《ツキコ 1》
孤児院なんてどこも似たりよったりなんだろうけど、わたしたち姉妹がいたところは特別ひどかった。虐待や体罰が日常化していた。
姉はわたしの身を案じて、孤児院を出る決意をした。
わたしと姉は粗末長屋の一角に、居を構えた。姉妹で寄り添いながら、その日その日をなんとか暮らした。生活自体は苦しかったけれど、孤児院で暮らしに比べたら遥かに平和だった。
家計は姉の肩にかかっていた。
十二歳のわたしを受け入れてくれる働き口は、なかなか見つからない。姉はわたしのぶんも頑張って働いた。
毎朝、姉は日雇いの労働をもらいに、斡旋事務所を訪ねる。ちらりと聞いた話では、仕事内容はきついものが多いようだった。だけど姉はいつも笑っていた。現場責任者の機嫌次第で理不尽な仕打ちを受けたときでも、姉は笑顔を絶やさなかった。
秋、冷たい長雨が続いたせいか、姉は熱を出した。
「寝ていればすぐ治るから」最初のうちそう言って笑っていた姉だったが、次第に食欲が落ちていき、目が落ちくぼみ、起き上がるのもやっとの状態になった。
「姉さん、病院に行って看てもらおうよ」わたしは言った。
姉は薄い毛布にくるまりながら、微かに首を振る。「そんなお金、うちにはないわよ……」
「じゃあせめて薬を飲んでよ。わたしが前に熱を出して寝込んだときに、姉さんが手に入れてくれた薬。あれ、まだ残っているでしょう」
「……ないわよ」
「そんなことない。わたしあの薬、全部飲んだりはしなかったわよ。本当は残ってるんでしょう。わたしに遠慮しなくていいから、わたしはもう絶対寝込んだりなんかしないから、たまには姉さんも自分を労わってよ。ねえ、薬を飲んで」
「本当に……ないのよ、薬……」姉は目を伏せた。
「まさか姉さん、残りの薬を……」
「うちから三つ先の部屋に、ちょうどわたしと同じくらいの女の人が住んでいるの。その人にも妹さんがいて、具合が悪いって聞いたから、薬を譲ったのよ」
それを聞いて、わたしは愕然とした。
お人好しの姉は、困っている人を見ると放っておけずに、迷わず手を差し伸べる。それで自分が損をするとわかっていても、見過ごすことのできない性分なのだ。
わたしはある光景を思い出し、胸の内にざらつきを覚えた。「ねえ、それっていつの話?」おそるおそる、尋ねた。
なぜそんなこと訊くの? そう言いたげな顔で姉は答えた。「二週間くらい前だけど」
「ああ、やっぱり……」
わたしはその部屋に住む姉妹のうち、妹のほうを二週間前に目撃している。妹はわざわざうちの前に座って、見せつけるようにアイスクリームを食べていた。それでわたしと目が合うと、にやりと意味ありげに笑ってみせた。
そうか、あのときの笑いには、そういう意味が込められていたのか――。
わたしはすべてを理解した。
あんたの馬鹿な姉さんが騙されてくれたお陰で、こうやって贅沢ができたよ。そんな嫌味をこめて、あの妹は笑いかけてきたのだ。
病気の話は嘘だった。姉妹はわたしの姉からくすねた薬を売り払い、金を得たのだろう。姉の優しさにつけこんだのだ。
「姉さん、騙されたのよ」わたしは姉に真相を説明した。
◇
姉と言い合いになって、わたしは表に飛び出した。そのままの勢いでずんずん歩き、いつも姉が日雇いの仕事をもらっている事務所を目指した。
姉の代わりに働こう。一日働いてどれくらいの賃金になるかわからないけれど、それで買えるぶんだけ薬を手に入れよう。もし余裕があれば、姉のために何か栄養がつきそうな食べ物も買って帰ろう。
事務所に着いて、仕事が欲しいと伝えると、所長はいい顔をしなかった。
「あいつの妹ってことは、まだ十二だろ? 規則で十二歳は雇えないことになってるんだ」
わたしは必死に頼み込んだ。自分はいつも実年齢より上に見られるから、現場で歳がバレることはない。もし訊かれても嘘をつく。事務所に迷惑はかけない。
あまりに食い下がるので、所長はしぶしぶ首を縦に振った。
その日、わたしは生まれて初めての労働をした。
一日中モグラみたいに穴を掘り、土を運び、廃棄物をトラックに積み込み、また穴を掘り、資材を運んだ。そして日が暮れると、現場から事務所に戻り、日当を受け取った。
「……たったこれだけ……?」
手渡された封筒の中身を確認して、驚いた。あんなに働いたのに。
「おまえの姉ちゃんは、いつもその額で仕事してるんだ」所長が言った。「姉ちゃんはおまえみたいに不満な顔なんかしない。いつも笑って、俺に感謝をしながら給料を受け取るぞ。おまえは愛想がないな。そんなんじゃ次からは仕事回してやれないからな、気を付けろ」
わたしは慌てて深く頭を下げた。そして事務所を出ると、薬屋まで走った。
薬は買えなかった。
一日働いただけでは、金額が足りなかったのだ。
このままでは姉を治すことができない。所長にかけあって、明日労働するぶんを前借りさせてもらえないだろうか。
わたしは事務所に引き返した。
外から事務所を覗くと、所長は数人の社員とお茶を飲み、談笑しているところだった。
どう相談すれば、うまく聞いてもらえるだろうか。
わたしはしばらく窓の傍に立って、考えを巡らした。すると、所長たちの会話が洩れ聞こえてきた。
「しっかし子ども相手に、所長もえげつないことしますねー」
「やっぱりまともに教育受けてない奴は頭が悪いっすね。普通に考えたら、一日働いてたったあれだけの給料しか出ないなんて、おかしいと気付きますもんね」
「でもあいつ、不満そうにはしていたがな。その点、姉より賢いのかもしれない。ま、俺が強く言ったらすぐ引き下がったけどな」
「明日も来ますかね、その子。ツキコって言いましたっけ?」
「来るだろう。これからは姉と妹、二人して安い給料でこき使ってやるさ」
ガハハッと、所長の豪快な笑い声が響いた。
わたしは悔しさに肩を震わせながら、拳を握った。今日ほど自分を惨めな存在と思ったことはない。
姉のために、一生懸命働いた。それなのに、薬は手に入らない。このような仕打ちを受けるのは、わたしが孤児だからか。学も何もない、世間知らずだからか。わたしはこうして死ぬまで搾取され続けるのか。
自分を抑制していた糸が、ぷつりと切れるのを感じた。
事務所に飛び込んでいって、所長に殴りかかった。だが所詮は子どもの拳だった。所長はびくともせず、それどころか余裕の笑みを浮かべていた。
わたしは傍にいた社員の男たちに羽交い絞めにされ、床に押し付けられた。
「どうした? 何を興奮してるんだおまえ」所長が愉快そうに訊いてきた。「初給料が嬉しくて、もう一度俺に礼をしようと戻って来たのか? それなら礼の仕方というものを勉強したほうがいいな。いきなり殴りかかってくる奴があるか」
「礼なんか言うもんか! あんたはわたしがまだ世間を知らない子どもなのをいいことに、賃金を安く誤魔化してるんだ! ちゃんと払え! この詐欺師!」
わたしは声を張り上げた。だけど所長も、周りの男たちも、一切表情を変えなかった。わたしの言葉は誰の心にも響かなかった。
所長は冷えた眼差しで、わたしのことをただじっと眺めていた。
立って見下ろす者と、跪く者。そこには圧倒的な力の差があった。
「……お、お願いします……。全部じゃなくていいんです。少しでもいいから、今日のぶんに足してください。姉さんが病気で、薬を買わなきゃいけないんです……お願いします」
この世界は、なんて理不尽なんだろう。
心の中ではそう憤慨しながらも、わたしは必死に頼みこんだ。床に額をこすりつけた。相手の機嫌を損ねては、払ってもらえるものももらえなくなってしまうと、今になって気が付いた。
悔しい。情けない。
だけど頭を下げて薬代がもらえるなら、いくらだって下げてやる。
「顔を上げろ」
所長の声に、わたしはびくびくと顔を上げた。
所長は煩わしそうに目を細め、言った。「おまえ、俺のことが許せないか。最低の野郎だと思ってるんだろう。口ではなんとでも言えても、表情を見ればわかる。うまく嘘をつくこともできないガキが、俺に逆らおうとするな」
わたしは再び床に額を付けた。何も言わず、ただひれ伏し続けた。
「そうやって今さらしおらしくしても、払わないぞ。おまえと同じ孤児たちは、ちゃんとこの賃金で納得して働いているんだ。おまえだけ特別扱いするわけにいかないんだよ」
男たちに無理やり立たされ、わたしは出口に追いやられた。横目に、給湯室が映った。切りかけのカステラが、まな板の上にあった。わたしは周りを振り切り、急いでカステラの横の包丁を手に取った。迫って来た男に向かって咄嗟にそれを振り上げたら、肉を切り裂く感覚が手に伝わった。
男は腕から血を流し「ふざけんなよ、ガキ……」鼻息を荒くした。
「金払え! 金払え! 金払え!」
わたしは、事務所の中で滅茶苦茶に包丁を振り回した。止めに入った何人かの社員たちに切り傷を負わせた。
「姉さんが苦しんでるの。薬が必要なんだよ」
そうしているうちに泣きじゃくって呼吸が苦しくなり、足元がふらついたところをついに取り押さえられた。
「甘えてんじゃねえよこのクソガキ! 殺すぞ!」
怒声を浴びせられ、腹を蹴られた。衝撃で床に転がったところ、肩と足首を思いきり踏み付けられた。あまりの痛みに叫び声を上げたら、うるさいと怒鳴られ、今度はボールのように頭を蹴られた。
そのまま、意識が遠のいた。
◇
事務員の女性に介抱されて目を覚ましたとき、時刻はすでに真夜中近かった。
事務所にはその女性以外の姿はなく、わたしは介抱の礼を述べると、脇目も振らずに駆けた。動くたび、全身がひどく痛んだ。特に肩の痛みには不吉な影さえちらついたが、ひとまず無視した。一刻も早く、姉の元へ帰らなければと思った。こんなに帰りが遅くなっては、姉は今頃とても心配しているだろう。
「姉さん、ただいま。ごめんなさい、遅くなって」
部屋に入ったとき、姉の気配を感じられなかった。手探りでローソクを探し、火を点けた。毛布にくるまり、床の上で胎児のように丸まる姉の姿が見えた。
そのとき、室内の空気がいつもと違うことに気が付いた。
心臓がびくりと跳ね、それから体中の血の気が引いていくのを感じた。
おそるおそる姉に近付き、その頬に触れた。わたしは、姉がもう二度と目を覚まさないことを知った。
姉は優しい人だった。
優しかったから、命を落としたのだ。




