み出た。


 「みだりにお嬢様に触れるなど、何を考えているのですか」


 エリアルの声は怒気を孕んでいたが、ゲーベルは表情を崩さない。ひたすらに私だけを見つめていた。

 ……どうしても、あの香水店に近づいて欲しくないわけね。

 私の疑念は深まるばかりだが、ゲーベルの願いを断る理由はない。私は大きく首を縦に振った。ゲーベルは一つ満足げにうなずくと踵を返した。


 「俺は今から香水店に行ってくるから、ルティは早く帰れよ」


 ゲーベルは一方的に言うと、表通りに向かって歩き始める。私はゲーベルの背中に向かい「ゲーベル様も、お気をつけて」と声をかける。ゲーベルは振り返ることなく、右手をあげて応えた。

 私もエリアルもそれ以上は何も言わずに、ゲーベルを見送った。


 「一体何なのですか、あの男は」


 ゲーベルの姿が見えなくなった後、エリアルは苛立たしげにつぶやく。怒りからかエリアルの身体は小刻みに震えていた。

 エリアルの激情に背を向けて、私は落ちた木箱を拾いに行く。エリアルは私に怒り顔を見せることを望まないだろう。ゆっくりと腰をかがめ、一つ一つ丁寧に木箱を拾い集める。木箱の汚れを掃いながら、エリアルが平静を取り戻すまで、私は待ち続けた。

 一分が経とうする頃、私に近づく足音が聞こえ始める。私は木箱を抱えて、立ちあがった。


 「お嬢様、あの――」

 「エリアル、この木箱を持ってくれるかしら?腕が疲れてしまったわ」


 エリアルの言葉に被せて、私はわがままを言う。振り返りざまに、三つの木箱をエリアルへ突き出した。

 目を見開いたエリアルは一瞬だけ木箱に視線を送ると、困ったような笑顔を浮かべた。


 「お任せください、お嬢様」

 「ええ、任せたわ。……さあ、帰るわよ」


 私から木箱を受け取ると、エリアルは深く頭をさげた。気づかないふりをして、私は表通りに向けて歩き始める。エリアルは私の一歩後ろを付き従った。



 「貴方は問題行動ばかりを起こすのですね。少しは自重するということを学んではいかがですか」


 表通りへと抜けた瞬間、横合いから冷たい声が響く。驚いて顔を横に向けると、目を怒らせたアレクセイが立っていた。

 急に立ち止まった私を不思議に思ったのだろうか、エリアルが私の背から顔を覗かせる。途端に、アレクセイは満面の笑みを浮べた。


 「お久しぶりですね、エリアルさん」

 「アレクセイ様、お久しぶりでございます」


 アレクセイはエリアルに向かって親しげに手を振る。エリアルは小さく礼をすると、気遣わしげに私へ視線を送った。


 「女性が裏通りを歩くのは感心しませんね。今晩は雨が降りそうなので、お早めに帰られたらどうですか?」

 「……ご心配いただき、ありがとうございます。今から、お嬢様と学園に戻ります」


 エリアルはおずおずと答える。私とは会話をするつもりはないのだろうか、アレクセイはエリアルにだけ微笑みかけた。

 エリアルは「お嬢様」と帰りを促すようにつぶやく。私は小さくうなずいた。


 「アレクセイ様、お嬢様もお疲れのご様子です。申し訳ありませんが、失礼させていただきます」

 「それは残念です」


 アレクセイは言葉とは裏腹に楽しそうに笑うと、私に憎々しげな視線を向けてきた。


 「何の覚悟もなしに首を突っ込めば、貴方はもちろん周りの人間も不幸になる。それをお忘れなきように」


 一方的に言い放つと、アレクセイは踵を返して裏通りへと向かう。私は何も言えず、ただ両こぶしを握り締めた。

読んでくださってありがとうございます。

少しずつ書き溜めていますので、また読んでください

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