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龍の子どもたち  作者: 未由季
第1部
21/82

《ツキコ 1》

 孤児院なんてどこも似たりよったりなんだろうけど、わたしたち姉妹がいたところは特別ひどかった。虐待や体罰が日常化していた。

 姉はわたしの身を案じて、孤児院を出る決意をした。


 わたしと姉は粗末長屋の一角に、居を構えた。姉妹で寄り添いながら、その日その日をなんとか暮らした。生活自体は苦しかったけれど、孤児院で暮らしに比べたら遥かに平和だった。


 家計は姉の肩にかかっていた。

 十二歳のわたしを受け入れてくれる働き口は、なかなか見つからない。姉はわたしのぶんも頑張って働いた。

 毎朝、姉は日雇いの労働をもらいに、斡旋事務所を訪ねる。ちらりと聞いた話では、仕事内容はきついものが多いようだった。だけど姉はいつも笑っていた。現場責任者の機嫌次第で理不尽な仕打ちを受けたときでも、姉は笑顔を絶やさなかった。



 秋、冷たい長雨が続いたせいか、姉は熱を出した。

「寝ていればすぐ治るから」最初のうちそう言って笑っていた姉だったが、次第に食欲が落ちていき、目が落ちくぼみ、起き上がるのもやっとの状態になった。


「姉さん、病院に行って看てもらおうよ」わたしは言った。


 姉は薄い毛布にくるまりながら、微かに首を振る。「そんなお金、うちにはないわよ……」


「じゃあせめて薬を飲んでよ。わたしが前に熱を出して寝込んだときに、姉さんが手に入れてくれた薬。あれ、まだ残っているでしょう」

「……ないわよ」

「そんなことない。わたしあの薬、全部飲んだりはしなかったわよ。本当は残ってるんでしょう。わたしに遠慮しなくていいから、わたしはもう絶対寝込んだりなんかしないから、たまには姉さんも自分を労わってよ。ねえ、薬を飲んで」

「本当に……ないのよ、薬……」姉は目を伏せた。

「まさか姉さん、残りの薬を……」

「うちから三つ先の部屋に、ちょうどわたしと同じくらいの女の人が住んでいるの。その人にも妹さんがいて、具合が悪いって聞いたから、薬を譲ったのよ」


 それを聞いて、わたしは愕然とした。

 お人好しの姉は、困っている人を見ると放っておけずに、迷わず手を差し伸べる。それで自分が損をするとわかっていても、見過ごすことのできない性分なのだ。


 わたしはある光景を思い出し、胸の内にざらつきを覚えた。「ねえ、それっていつの話?」おそるおそる、尋ねた。

 なぜそんなこと訊くの? そう言いたげな顔で姉は答えた。「二週間くらい前だけど」


「ああ、やっぱり……」

 わたしはその部屋に住む姉妹のうち、妹のほうを二週間前に目撃している。妹はわざわざうちの前に座って、見せつけるようにアイスクリームを食べていた。それでわたしと目が合うと、にやりと意味ありげに笑ってみせた。

 そうか、あのときの笑いには、そういう意味が込められていたのか――。

 わたしはすべてを理解した。

 あんたの馬鹿な姉さんが騙されてくれたお陰で、こうやって贅沢ができたよ。そんな嫌味をこめて、あの妹は笑いかけてきたのだ。

 病気の話は嘘だった。姉妹はわたしの姉からくすねた薬を売り払い、金を得たのだろう。姉の優しさにつけこんだのだ。


「姉さん、騙されたのよ」わたしは姉に真相を説明した。



 ◇



 姉と言い合いになって、わたしは表に飛び出した。そのままの勢いでずんずん歩き、いつも姉が日雇いの仕事をもらっている事務所を目指した。

 姉の代わりに働こう。一日働いてどれくらいの賃金になるかわからないけれど、それで買えるぶんだけ薬を手に入れよう。もし余裕があれば、姉のために何か栄養がつきそうな食べ物も買って帰ろう。


 事務所に着いて、仕事が欲しいと伝えると、所長はいい顔をしなかった。

「あいつの妹ってことは、まだ十二だろ? 規則で十二歳は雇えないことになってるんだ」


 わたしは必死に頼み込んだ。自分はいつも実年齢より上に見られるから、現場で歳がバレることはない。もし訊かれても嘘をつく。事務所に迷惑はかけない。

 あまりに食い下がるので、所長はしぶしぶ首を縦に振った。


 その日、わたしは生まれて初めての労働をした。

 一日中モグラみたいに穴を掘り、土を運び、廃棄物をトラックに積み込み、また穴を掘り、資材を運んだ。そして日が暮れると、現場から事務所に戻り、日当を受け取った。


「……たったこれだけ……?」

 手渡された封筒の中身を確認して、驚いた。あんなに働いたのに。


「おまえの姉ちゃんは、いつもその額で仕事してるんだ」所長が言った。「姉ちゃんはおまえみたいに不満な顔なんかしない。いつも笑って、俺に感謝をしながら給料を受け取るぞ。おまえは愛想がないな。そんなんじゃ次からは仕事回してやれないからな、気を付けろ」


 わたしは慌てて深く頭を下げた。そして事務所を出ると、薬屋まで走った。

 薬は買えなかった。

 一日働いただけでは、金額が足りなかったのだ。

 このままでは姉を治すことができない。所長にかけあって、明日労働するぶんを前借りさせてもらえないだろうか。

 わたしは事務所に引き返した。


 外から事務所を覗くと、所長は数人の社員とお茶を飲み、談笑しているところだった。

 どう相談すれば、うまく聞いてもらえるだろうか。

 わたしはしばらく窓の傍に立って、考えを巡らした。すると、所長たちの会話が洩れ聞こえてきた。


「しっかし子ども相手に、所長もえげつないことしますねー」

「やっぱりまともに教育受けてない奴は頭が悪いっすね。普通に考えたら、一日働いてたったあれだけの給料しか出ないなんて、おかしいと気付きますもんね」

「でもあいつ、不満そうにはしていたがな。その点、姉より賢いのかもしれない。ま、俺が強く言ったらすぐ引き下がったけどな」

「明日も来ますかね、その子。ツキコって言いましたっけ?」

「来るだろう。これからは姉と妹、二人して安い給料でこき使ってやるさ」


 ガハハッと、所長の豪快な笑い声が響いた。

 わたしは悔しさに肩を震わせながら、拳を握った。今日ほど自分を惨めな存在と思ったことはない。

 姉のために、一生懸命働いた。それなのに、薬は手に入らない。このような仕打ちを受けるのは、わたしが孤児だからか。学も何もない、世間知らずだからか。わたしはこうして死ぬまで搾取され続けるのか。


 自分を抑制していた糸が、ぷつりと切れるのを感じた。

 事務所に飛び込んでいって、所長に殴りかかった。だが所詮は子どもの拳だった。所長はびくともせず、それどころか余裕の笑みを浮かべていた。

 わたしは傍にいた社員の男たちに羽交い絞めにされ、床に押し付けられた。


「どうした? 何を興奮してるんだおまえ」所長が愉快そうに訊いてきた。「初給料が嬉しくて、もう一度俺に礼をしようと戻って来たのか? それなら礼の仕方というものを勉強したほうがいいな。いきなり殴りかかってくる奴があるか」


「礼なんか言うもんか! あんたはわたしがまだ世間を知らない子どもなのをいいことに、賃金を安く誤魔化してるんだ! ちゃんと払え! この詐欺師!」

 わたしは声を張り上げた。だけど所長も、周りの男たちも、一切表情を変えなかった。わたしの言葉は誰の心にも響かなかった。

 所長は冷えた眼差しで、わたしのことをただじっと眺めていた。

 立って見下ろす者と、跪く者。そこには圧倒的な力の差があった。


「……お、お願いします……。全部じゃなくていいんです。少しでもいいから、今日のぶんに足してください。姉さんが病気で、薬を買わなきゃいけないんです……お願いします」

 この世界は、なんて理不尽なんだろう。

 心の中ではそう憤慨しながらも、わたしは必死に頼みこんだ。床に額をこすりつけた。相手の機嫌を損ねては、払ってもらえるものももらえなくなってしまうと、今になって気が付いた。

 悔しい。情けない。

 だけど頭を下げて薬代がもらえるなら、いくらだって下げてやる。


「顔を上げろ」

 所長の声に、わたしはびくびくと顔を上げた。

 所長は煩わしそうに目を細め、言った。「おまえ、俺のことが許せないか。最低の野郎だと思ってるんだろう。口ではなんとでも言えても、表情を見ればわかる。うまく嘘をつくこともできないガキが、俺に逆らおうとするな」


 わたしは再び床に額を付けた。何も言わず、ただひれ伏し続けた。


「そうやって今さらしおらしくしても、払わないぞ。おまえと同じ孤児たちは、ちゃんとこの賃金で納得して働いているんだ。おまえだけ特別扱いするわけにいかないんだよ」


 男たちに無理やり立たされ、わたしは出口に追いやられた。横目に、給湯室が映った。切りかけのカステラが、まな板の上にあった。わたしは周りを振り切り、急いでカステラの横の包丁を手に取った。迫って来た男に向かって咄嗟にそれを振り上げたら、肉を切り裂く感覚が手に伝わった。


 男は腕から血を流し「ふざけんなよ、ガキ……」鼻息を荒くした。


「金払え! 金払え! 金払え!」

 わたしは、事務所の中で滅茶苦茶に包丁を振り回した。止めに入った何人かの社員たちに切り傷を負わせた。

「姉さんが苦しんでるの。薬が必要なんだよ」

 そうしているうちに泣きじゃくって呼吸が苦しくなり、足元がふらついたところをついに取り押さえられた。


「甘えてんじゃねえよこのクソガキ! 殺すぞ!」

 怒声を浴びせられ、腹を蹴られた。衝撃で床に転がったところ、肩と足首を思いきり踏み付けられた。あまりの痛みに叫び声を上げたら、うるさいと怒鳴られ、今度はボールのように頭を蹴られた。

 そのまま、意識が遠のいた。



 ◇



 事務員の女性に介抱されて目を覚ましたとき、時刻はすでに真夜中近かった。

 事務所にはその女性以外の姿はなく、わたしは介抱の礼を述べると、脇目も振らずに駆けた。動くたび、全身がひどく痛んだ。特に肩の痛みには不吉な影さえちらついたが、ひとまず無視した。一刻も早く、姉の元へ帰らなければと思った。こんなに帰りが遅くなっては、姉は今頃とても心配しているだろう。

 

 「姉さん、ただいま。ごめんなさい、遅くなって」

 部屋に入ったとき、姉の気配を感じられなかった。手探りでローソクを探し、火を点けた。毛布にくるまり、床の上で胎児のように丸まる姉の姿が見えた。


 そのとき、室内の空気がいつもと違うことに気が付いた。

 心臓がびくりと跳ね、それから体中の血の気が引いていくのを感じた。

 おそるおそる姉に近付き、その頬に触れた。わたしは、姉がもう二度と目を覚まさないことを知った。


 姉は優しい人だった。

 優しかったから、命を落としたのだ。


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