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22 令嬢、侍女と店主の板挟みになる

 「嗅覚と同時に他の感覚を刺激する……そのような香りがあるならば、ぜひ試してみたいわ」


 私は軽く手をたたき、女性の顔をのぞきこむ。女性は楽しそうに表情を緩めると、大仰に香水棚の端から端へ指をさす。指先を追いかけると赤色の棚と紫色の棚を示していた。


 「こちらの棚からあちらの棚まで、ぐるりと回っていただけますか?お客様の感覚を引き出す香りが必ずあるはずです」


 女性には確信めいたものがあるのか、自信満々な態度を崩さない。

 エリアルは「お嬢様……」と不安げにつぶやく。私はエリアルの不安を晴らすように小さくうなずくと、赤色の香水棚に向かって歩いた。

 私が女性に目を向けると、女性は反対側にある紫色の商品棚に移動していた。女性は商品棚の障壁に触れ魔法を展開する。店内の香水棚に張り巡らせた障壁が淡く輝きだした。


 「準備完了です。これで、お客様が歩いた先にある香水の香りが漂うようになりました。……ただゆっくりと歩くだけで、今までとは違う香水の魅力に気づくことができますよ!」


 鼻息荒く女性は告げる。私は店内を一周するべく一歩を踏み出したが、二歩目を踏み出せずに固まった。

 花の蜜を思わせるほのかな甘い香りに、みずみずしい果実のような爽やかな香り。様々な香りが濁流となって私の鼻孔をくすぐる。調和のとれた香りのハーモニーに心が揺さぶられた。

 思わず振り返って女性を見つめる。目を細める私に対し、女性は子供のような笑みを返した。

 何となく気恥ずかしさを覚えた私はようやく二歩目を踏み出した。


 一歩ずつ私は歩みを進める。赤色の香水棚から橙色へ。七色の商品棚すべてを回るべく足を早めた。

 橙色の商品棚もなかばに差し掛かるころ、店外で感じていたエドモンド様の香りが漂う。思わず私は足を止めた。

 この香りはエドモンド様と同じだ……。脳裏にはエドモンド様の涼やかな姿が浮かんでいた。


 「お客様、いかがいたしました?」


 私が視線を向けると、女性はニヤニヤと笑みを浮かべていた。私は「何でもありません」とごまかすように言い切る。

 エドモンド様のぬくもりに後ろ髪を引かれながら、再び歩みを進めた。


 黄色、緑色、水色、青色と香水棚を通り過ぎ、最後である紫色の棚に差し掛かる。

 エドモンド様の香りに心を惹かれはしたが、それ以外の香水に衝撃を受けることはなかった。好みの香り、嫌いな香りは当然ある。だが、それだけだった。

 嗅覚と同時に他の感覚を刺激する香りは見当たらない。内心で期待していたためか、私はため息を漏らしていた。


 「――お嬢様!」


 エリアルの慌てた声が響き、ふと我に返る。

 ――倒れる。私が察するころには、視線は床に落ちていた。受け身などとれるはずもなく、目をつむることしかできなかった。


 「お客様、危ないところでしたね」


 柔らかな衝撃に、おそるおそる私は目を開く。見上げると、私よりも大きな胸越しに心配で顔を歪める女性が見えた。

 床にたたきつけられることを覚悟していた私は呆けてしまい、ただ女性に抱きしめられていた。


 「お嬢様、お怪我はございませんか?」


 急いで私にかけよるエリアルは興奮気味に声をかける。女性はゆっくりと私をエリアルに引き渡す。エリアルは力強く私を抱きしめ、背中をさすった。

 エリアルは「大丈夫、大丈夫ですから」と何度もつぶやく。エリアルの手が上下に動くリズムで、私は呼吸を整える。早鐘を打つ私の胸は、少しずつ落ち着きを取り戻していった。


 「……あの、助けてくださってありがとうございます」


 そっとエリアルから離れた私は、女性に向き直り深く礼をする。私に合わせるように隣に立つエリアルは小さく頭をさげた。


 「礼にはおよびません。……恐らくお客様との相性の悪い香りがあったのでしょう。ときおり、お客様のように立ちくらみを起こす方がいらっしゃいます」


 女性は困ったような笑みを浮かべる。何かを思い出すように遠くへ視線を向けていた。


 「相性の悪い香りですか?」

 「そうなのです。……簡単に言ってしまうと、お客様がもっとも嫌う香りです」

 「……どういうことでしょうか?」


 私の声に戸惑いの色が混じる。エリアルに視線を向けると、小さく首を左右に振って応えた。


 「香りを嗅ぐだけで、体が拒絶する。そのようなお客様の体が嫌がるような香りだと思ってください。お客様が倒れそうになったのは、体が香りから身を守ろうとしたからです。つまりは、嗅覚で感じた刺激が他の感覚にも伝播した、というわけです」


 女性は鼻をトントンと指で軽くたたきながら、きっぱりと私とエリアルに告げる。私は思わず息をのんだ。


 「……お嬢様の体に何か影響はあるのでしょうか?」


 青白い顔でエリアルはおずおずと問いかける。

 一瞬とは言え、私は意識を手放していたのだ。不安に思うのは当然だろう。私は震えだしそうな手でスカートを握りしめた。


 「何もありませんよ」女性はあっけらかんと言い放つ。

 「それは、本当でしょうか?どうも貴方様がお話しをなさることは、信用できそうにありません」


 エリアルは疑わしげに女性を見やると、私を女性から隠すように前に進み出た。

 女性は挑発的な笑みをエリアルに向ける。エリアルの背中からこっそりと盗み見た私は、射貫くような視線に体が固まってしまった。


 「本当ですよ。私に嘘をつく必要などありませんし」

 「では、お嬢様の体に問題はないと?」

 「そうですよ、メイドさん。先ほどの香りは、お客様を害することはありません。それは、当店の店主である私、トリスタが保証しましょう」


 淡々とした口調で話すエリアルに苛立ったのか、トリスタは冷たい声を出す。

 エリアルは考え込むように口を閉ざした。数秒間の沈黙後、「お嬢様に害がないのであれば、問題はありませんね」と静かにつぶやく。これ見よがしにため息をつくエリアルに対し、トリスタは舌打ちをした。

 漂う不穏な空気に耐えられなくなった私は、エリアルの隣に足を踏み出していた。


 「あ、あの!」


 私はからからに乾いた喉で必死に声を張りあげる。火花を散らす四つの瞳が私を捉えた。


 「購入したい香水がありますので、包んでいただけますか?」


 私の言葉が予想外だったのかトリスタから怒りの表情が抜け落ちる。口元を手で隠しクスクスと小さく笑い始めた。エリアルは私の後ろへと一歩下がった。

 弛緩し始めた空気に私は安堵のため息を漏らした。


 「それで、お客様はどちらの香水をお求めですか?」


 ひとしきり笑い終えて満足した様子のトリスタがにこやかに問いかける。私の答えは決まっていた。


 「青い薔薇の香水を三本お願いできるかしら?」

 「すぐにお持ちいたします」


 トリスタはしたり顔でうなづくと、香水瓶を取りに行く。その背中を見送りながら振り返ると、エリアルと目線が合った。


 「お嬢様、あの香水でよろしかったのですか?」

 「エリアルが自信を持って進めてくれた香水なのだから、当然よ。……夢のような香水があるのならば、それを購入するつもりだったけど、なかったでしょう。それならば、私はエリアルを信じるわ」


 私は得意になってウインクを送る。エリアルは「相変わらず下手ですね」と小さく苦笑した。

 小悪魔な脳内の私は『照れ隠しだわ』とささやく。無表情のエリアルとは対称的に、私は満足気な笑みを浮かべていた。


 「お待たせいたしました、お客様。こちらの商品でお間違いないでしょうか?」


 小走りでトリスタが近づいてくる。その手元には四本の香水瓶が握られていた。ご確認ください、と言うやトリスタは試供用の香水瓶を私に手渡す。

 そっと香水瓶の蓋を外し、手で扇ぐ。間違いないことを確認した私は小さくうなずくと、隣に立つエリアルの鼻先に近づける。エリアルも手で扇いで香りを確認すると、満開の笑顔を見せた。


 この青い薔薇の香りが大好きなだけなのかしら……。無表情の仮面をすぐに脱ぎ捨てるエリアルを不思議に思っていると、トリスタの含み笑いが聞こえてきた。


 「先ほどの態度は、今の表情で許してあげますよ、メイドさん」

 「……勝手になさってください。私の関与するところではありません」


 一瞬だけ肩を揺らしたエリアルが平坦に答える。表情から笑みは消え去っていた。淡々と会計を済ませるエリアルを私は小首をかしげながら見つめていた。


 「またのお越しをお待ちしております」


 背中越しに聞こえるトリスタの声に押されながら、私とエリアルは店を後にする。トリスタが歪んだ笑みを浮かべていることを知るすべはなかった。

読んでくださってありがとうございます。

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