1話 空泳ぐもの
2035年――。
トラックの荷台は、激しく揺れる。衝撃で舌を噛まないようにと、ヒカリはぎゅっと唇をひき結んだ。
もう長い間、膝を抱え座っている。あとどのくらい、この体勢を続ければいいのだろうか。
トラックは走り出してから、まだ一度も止まっていない。
分厚い幌があるせいで、荷台にはほとんど外の光が入ってこなかった。天井に下げられた裸電球がひとつ、振動に合わせてぶらりぶらりと揺れている。
ヒカリはぐるりと視線を動かした。
荷台の中には、自分以外にも大勢の子どもたちが乗せられている。おそらく全員が、孤児院出身者だ。皆一様に不安と緊張の色を浮かべていた。
ふと、向かいに座る女の子と目が合った。彼女は親しげに笑いかけてきた。
「ちょっとごめん、通して」
近くの者にそう声をかけながら、彼女はヒカリの隣まで移動してくる。そうして、まるで昔からの友達のように、
「なんかさ、息苦しいよね、この中」
気安く話しはじめた。
「まったくさあ、いつになったら到着するんだろう。ずっと座ってるからお尻が痛いよ」
「わたしも。これならずっと立ってるほうがマシかも」
ヒカリはちょっと舞い上がりながら答えた。話し相手ができて嬉しかった。周りは見知らぬ者たちばかりで、ずっと心細かったのだ。
「ねえ、あんた仕事はここが初めて?」
相手が尋ねてくる。
「うん。あなたは?」
「わたしは十二歳で孤児院を追い出されたから、この会社に拾われるまでは色々やったよ。お陰で金の稼ぎ方ってのは理解してるつもり」
そう言って、相手は誇らしげに胸を張ってみせた。
「わあ、すごいね……」
「そんな驚くことでもないでしょ。ね、あんたって今いくつなの?」
「十四」
「そっか、じゃあわたしとタメだね。あ、わたしの名前、イヌっていうの」
「イヌさん……」
「イヌでいいよ。あんたは?」
「ヒカリ」
「ヒカリね、よろしく」
ヒカリはそこで、鼻をひくつかせた。イヌの体からは甘い香りが漂っていた。
「あ、わかる?」
ヒカリの仕草で気づいたのか、イヌが言う。
「わたし香水つけてるの」
「香水……って何?」
「あ、知らないか。うーんとね、体につけるといい香りがする水、かな?」
イヌの説明を聞いても、いまいち香水というものが理解できなかった。水がいい匂いだと、何かいいことがあるのだろうか。
「うん」
しかしヒカリはわかったような顔でうなずいた。あんまり深く説明させるのも、イヌに悪いと考えたのだ。
イヌは続ける。
「ほら、今から行く支部ヘは、私物持ち込み禁止ってことになってるじゃない? だけどこの香水お気に入りだったから、手放すの惜しくてさあ。どうせなら最後に思いっきり使ってやるかと思って、今朝多めに振りかけちゃったの。あ、もしかして臭い?」
「ううん、全然。いい匂いだよ」
「嬉しい。ありがとう」
イヌは微笑み、片手で前髪の乱れを直した。指先で何度か睫毛を持ち上げた後で、そっと小鼻の脇を拭う。一連の動作は、手慣れたふうに感じられた。
この子、本当にわたしと同い年なんだろうか。ヒカリは思った。
早くからひとりで生き抜いてきただけあって、イヌからは余裕が窺えた。
ヒカリは今年、孤児院を出たばかりだ。
「しっかしさあ、私物持ち込み禁止とか、思ってたより規則厳しいよね、この会社。おまけに支部までの移動はこんなトラックなんて。わたしら完全に荷物扱いじゃん、最悪」
イヌの声は大きく、同じ荷台に座る子どもたちが、ちらちらと視線を向けてくる。しかしイヌは気にする様子もなく続けた。
「わたしね、ちょっと前までまあまあ稼いでたんだ。だけど若いうちしかできない仕事だったから、いつかはもっとちゃんとした仕事に就かなきゃなとは考えてたの。それでこの会社の面接受けたんだけど……ちょっと決断早まったかもって、今になって後悔。ここよりも他にも良さげな職場あったんじゃないのかなあ」
「わたしは働かせてもらえるだけで有難いよ。今の時代、何の技能も持たない孤児に仕事をくれる会社は珍しいって、孤児院の先生が言ってた」
ヒカリは周囲の目を気にして、小声で返した。
するとそこで、イヌの声がトーンダウンした。
「でもさあ、この会社、ちょーっと怪し気じゃない?」
「怪しい?」
「だって肝心の仕事内容を全然教えてくれないんだもん。これから行く支部の場所だってはっきりしないし。わたしたちを乗せたトラックは、一体どこへ向かっているのやら」
内容が知らされないのは、きっと特殊な仕事だからじゃないだろうか。
ヒカリは考える。
普通なら誰もやりたがらないような仕事か。何か危険が伴うとか、汚い環境に身を置くことになるとか?
もしそうだとしても、働くしかない。
増加の一途を辿る孤児に対し、この国の制度は厳しい。孤児の自分は、仕事の選り好みなどできない。やっと見つけた仕事だ。絶対に手放すわけにいかない。
◇
荷台はこれまでよりもひと際大きく揺れ、絶えず続いていた振動が止まった。
「着いたのかな……」
耳をそばだてると、運転手がトラックから降り、こちら側へ回って来る足音が聞こえた。やがて幌が開かれ、陽の光が差し込んでくる。
眩しさに、ヒカリは目を細めた。
荷台に詰め込まれていた子どもたち全員が、降ろされた。
足の感覚が変だ。ヒカリは久しぶりに地面を踏んだ気がした。
空気が冷たい。
頬を撫でる風には、青臭さが混じっていた。
眼前には、山々の尾根が広がっている。その雄大な景色に子どもたちは圧倒され、ため息をついた。
突然肩を叩かれ、ヒカリの体はびくりと跳ね上がった。
「え?」
いつの間にか、傍らには黒い制服姿の人が立っていた。切れ長の目、筋の通った小さな鼻、形のいい唇――とても整った顔立ちの女性だ。
思わず目をみはるヒカリに、女性は話しかけてきた。
「あなたが一番の俊足ね」
「シュンソク?」
「足が速いってことよ。あなたたちのデータはもうこちらに届いているから」
子どもたちはトラックに乗せられる数日前、本部からの命令で様々な検査を受けていた。
医師による診察、その後で免疫力を高めるためという説明の基、全員が簡単な手術を施された。運動能力もチェックされた。その際、ヒカリは短距離走で最速タイムを記録している。
「足が速いのは有利よ。頑張ってね」
女性はヒカリの肩に置いた手を離すと、踵を返した。女性の歩いた先には、同じ黒の制服姿の者が数人整列していた。
周囲の景色に対して口々に感想を言い合っていた子どもたちだったが、職員の存在に気づいて慌てて姿勢を正した。
子どもたちが静かになったのを見計い、制服姿の女性が一歩前に進み出た。
「ここは明るい未来への扉株式会社、未来創造支部です。わたしは支部長の丸山といいます。本日から皆さんにはここで働いてもらうことになります。まずはこれから訓練期間に入ります。期間中は辛いと感じることも多くあるでしょう。ですが、それが社会に出て働くということです。ここへ来た以上、皆さんはすでにひとりの社会人なのです。そのつもりでわたしも、こちらの教官方も、皆さんの指導にあたる所存です。どうかよろしくお願いします」
全員が神妙な面持ちで、丸山の言葉を聞いた。丸山は「教官方」と口にしたとき、自分の背後に並ぶ制服姿の男たちを手で示した。
その中には丸山より一回り以上歳が上に見える者も含まれていた。丸山は二十代半ばといった顔つきだ。
「あのお、訊いてもいいですか?」
ヒカリの隣に立つイヌが、手を挙げた。
「何でしょう?」
丸山がイヌに視線を向ける。
「えっとお、わからないんですけど、わたしらはここでどんな仕事をするんですか?」
「皆さんの仕事は――」
瞬間、子どもたちの顔が青ざめた。全員が衝撃に打たれたように震えはじめた。
ヒカリは束の間、呼吸することを忘れた。
胸が締め付けられる。何か、とても大切な物を体から抜き取られていくような感覚がする。
この感情は何だろう。
寂しい。
心細い。
悲しい。
似てはいるけれど、どれも少し違う。この胸苦しさの正体を、この感情を表す言葉を、ヒカリは知らない。
細く高い、儚げな声が子どもたちの耳を刺激する。
不思議な声だ。今まで聞いたこともない。
「鳴き声……?」
「何これ? どこから聞こえてくるんだ……?」
自分たちに衝撃を与えた声の主を探して、全員が視線を彷徨わせた。
丸山が無言で、遠くの山頂を指し示した。
全員の目が、一斉にそちらを向いた。
空を走る流線型。輝く鱗。突き出した角からは強い意志が感じられ、風に煽られた体毛が、まるで燃え上がる炎のごとく揺らめいている。
それはちょうど山から空へと、伸び上がるところだった。
自由で力強い動き。脈打つように体をしならせ、空を泳いでいく。
「何……?」
ヒカリは一瞬で目を奪われた。
それは少しの間空中を漂った末、同じ山へと下降し、子どもたちの視界から消えた。
「あれは一体なんですか?」
疑問の声が上がる。
「龍です」
丸山は平然と答えた。
「ここでの皆さんの仕事は、あの龍を殺すことです」




