02 令嬢、逃亡する
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「…………ひどい顔」
泣きわめいた翌日の朝、鏡の前に立った私は自嘲の笑みを浮かべていた。腫れた目に乱れた髪は、人前に出られる姿ではなかった。
こんな姿をエドモンド様に見られたらきっと嫌われる、とぼんやりと考えていた。王太子妃に内定している私が身につける品は一級品だらけだ。その一級品を身にまとう私は二流に過ぎないことが、私をより惨めにした。
私の世話を焼くエリアルは、昨日の出来事について何も言わなかった。
幼子のように泣きわめく、主にあるまじき姿。冷静になると、昨日の私の振る舞いは恥でしかない。王太子妃としても公爵令嬢としてもふさわしくない。エリアルも私に失望したのでは、そう思うと怖くて私から話しかけることができずにいた。
私が話し役でエリアルが聞き役。この配役を長年にわたって続けてきた。私が黙ってしまえば、沈黙が部屋を支配した。
エリアルは仕事に忠実だ。黙々と私の腫れた目に処置を行い、私の身だしなみを整えていく。私はただエリアルにされるがまま、ビクビクと従っていた。
「――今日のお嬢様は、全然可愛らしくありませんね」
私の髪をハーフアップにセットし終えたエリアルが、ふいに私の耳元でささやいた。ギョッとした私は振り返った。
「可愛らしくありません。少しも、全く、ちっとも、可愛らしくありません」
エリアルはこれみよがしに肩をすくめて、言葉を繰り返す。
「お嬢様にお会いしてから、もう十年になりますが、こんなに可愛らしくないお嬢様は初めてです」
語りかけるようにゆっくりと話すエリアルは、どこか悲し気な笑みを浮かべる。
「残念なことですが………エドモンド様に全くふさわしくありません」
その言葉で体全身がビクッと反応して後ずさった。目を見開いてエリアルを見た。
どうしてそんな酷いことを言うの?エリアルも私のことが嫌いになったの?エドモンド様と同じくらい大好きなエリアル、あなたもお父様みたいに私を見捨てるの……?
私は混乱していた。しっかりと踏みしめていた足場が、いきなり崩れ落ちていくような気がした。
「…いや……いや…」
「お嬢様?」
「………いや。……いや、よ。…………嫌いに、ならないで、お願いだか――」
「――お嬢様は愚か者です!」
かろうじて絞りだした私の声に、興奮したエリアルの声が重なった。
「お嬢様は何もわかっていません!わかろうとしていません!何も見えていません!」
エリアルが私との距離を詰めてきた。エリアルが激昂する姿を初めて見た私は、顔を引きつらせた。
「……何を言ってるの?」
「お嬢様が愚か者だと言っているのです!お嬢様はエドモンド様の何を見ているのですか!お嬢様は私の何を見ていたのですか!」
「――私はちゃんと見ているわ!」
エリアルの言いようにムッとした私は思わず反論した。大好きなエドモンド様とエリアルのことを私が見ていないなんて、ひどい言いがかりだ。いくらエリアルでも許せない。
「エドモンド様もエリアルも私の大切な人よ!私が見ていないわけないじゃない!どうしてそんな酷いことばかり言うの!」
「見ていないから、私が言っているのです!お嬢様は愚か者、馬鹿者です!」
「エリアル!」
私は泣きそうになりながら、声を張り上げた。どうして大好きなエリアルに責められないといけないの?エドモンド様との仲を応援してくれていたのに、どうして傷つけるようなことばかり言うの?
涙だけは流すまいと、唇を噛んでエリアルをにらみつけた。
「お嬢様は、どうして信じてくださらないのですか!」
エリアルの悲痛な叫び声に、ハッと息をのんだ。
「私がお嬢様を嫌いになんてなるわけないじゃないですか!それなのに、どうして私に嫌われるなど、思われたのですか!そんなに私のことが、信じられないのですか!」
何か反論しなければならない、そう思うのに何も言えなかった。ただ口をパクパクとするだけで、声が出なかった。
エリアルのことを信用していると、エリアルのことを実のお姉様のように慕っていると、伝えなければならない言葉はある。それなのに、言葉にできない。
「……何も、言ってくださらないのですね」
寂しそうにつぶやくエリアルは、そこで言葉を切った。いつからだろうか。エリアルは俯き、私の顔をもう見ていなかった。
「…………ひどいです、お嬢様」
弱々しくつぶやくエリアルを私はもう見ていられなかった。
違う、違うわ。私はエリアルのことも大好きよ。泣き虫な私の傍で支えてくれて、いつも褒めてくれた。私に良いことも悪いことも教えてくれた。私にとってエリアルはただのメイドなんかじゃない。エリアルは私のお姉様、そんな大切な人なの。あなたのことが大好きなの。
言わなくてはいけない。伝えないくてはいけない。でも、声が出ない。
なんで?どうして?そんな疑問が頭の中をぐるぐると回る。体と心がちぐはぐで、私の中の混乱は深まっていた。
どれだけ混乱していたかは私自身もわからない。数秒かもしれないし、数分かもしれない。それでも、私はかろうじて、一つだけ答えを見つけた。
――今すぐに、ここから離れないといけない。
逃げたい、それが正直な気持ちだった。ここにいたくなかった。
エリアルの傷ついた姿は見たくない。何よりも、エリアルに信頼していると告げたときに、否定の言葉を聞きたくなかった。エリアルに拒絶されることが怖かった。
逃げるのは早かった。エリアルの脇を通り抜けて、ドアに向かって走り出す。セットした髪が崩れることなんて、気にしていられなかった。
「――お嬢様」とエリアルの驚いた声が背中越しに聞こえる。
一瞬、ドアノブにかけた手が止まったが、すぐに部屋から飛び出す。エリアルは私を追ってはくれなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――」
走りながら、私は謝罪の言葉をつぶやき続ける。誰に何を謝っているのか。どこに向かおうとしているのか。何もわからないまま、ただただ衝動に任せて逃げ出すしかなかった。
目尻に溜まっていた涙を堪えることは、もうできなかった。