18 幼女父、絶望する
リーゼのお父さん視点です。
父:クロード
母:エレーナ
「クロード様!」
夜も更けるころ、玄関をくぐった私を妻のエレーナが迎えた。三日ぶりの帰宅とはいえ、帰りは遅く迎えは不要だと先触れを出していた私は、思わず目を見開く。愛しき妻が目端に涙を浮かべながら、私の胸に飛び込んできた。
「クロード様、リーゼが、リーゼが……」
エレーナが青ざめた表情で娘の名をつぶやく。いつになく正気を失ったエレーナの姿に、私の身体は強張った。
「落ち着きなさい、エレーナ。そんなに取り乱していては、伝えたいことも伝わらないよ。……私はここにいるから、ゆっくりと話してみなさい」
私の服を掴むエレーナの手から力が抜ける。私はエレーナの背をそっと撫でた。
エレーナがここまで動揺するほどのことがリーゼにあったのか。友人ができたと嬉しそうに話していたのはつい最近のことだ。友人ができない、と寂しげにつぶやくリーゼの表情を思い出し、胸が締めつけられた。
動揺がエレーナに悟られないように、私は軽く胸を張った。
「エレーナ、リーゼのことを教えてくれるかい。私たちの大切な娘のことだ。エレーナと私、二人で支えよう。……ゆっくりでいいから、話してほしい」
「……クロード様」
エレーナの潤んだ瞳が私を見上げる。私はエレーナの前髪をあげ、その額に口づける。エレーナはふにゃりと泣き笑ったが、すぐに沈痛な面持ちで俯いた。
「……リーゼがずっと落ち込んでいて、食事にもほとんど手をつけないのです。どうしたの、とリーゼに尋ねても理由を答えてくれません……」
ポツリポツリとエレーナが言葉を紡ぐ。その声は少しずつ淀んでいた。
「……それに、リーゼの良くない噂を聞いてしまって……私、リーゼが心配で……でも、何もできなくて……」
「――リーゼの噂だと?」
私は思わず押し殺した声を出す。
リーゼは私とエレーナの自慢の娘だ。まだ幼さが残るが真面目な頑張り屋で、非道に手を染めたりはしないはずだ。いったい何がリーゼにあったのだろうか?私は思考を巡らせた。
エレーナは言い渋るように、身じろぎする。思考の海に沈んだ私も黙り込んだ。
意を決したエレーナが顔をあげたのは数十秒後のことだった。
「リーゼが、あの悪い噂ばかりの……王太子妃様の取り巻きになっているみたいなのです。王太子妃様といつも一緒にいると……」
思わぬ人物の登場に私は眉を寄せる。
王太子妃に内定しているアガパンサス公爵令嬢は悪評にまみれている。傲岸不遜で癇癪持ち。公爵家の地位を鼻にかけた手に負えない暴君。
パーティーでは王太子殿下のそばに張り付き、殿下に近づく令嬢を牽制する。それが殿下の社交を妨害していると気づきもしない。王太子妃でなければ子供らしい嫉妬だと見過ごすこともできたが、許される立場ではない。公私の分別がつけられないならば、確かに王太子妃にはふさわしくはないだろう。
ただ、私個人としては公爵令嬢を買っていた。
「……王太子妃様は、学園でも問題行動ばかり起こしているそうです。最近も癇癪を起こして食器を投げつけて……どうやら怪我人を出したみたいで……。それに、リーゼが怒鳴りつけられている……怒られているところを見たと、そんな話も聞きました」
エレーナは悲しげに顔を歪める。
あの公爵令嬢が他人に怪我を負わせる?それも、王太子殿下以外の理由でか?私には俄かに信じられなかった。王太子殿下が隣国リンドリアへ短期留学中の今、公爵令嬢が誰かに牙を剥くとは思えない。殿下が絡まらなければ、理性的な令嬢だったはず。
そもそも、あの公爵令嬢は過少評価されているのだ。王太子殿下への執着心と魔法の才がないことを除けば、国内有数の才女なのだ。事実、魔法を重要視しないリンドリアの高位貴族から婚約の申し込みがあったとも聞く。
――ただ王太子殿下の隣に立つため。
それだけのために費やしてきた努力は並大抵ではないはずだ。八年がかりで行う王妃教育をたったの三年で修了させるなど尋常ではない。優秀と名高い現王妃様ですら七年を要しているのだ。
王を決して裏切らないものこそが王妃にふさわしい、と私は思う。公爵令嬢は王とともに戦う剣にはなれない。だが、王の心を守る盾にはなりえる。
先々代の王と王妃の不和が国を傾けたことを思えば、公爵令嬢には王妃となる資格は十分にある。もっとも、一人の騎士としては戦えない王妃に忠誠を捧ぐことはできないが……。
「リーゼは、きっと王太子妃様に騙されて、利用されているのだと思います」
「騙す必要があるのか?……そもそも、リーゼと公爵令嬢にどうして繋がりができている?接点があるとは思えない」
私は顔をしかめながらつぶやいた。
「リーゼが友人について話していたことを覚えていますか?」
「……忘れるわけがないだろう。リーゼのあんなに幸せそうな顔を見たのは、久しぶりだった」
はじめての友人ができた、と屈託なく笑うリーゼを思い出し、頬が緩みそうになる。その笑顔が失われていると思うと、心がないだ。
エレーナは青白い顔をしたまま、下唇を噛んだ。
「クロード様……あの時、リーゼが話していた友人が……王太子妃様です」
絞り出すようなエレーナの声に、私は顔を引きつらせる。
「……何を言っているんだい、エレーナ?リーゼの友人が、あの公爵令嬢なわけがないだろう」
「ですが、クロード様、本当なのです」
エレーナは縋るように私に身をゆだねてくる。思わず抱き止めた両腕に力がこもった。
「あの公爵令嬢は王太子殿下にしか興味がないはずだ。リーゼに付きあって騎士の真似事をさせたりはしまい」
「リーゼを利用するつもりならば……ありえます」
エレーナは私の願いをはっきりと否定する。掴まれた衣服が引っ張られ、私の首を強く締めた。
「クロード様……リーゼは友人を『ルティお姉ちゃん』と呼んでいました」
「……そうだったな」
「王太子妃様のお名前は……『アルティエル・アガパンサス』様です」
「ああ、そんな名前だったな」
エレーナのつぶやきに応答するたびに、私の表情は硬くなった。
公爵令嬢を王太子妃と認めるか否か。王国を二分するこの議題に対して、ライラック伯爵家は中立を保ってきた。王太子殿下と一部貴族だけが承認の立場を表明しているが、それも全体の二割にも満たない。貴族の半数は否認を表明しており、ライラック伯爵家を含めた中立派は三割だ。
数の上ではすでに趨勢は決している。なによりも、宰相を務める公爵令嬢の生家が否認派に属しているのだ。王太子殿下と密なつながりを持つ貴族でなければ、誰が好き好んで宰相の不評を買うようなことをするだろうか。
私は静かに天井を仰いだ。
「リーゼの友人が、あの公爵令嬢か……」私は色なき声をつぶやく。
ライラック伯爵家を思うならば、王太子妃への否認を表明すればいい。例えリーゼに恨まれたとしても、安定を求めるべきだ。自領を持たない王都の守護伯などいくらでも首を挿げ替えられる。多数派に準じたところで恥ではない。
私が立場を決めかけたとき、リーゼの泣き顔が脳裏をよぎる。動揺を振り払うように左右に首を動かした。
「クロード様、私は……私はずっと一緒におります!」
エレーナが泣きそうな表情で私をのぞきこむ。私は動きを止め、エレーナを見返した。
「……だから、だから、遠慮なんてしないでください」
エレーナの瞳から一筋の涙が流れる。愛しい妻と娘の泣き顔が重なり、私は目を見張った。
「私のことは、いいのです。リーゼが、私たちの宝物が、笑顔でいてくれたら私は幸せです」
「……私もリーゼから友人を奪いたくはない。だが、リーゼが公爵令嬢の友人であり続けるならば、ライラック伯爵家は王太子妃を承認したことになる。王太子の後ろ盾がないにもかかわらず、だ。……王太子妃をよく思わないものに、君も責められるかもしれない。それでも、本当にいいのかい?」
答えの決まっている問いだと知っていたとしても、エレーナに尋ねずにはいられなかった。エレーナは「かまいません」と決意を口にする。
エレーナ、君はどこでリーゼの噂を聞いたんだ?誰に何を言われた?
私は喉から出かけた問いを無理やり飲み込む。ごまかすようにエレーナに口づけると、愛しい妻はそっと私に身をゆだねる。いつになくエレーナの存在を大きく感じた。
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