23 令嬢、侍女に罰を与える
「エリアル、今日は付き合ってくれてありがとう」
香水店から学園へと帰る道中、私はエリアルに振り返って礼を述べる。懐中時計を確認すると時刻は、午後四時を刻んでいた。
エリアルは香水瓶を納めた木箱を三つ胸に抱えたまま、私にどこか申し訳なさそうな視線を向けてきた。
「お嬢様、今日は大変に失礼いたしました」
「――エリアル、どうしたの?謝るようなことは何もないわよ」
体を小さく縮こまらせたエリアルに私は驚く。思わず歩みを止めて、体ごとエリアルに向かい合う。エリアルは顔を俯かせ、私の視線から逃げ出した。
「……今日の私はどうかしていました。私から『公私の区別をつけたい』と申し上げたにも関わらず、愚かな振る舞いを何度も……。誠に申し訳ございません」
エリアルは真っ白なうなじが見えるほど深く腰を折る。一瞬、私は目を見開き固まったが、すぐに周囲へ視線を向ける。私とエリアルをいぶかしげに眺めるいくつもの瞳があった。
私は慌ててエリアルの肩に手を置き、起きあがらせる。すでにエリアルの目尻には涙が浮かんでいた。エリアルが抱えた木箱から仄かに青薔薇の香りを感じながら、私は思考をめぐらせる。平静さを失ったエリアルを衆目に晒すことを私は許容できなかった。
「早く行くわよ、エリアル。ついてきなさい」
エリアルからひったくるように木箱を取りあげると、私は早足で歩く。
背中越しに「お嬢様、お待ちください!」とエリアルの焦った声が聞こえた。私を追いかける気配を確認すると、一直線に人通りの少ない小道へ進んだ。
小道に入るや否や私は注意深く視線を向ける。私とエリアル以外の人影は見当たらない。
ゆっくりと私は振り返り、エリアルと向かい合った。
「――今日の貴方は本当におかしいわ、エリアル」
私は意識的に平坦な声を出す。エリアルの揺れる瞳を真っすぐに見つめた。
エリアルは「お嬢様……」とつぶやくと、口を真一文字に引き結ぶ。眉を八の字にしたまま、小さく肩を震わせていた。
私もエリアルも何も言わず、ただ見つめ合う。沈黙は数秒間だろうか。エリアルは逃げるように顔を俯かせた。
目を閉じた私は思考を巡らせる。冷静さを取り戻すために、浅く息を吸い深く吐き出す。木箱に香りづけされたほんのりと甘い香りが私の心を安らげた。
何度も深呼吸を繰り返した後、私はゆっくりとまぶたを開く。両手で抱えていた木箱を左手に持ち替えると、一番上の木箱から香水瓶を取り出した。
香水瓶に組み込まれた魔法式を確認し、構造に合わせて魔力を流し込む。組み込まれた魔法式は、香水瓶の外へ香りを放つだけの単純なものだ。魔法が苦手な私でも時間さえかければ発動できるはずだ。
私は慎重に香水瓶へと魔力を流す。香水瓶に少しずつゆっくりと私の魔力が行きわたっていく。私の魔力に反応して香水瓶が青白く光り始め、薄暗い小道を淡く照らし出した。
「……お嬢様、何をされているのですか」
光に驚いたエリアルは顔をあげ、私の手元を注視していた。数秒間の沈黙の後、エリアルは戸惑いの声を出した。
私はちらりと一瞬だけエリアルへ視線を向けると、すぐに香水瓶に向き直る。香水瓶に設定された魔法の発動まであとわずかだ。失敗だけは避けたかった。
緊張からじんわりと汗をかきながら、私は魔力を流し続ける。
数十秒後、ゆっくりと香水瓶からはやさしい香りが放たれていた。魔法の成功に私はこっそりと息を吐くと、エリアルに目線を向ける。泣き出しそうな表情のエリアルがぼんやりと香水瓶を眺めていた。
「――エリアル」
私は意を決して口を開く。少し声が硬かっただろうか。名前を呼ばれたエリアルはビクッと肩を揺らし「はい、お嬢様」と蚊の鳴くような声でつぶやいた。
目を伏せて私から視線を逸らすエリアルの顔を見上げる。エリアルの表情は悲しげに歪んでいた。
「お姉様を私は嫌いになったりしないよ」
私は静かに息を吸いこむと、含み笑いを浮かべる。目を見開くエリアルを下から眺め、私は笑みを深めた。
「お姉様はもう少し私のことを『信頼』してくれていいと思うの」
いつかエリアルが語った言葉を、今度は私が語る。エリアルを嫌いにならない、と私の気持ちが伝わればいいと願う。
子供のころのように、私は軽く口を膨らませて不満を伝える。妙齢の女性に似つかわしくない子供染みた恥ずかしい行いだが、私は躊躇わなかった。
公爵令嬢とその専属メイド。幼少のころから供に過ごしてきた私とエリアルを別つ線引きだったのだ。それを先に超えたのはエリアルだ。少なくとも、今日のエリアルには私を責める資格はないだろう。
「……エリアルは私のことを信頼してくれないの?」
脳内の小悪魔な私の指示に従って悲しげに目を伏せる。私よりも背の高いエリアルからは、私の表情をうかがうことはできない。エリアルの「お嬢様!」と慌てた声を聞き、こっそりと口元を緩めた。
「私がお嬢様を信頼しないなどありえません!本当です!」
エリアルが悲痛な声で叫ぶ。俯いた視線の先では、スカートに皴ができるほどエリアルは両手を強く握りしめていた。
「お嬢様?」私は沈んだ声でつぶやくと、かすかに肩を震わせる。「ルティとは呼んでくれないの?」
「で、ですが、それは……」
エリアルは戸惑った声を出して言い淀む。スカートを握りしめた手のひらが開いては閉じられる。エリアルは落ち着きなく同じ動作を繰り返していた。
私は黙ったままエリアルが口を開くのを待った。
「……ルティ、今日はごめんなさい」
エリアルはおずおずと言葉を紡ぐ。私がゆっくりと顔をあげると、泣き出しそうな表情のエリアルと視線が交わる。エリアルは二の句を継げず、口元を引き締めていた。
「お姉様はどうしてしまったの?今日のお姉様は本当におかしかったわ」
「…………私もわからないの」
私は少し唇を尖らせながら訊ねる。エリアルは絞り出すような声で応えると、大きく首を左右に振った。
「本当にわからないの。私はルティのメイドとしての務めを果たすつもりでいたわ。ルティのメイドであることは、私の誇りだから。だから、あんなに感情的な振る舞いをするつもりなんて、本当になかったのよ」
エリアルは涙まじりに言う。苦しげに歪んだ表情には涙の通り道がいくつもできていた。
「でも、我慢できなくて、ルティにも迷惑をかけてしまったわ。……本当にごめんなさい」
深く頭をさげるエリアルの態度を見ると、嘘をついているとは思えなかった。
それならばエリアルの感情的な行動はどうしてだろうか?香水店に近づくまではいつもと変わらない様子だった。ならば、原因は香水店にあるに違いない。ただ断定するだけの根拠がなかった。
香水店が怪しいと疑うならば、エリアルにだけ影響したことを説明できなくてはならない。私もエリアルと同じ香りを嗅いでいるはずなのだ。私にも影響がなければおかしいだろう。
思考を切り替えるように私は小さく息を吐き、エリアルを見やった。
私が考えを絞らせた数十秒間、エリアルは黙して頭をさげつつげる。エリアルの足元には小さな水たまりがいくつもできていた。
不安に押しつぶされながらも私の言葉を待ち続ける。エリアルへの罰としては充分だろう。
真面目すぎる性格のエリアルが罰を求めていることはわかっていた。
あまり気は進まなかったが、エリアルから罪悪感を消せるならばと私は心を鬼にする。私がわざとらしくため息をつくと、エリアルはビクッと肩を震わせた。
「お姉様、そのままでもいいから聞いて欲しいの」
私はゆっくりとエリアルに語りかける。エリアルは顔をあげてはくれなかった。
「お姉様が私のメイドとして頑張ってくれていることはわかっているし、とても感謝しているの。私から離れていく人は多かったけど、お姉様は残ってくれた。……昔みたいに話すことができなくなって、公爵令嬢とメイドという関係になっても、私と一緒にいてくれた。とても嬉しかったんだよ」
私はただ素直に思いを口にする。昔馴染みの関係を取り戻した昨夜がなければ、決して口にすることはできなかっただろう。
私もエリアルも身分に囚われ、お互いに手を差し伸べようとはしなかった。たった一歩を踏み出すだけで、触れ合える距離にいたにも関わらず。
役割と義務に縛られていた私たちからは、簡単に不安は拭いきれないのかもしれない。
「だから、お姉様が少し失敗したくらいで嫌いになったりはしないよ。例え、私が悪評を買うことになったとしても」
「――申し訳ございませんでした!」
エリアルは涙声で謝罪した。トリスタがわざわざ悪評を広めたりするとは思えないが、エリアルの挑発するような態度は褒められたものではなかった。メイドの失態は主の責任となることを鑑みれば、エリアルが不安になるのも仕方がない。
立場の悪い私をさらに苦境に追いやることにつながりかねないのだから。
ただトリスタは尾を引かないさっぱりとした女性に思えた。私が身分差を気にしないとわかるや否や、気さくに接するくらいだ。杞憂に過ぎないと私は考えているが、エリアルは違うのだろう。
「もう謝らないで」私は一歩を踏み出した。
「ですが、お嬢様……私は」
「お姉様、いつまでも俯いていないで顔をあげて。……それとも、命令しないといけないの?」
私は懇願するような声を出す。エリアルはおそるおそる顔をあげ、端正な顔を苦しげに歪めて私の表情をうかがう。
エリアルの頬を一筋の涙が濡らした。
「私はお姉様を許してるのだから、このお話はもうお終い」
私はエリアルの瞳を真っすぐに見つめて言い切る。エリアルは目を見開いた。
「……でも、そうね。もしお姉様が悪いと思っているならば、これからも私の隣で助けて欲しい。この先にどんなことがあっても、私の味方でいて欲しいわ」
私をひとりぼっちにしないで。子供染みた願いかもしれないが、私の本心だった。エドモンド様に、エリアル、そしてリーゼ。
他の誰に嫌われてもかまわない。でも、大好きな人たちには嫌われたくない。私を見捨てないで欲しい。
アレクセイに切り捨てられたときに感じた張り裂けるような胸の痛み。あの痛みを二度と味わいたくはなかった。
「――当たり前じゃないですか。私はずっとお嬢様と、ルティと一緒ですよ」
エリアルは泣き笑いのような顔で言う。不謹慎だと思いながらも、エリアルの表情に私は魅了されていた。一枚の絵画のように美しいと思った。
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