19 令嬢、侍女に懺悔する
私はどうして気づけなかったのだろう。すっかりと冷めてしまったスープを眺めながら、私は自問を繰り返す。騒がしかったはずの学園寮の食堂はいつの間にか静まり返っていた。スープの湖面に寂しげな笑顔を浮かべるリーゼが見える気がした。
リーゼと一緒に過ごす学園生活も二週間を過ぎた。隣にリーゼがいる……たったそれだけのことで私は満たされていた。
学園の生徒から送られる蔑む視線も魔法が使えないことへの劣等感も気にならない。代わり映えのしない講義風景でさえも愛しく感じていた。はっきりと言えば、私は舞い上がっていたのだ。
私の当たり前がリーゼにとっても当たり前とは限らない。そんな基本的なことにすら思い至らなかった。
私は蔑む言葉にも冷たい視線にも慣れている。心の摩耗を防ぐ術を知っている。
しかし、リーゼは違う。並んで歩いていたはずが、私の少し後ろを歩くようになったのはいつからだろうか。
ふいに聞こえた鐘の音に私は顔をあげる。掛け時計は午後七時半を刻んでいた。私は小さなため息をつくと、ほとんど手つかずの夕食を片すべく席を立った。
寮室に向かって私の足は動き出す。一方で、ぐるぐると迷走を続ける私の頭はちっとも働きやしない。やるせないため息が漏れた。
気づいてしまえば、リーゼの様子がおかしいのは明らかだった。小さく震える体に、どこか我慢したような笑顔。はじめて出会ったときの屈託のない姿とは、ほど遠かった。
リーゼを曇らせた原因は私だ。リーゼは私を傷つけないために気持ちを隠し、私に傷ついた姿を見せないようにしたのだろう。鈍感な私は何も気づかずに、ただ好意に甘えていたのだ。
怖かっただろうし、辛かっただろう。もしかしたら、私の知らないところでリーゼは一人きりで泣いていたのかもしれない。想像するだけで、万力で締め付けられたかのように私の胸は痛み出す。その一方で、甘露を味わうかのごとく愉悦に満たされていた。
……私は嫌な女だ。
私のかつての友人たちと違い、リーゼは決して私から離れない。その事実だけで、口元に歪んだ笑みが浮かびあがりそうになる。私は必死にかぶりを振った。
「おかえりなさいませ、お嬢様」寮室に入る私を侍女のエリアルが迎えた。
「……ただいま、エリアル」
自己嫌悪に陥った私は、陰鬱な声でつぶやく。エリアルは「お嬢様?」と目をパチクリさせた。
「――どうなさいましたか?」エリアルは慌ててかけよる。
「何でも、ないの……。私は、大丈夫だから……」
蚊の鳴くようなささやき声しか出せない私に、エリアルは眉根を寄せる。そして、何事かを考えるかのように、額に人差し指を当てて目を閉じる。
十数秒後、ため息を吐いたエリアルが私を見やった。
「何があったか教えていただけませんか?」
「……何もないわ。心配されるようなことは、何も……」
「本当ですか?」
エリアルのいぶかしげな視線に耐えられず、私は逃げるように顔を伏せる。そんな私を見て、エリアルはクスリと笑った。
「あいかわらず、嘘がへたっぴね」
「……エリアル?」
「昔みたいに、少しお話ししましょうか。ルティは嫌かしら?」
私が顔をあげると、エリアルは小首を傾げていた。エリアルの「ダメかしら?」とつぶやく声に、思わず首肯する。
微笑むエリアルは私の手を引き、前を歩く。連れられるままに、私とエリアルは並んでベットに腰かけた。
「ルティ、何があったか教えてくれる?」
エリアルは私にやさしく声をかける。そっと伸ばされたエリアルの手が私の頭をなでる。懐かしい感覚に私は身を預けた。
主従関係となるまでは、姉妹のように過ごしてきた。年の離れた兄よりも、四歳違いで遊び相手だったエリアルの方が、私にとって身近な甘えられる相手だった。
だから、エリアルが私の侍女として距離をとったことが寂しかった。
「……エリアル、私は……」
「お姉様、と今だけでも呼んでくれないかしら。ここには、私とルティしかいないわ。昔みたいに話しても、何の問題もないよ」
「……お姉様」
私は小さくささやく。はにかみ笑顔でエリアルは「何かしら?」と答えた。私の好きだったエリアルの表情に、私の瞳から涙があふれそうになる。
侍女としての笑みは無機質で嫌いだった。
「私は、どうしていいかが、わからないの」
私は感情のままに言葉を漏らす。ブランケットを強く握りしめていた。
「大切な、大切な友人ができたの。私はそれが、とても嬉しくて……。それなのに、全然わからなかった。私の友人でいるから……私と同じように嫌われて、傷ついていることに」
エリアルは私の震え声を黙って聞いていた。私の握りこぶしは、いつの間にかエリアルの両手でつつまれていた。
「助けてあげたいのに、どうしていいかがわからないの……。これ以上に傷つくことがないように、私から離れてもいいなんて言えない……。一人は嫌、一人ぼっちは嫌なの……」
私の頬を涙がつたう。ひとたび堰を切られた涙の奔流を止める術を私は知らない。エリアルの姿が滲んで見えなくなっていた。
「ルティは馬鹿ね」
エリアルは声をかけながら、私の額にコツンと自分の額を合わせる。私の耳にエリアルの柔らかな声が響いた。
「難しく考える必要なんて、全くないのよ。ただね、大好きだよ、ありがとう……。そう伝えるだけで、充分」
エリアルはゆっくりと優しくささやく。
「ルティの友達はね、ルティを選んでいるんだよ。……以前の友達だった人は、すぐに離れたでしょう。でも、その子は今もルティの隣にいる。ルティは、その子の気持ちを信じないとダメよ」
「……でも、傷ついていたよ。もしかしたら、私のことも嫌いになるかも……」
「――信じてあげて」
エリアルは即座に言い切る。私は二の句が継げなかった。
「ルティが、不安になる気持ちはわかるわ。ルティを傷つける人は多いから、人を信じられなくなっていることも……。でも、疑ってばかりではダメ。私とエドモンド様のように、きっとその友達も、ルティのことが大好きなだけなの。……ルティは、その友達のことが嫌いかしら?」
「……嫌いなわけないよ」私は小さな声でつぶやいた。
「それなら、信じてあげて。そして、その友達を大切に思っていることを伝えるの。……後は、プレゼントを贈るのもいいかもしれない。ライラック様もきっと喜ぶわ!」
「リーゼのことを知っていたの?」
思わず私は気の抜けた声を出す。エリアルは「私はできるメイドですから」と誇らしげに笑った。
「ライラック様はとてもお強い方ですよ。実はね、ルティと一緒にいるところも何度か見ているの。……ルティの言うとおりライラック様は傷ついていると思う。私も他のメイドに心ない言葉を言われるから想像がつくわ。でも、あの表情は……悲しいというよりも悔しい、そんな顔だった」
エリアルは淡々と語るが、私の心は冷たくなっていく。リーゼとエリアルを傷つけているのは事実だ。
私は顔を伏せようとする。エリアルは額を前に突き出して、強引に押しとめた。
「ライラック様の顔は、エドモンド様と同じなの。ルティが大好きだから、ルティが認められなくて悔しい。……私もそうだからわかるわ」
そっと合わさっていた額が離れる。涙で覆われた視界では、エリアルの表情は滲んで見えなかった。
「ルティ、ライラック様のことも『信頼』してあげて。あの日、私に花を贈ったように」
私はエリアルに花を贈った日を思い出す。エリアルに気持ちを伝えられず口論をしたあの日。不器用な私は花言葉で『信頼』を伝えたのだ。
エリアルには言っていないが、同じ花をリーゼにも送っている。それなのに、私はリーゼを信頼しきれていなかったのだろうか。いや、エリアルに贈る花をリーゼにも贈ったのだ。それは、リーゼのための花ではない。
私から乾いた笑いが漏れた。
「……お姉様の言うとおりだよ。私はリーゼの気持ちに応えられていない。リーゼが私を信頼してくれているのに、私はリーゼを信頼しきれていなかった……」
騎士になりたい――リーゼの夢を叶わぬ夢だと決めつけていた。私自身が諦めたから、リーゼもきっと諦めると……。
私は愚か者だ。リーゼの気持ちを憧れにすぎないと枠にはめて考えて、本気にしていなかった。
物語に出てくる理想のお姫様になんてなれない、と心のどこかで諦めていたのかもしれない。だから、リーゼの望む『アルティリエ姫』から逃げていた。……私自身はエドモンド様のお姫様になることを夢見ているのに。
「今からでも遅くないかな?」私はかすれた声を出す。
「遅いなんてことはないわ!ルティの気持ち、ライラック様に伝えてあげて。絶対に喜ぶわ」
エリアルは弾んだ声で返す。私は泣き笑いしながら、大きくうなづいた。
「明日、一緒にプレゼントを買いに行ってくれる?」
「――お任せくださいませ、お嬢様」
私の甘えた声に、エリアルは芝居がかって答える。思わず私は小さく噴き出す。
エリアルはごまかすように、豊満な胸で私を抱きしめる。頭を一撫でされた私は、気持ちよさに目を閉じた。
「二人きりのときは、またお姉様でいてくれる?」
「それは……できません。お嬢様のお言葉、とてもうれしく思います。ですが、私はただのメイドにすぎません。本来であれば、お嬢様の隣に座るなど決して許されません。今日の私は、お嬢様の専属メイドとしては落第です」
私の願いは、エリアルにきっぱりと否定される。心の熱が急速に失われていく。私が見上げると、エリアルは悲痛な面持ちをした。
「――ですが、もし許していただけるならば、お嬢様の寮室にいるときだけでかまいません。お嬢様の昔馴染みとして、接することをお許しください。……私は、時と場合で表情の使いわけができるほど器用ではありません」
表情の変化に気づいたエリアルが、慌てて言いつのる。強張った私の体から、力が抜けていった。
……真面目で不器用、そんなところは昔と変わらないのね。
思い返すと、エリアルの感情があふれ出している場面は一度や二度でないことに気づく。感情を抑えきれていないことにエリアル自身は気づいていない。
口元に大きな弧を描いて、私は声を出して笑った。
「私も公爵令嬢ではなくて、ただのルティでいます。だから、メイドのエリアルではなく、私のお姉様として接しなさい。……もちろん、公私の区別はしっかりつけたまま、ね」
私はエリアルに向かって、へたっぴなウィンクをする。エリアルはこらえきれずに笑った。
侍女寮の門限近くまで、姉妹関係を取り戻すように私とエリアルは語り合った。表情の薄いメイドと嫉妬深い公爵令嬢はそこにはおらず、ただ二人の少女がいるだけだった。
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