20 令嬢、侍女と街に出向く
「香水が今の流行り……ね。リーゼは喜んでくれるかしら」
翌日の午後一時過ぎ、私とエリアルは王都の中心街を並んで歩く。小さな騎士への感謝を伝えるために、プレゼントを購入することが目的だ。昨夜、エリアルに相談したとおりプレゼントは香水に決めていた。
「その香水を使用すると幸福に包まれる、とのことです。果実のような甘酸っぱい匂いから、草原を思わせる爽やかな匂いまで、嗅ぐ相手に応じて味わいを変えることが特徴……そう伺っております」
エリアルは外向きの笑みを浮かべる。能面を貼り付けたような薄い表情に私は噴き出しそうになった。私の嫌いだった無表情も、職務に忠実であるが故だと知れば愛おしくもなる。
お互いの心情を吐露した昨夜、私が抱き続けていたエリアルへの誤解は解かれ、私とエリアルの関係は少しだけ昔馴染みへと戻った。それは、私にとって好ましい変化だった。
「相手の好みの香りを漂わせることができるならば、女性なら誰だって欲しいと思うわ。私だってプレゼントされれば嬉しいもの。でも……リーゼにはまだ早くないかしら?」
リーゼの笑顔を思い浮かべ、私は不安を漏らす。年頃の少女らしい純真さ――それがリーゼの魅力だと私は思う。
美容品よりもお菓子の方がいいのではないか。何よりも夢物語のような香水は実在するのか。私はいまだにリーゼへのプレゼントで迷っていた。
「ライラック様は今年で十歳になられます。お嬢様もご存知のとおり、十歳の令息令嬢には王妃様へ謁見する栄誉がございます。香水を贈ることは、大人へと一歩近づかれるライラック様の後押しとなると私は確信しております」
エリアルはよどみなく即答する。同じ質問でも眉一つ動かさなかった。
スターチス王国の貴族は、十歳で王妃様に、十五歳で王様に謁見することで社交界への参加が許される。王妃様への謁見後は親同伴での舞踏会への参加が認められ、王様への謁見後には一貴族としての参加が認められる。
リーゼは伯爵令嬢としてのスタートラインに立とうとしていた。
「――僭越ながら、お嬢様」
エリアルはわざとらしく一つ咳を出す。私は歩みを止めて振りかえると、伏し目がちにエリアルと視線をまじえた。
「ライラック様は何も知らない子供ではありません。お嬢様の大切なご友人でございます。どうか対等に見てくださいませ。なによりも、ライラック様は……ただのメイドにすぎない私とは違い……公の場でお嬢様の隣に立てるお方です」
エリアルの表情が悔しげに歪んだ。私は思わず息を呑む。エリアルにかけるべき言葉がすぐには思い浮かばなかった。
私は下唇を噛み締めた。
「幸いなことに、ライラック様はお嬢様をお慕いしているご様子。……お嬢様は、さらにライラック様のお心を奪い、味方につけるべきです」
エリアルは一方的に苦言を呈す。言い切るその声は、かすかに震えていた。それは、これまで私が見過ごしていたエリアルの葛藤だった。
ただ友人を喜ばせるためにプレゼントを贈りましょう、と裏表もなく言えればいいのに……。苦しい私の立場を心配するあまり、心優しいエリアルに残酷な言葉を言わせている。私がエリアルを歪めたと思うと胸が痛い。
口の中にじわりと鉄の味が広がった。
「……そうだったわね、エリアル。早く行きましょうか」
私は体を前に向き直しながら、平坦な声を出す。私の罪悪感をエリアルには知られたくはなかった。
エリアルは「かしこまりました」とつぶやくと、私を先導するために前へ出る。手の届く距離のはずだが、エリアルを遠くに感じた。
小さく肩を落とす私は、エリアルの後ろをついて歩く。黙したままの私に倣うように、エリアルも口を閉ざした。
私とエリアルが香水店にたどり着くまでには五分もかからなかった。たった五分の沈黙が永遠に思えたのは、私に後ろめたさがあるからだろうか。
エリアルは「あちらが目的の香水店となります」と振り向きざまに声をかける。感情の読めない瞳が細められ、私を見つめていた。
私は心を押し殺して笑みを浮かべた。
「どんな香水が売っているのかしらね?エリアルも一緒に選んでちょうだいね」
首を縦に振るエリアルを追い抜いて前に出る。香水店に一歩近づくたびに、ほんのりと甘いにおいが漏れ出す。柑橘類のにおいだろうか?
鼻孔をくすぐるシトラスな香りに自然と頬がゆるむ。
爽やかでやさしい香りにどこか安心感を覚える。そっとまぶたを閉じると、エドモンド様の凛々しい姿が自然と浮かんでくる。
エドモンド様の腕の温もりを思い出し、両手で自分を抱きしめていた。
「この香りは……薔薇でしょうか?」
エリアルは立ち止まった私に追いつくと小さくつぶやく。私は思わず目を見開き、隣に立つエリアルを見た。
「高貴でほんのりと甘いにおい……いつまでもそばにいたいと思わせるような、素敵な香りです」
うっとりとエリアルは息を吐く。無表情の仮面は剥がれ落ちていた。
「エリアルは、薔薇のにおいだと思ったの?」
「はい、お嬢様。……私は素敵な香りだと思いましたが、お嬢様のお気に召しませんでしたか?」
小首をかしげて不思議そうにエリアルは聞き返す。私は首を左右に振った。
「違うわ。私には……薔薇のにおいとは思えなかっただけよ。柑橘類のにおいがしたわ」
「……柑橘類ですか?」
エリアルは香りを確かめるように目を閉じる。数秒の沈黙後、ゆっくりとまぶたを開けた。
「申し訳ございません、お嬢様。私には薔薇の香りとしか思えません。しかし、私とお嬢様で感じ方の異なる香り……恐らくはこのにおいの元こそが、噂の香水でしょう。ライラック様に贈る香水に間違いないと思われます」
一瞬だけ申し訳なさそうに目を伏せたエリアルだが、すぐに破顔する。ころころと表情を変えるエリアルに私は戸惑うばかりだった。
――私的な場以外では、私の専属メイドでいたい。
メイドとしての職分を全うするとエリアルが宣言したのは昨日のことだ。その舌の根が乾かぬうちに、簡単に誓いを破るとは思いたくない。
やはり、エリアルの豹変の原因は私にあるのだろうか。……まさか私を見限ったの?
嫌な想像を振り払うように私は首を左右に振る。無表情の仮面の隙間からエリアルの感情が漏れ出すことは、ままあった。感情を剥き出しにしているのは、たまたまに違いない。私はぐっと息を呑みこんだ。
「お嬢様、早く参りましょう。これほど素敵な香りだとは思いもしませんでした。噂以上でございます。これならば、ライラック様もお喜びになるに違いありません!」
「……そうね、エリアル」
エリアルの弾んだ声に対し、私は平坦な声で答える。エリアルの代わりに私が無表情の仮面をかぶったみたいだった。
エドモンド様を思い起こす香りも感じられない。楽しむ気にもならない。私の心から熱が急速に失われていった。
「お嬢様、早く行きましょう!」
エリアルは満面の笑みで私の右手を引く。驚く私はよろめきながら後を追うが、エリアルは歩みを速めていくばかりで立ち止まる気配がない。私は「エリアル、離しなさい」と言い放つが、エリアルは聞き入れようとしない。
私はエリアルに引きずられるままに香水店へと連れ込まれた。
表情も言動もどこかおかしいエリアルに不安を覚えずにいられない。エリアルに掴まれた私の右手は固まったまま動こうとしない。エリアルの手を握り返すことはできなかった。
読んでくださってありがとうございます。




