スパイスをきかせた恋はいかが?
「まあね、そりゃあ二十五年も生きてくれば、色々なことが分かってくると思う。嫌でも、……ね」
皮肉を利かせた目を向けるが、彼女は、表面上は微笑を浮べながら、でも、底の読めない表情を湛えていた。
研究室の大学教授は、昔の大学進学率は、現在の大学院進学率と同じようなものであって、学歴と言っても、それほど大きな価値はなくなって来ていると言っていた。そんな気構えで学生を指導するなとつっこみたかったが、めんどくさいので当時は聞き逃したはずだけど。
んで、大卒で就職した連中は、ポツポツ結婚したのも居て、遊べないと嘆いている。結婚したのも、子供がいるのも自業自得だろうに。
うん、まあ、育児とか結婚生活とか、税金とか扶養控除とか、確定申告とか……とかとかとか!
めんどくさ過ぎて、俺は独身を貫くつもりだった。
好きで結婚するんだろうけど、恋もいつか冷めるだろうし、子供が可愛いとかいっても、どうせ反抗期で見方が変わるよ、なんて、斜に構えてた。
だから、自分は恋とは無縁だと信じていたし――。開放的でアバンチュールに最適な夏なんて、クソ暑いだけで最悪の季節だと思ってた。
社会人になって、初めての夏。
でも、縁も所縁も無く、ただ配属されただけという土地では、たまの休日は持て余すものだった。
まあ、生産部門に配属になった同期は、地元の人ともそれなりに顔見知りになったり、合コンしたりしているようだったけど、通称、奥の間と呼ばれる、隔離されたような特保対策部署に配属になった俺は、同期ともこの町とも縁を結べず……まあ、だからこそ夏祭りの参加や手伝いなんかの厄介事を逃げ切って、悠々自適に暮らしている。
独りでいることは、群れるよりもはるかに好きだった。
まあ、この歳になって、色々分かり合って、仲良くなって、いろんな壁乗り越えて? なんて、なんか、しんどいし、むしろ、人の少ない部署への配属は願ったり叶ったりだったともいえる。
ん、だけど――。
信号に捕まったせいで、微妙に、嫌味ったらしいのを見せられている。
「ハァ、ッツハァー」
マラソンしてるおっさんおばさんとかじゃない。多分、歳は近いと思う。背の高い、肩までの髪の女が――。
「お、っもい」
死体二つぐらい入ってそうなでかい箱を抱えて、横断歩道を渡っていた。
うん、まあ、重いんだろうな、とは思う。
汗びっしょりだし、スーパーとかで見る、今更UVケアする意味なさそうなオバサンが着ているような、日傘や長い手袋と課してないし。
半袖の飾り気の無いTシャツで……ライトグリーンのブラがちょっと透けえていて、腕まくりして惜しげもなく肌をさらしていた。
元はスポーツ少女とかだったんだろうなー、と、思う。
茶髪で、目が大きな美人さん。
眼福ではある。
が、わざわざ声を掛けようなんて思っては居なかった。うん、最初は。
……信号、変わったんだけどな。
クラクション鳴らしても良いんだろうか?
いや、人としてそれもどうなんだって話か。
……多分、この、七月末の快晴のせいだと思う。
クラクションを鳴らし、それに驚いて、でも、信号を見て赤い顔で口を真一文字に結んで足を速めようとした彼女に声を掛けたのは。
「どこまでだ?」
訝しげな目を向けられた十秒後、どこか拗ねたような声で返事をされた。
「七丁目の……動物病院の前のアパート」
多分、消去法だったんだと思う。
全幅の信頼を寄せた顔じゃなかったけど、彼女は俺の車のトランク……には納まらなかったので、後部座席を倒してスペースを確保し、組み立て式の机を積み込み、助手席へと座った。
エアコンは強のままだが、外の暑さに参っていたのか、彼女はジカに自分の顔に当たるようにエアコンの向きを調節し「ああ、生き返る」と、しみじみと呟いていた。
フン、と、つい癖で鼻で笑ってしまい、じっとりとした視線を向けられ、俺は軽口を返した。
「配送頼めよ。通行止めにするぐらいなら」
「いつまでも、机の無い生活をしたくなかったんですー。欲しいって思ったら、今日、どうしてもほしくなったんですー」
どこか子供っぽい声だったが、多分社会人なんだろうな、とは思う。服装は、学生っぽさはあるけど、立ち居振る舞いから、なんとなく。
机の無い生活、なんて単語が出て来ているところから察するに、俺と同じ新社会人で、他所からこっちに来たんだろうな。ああ、あと、こういう時に車を出してくれる友人の当てが無い、ってのもあるか。
軽く観察を終えた俺は、ギアを一速に入れて車を発進させた。
アクセルを一度踏み込んで、クラッチを踏み、二速へ、しばらく走らせてから三速に入れる。
「大きな車ですね」
「ああ、……車は嫌いなんだがな」
どうせ、もう二度と会うことも無い相手だと思って、着飾らず、何の気なしに本心で返事をすれば、じゃあなんで車を持ってるんですか、なんて顔を向けられているのに気付き――。
「職業柄、な」
苦笑いを浮べた。
「職業柄?」
小首を傾げた彼女に、あっこ、と、丘の上の新造の工業団地の唯一の、しかし、無駄に馬鹿でかい工場を指差す。
「物流部?」
「まさか! トラックの運転なんて御免だね。研究部門だと、持ち歩くものも多くなるんだ」
「へぇ」
会話が途切れ、俺は無言で右折し……まあ、まさか警察官じゃないとは思っていたけど、一応、法廷速度を守って――。
「今日は、なにしてたんですか?」
「遅めの昼食に、さっきのホームセンターの先の店に入るつもりだった」
この辺、ちゃんとしたところすくないから、と、不味くはないけど美味いって程でもない牛丼屋の名前を出す。ほんと、田舎って不便だ。
そうして、また、会話が途切れ――。
「あの」
沈黙に耐えられなかったのか、彼女は三度口を開いた。
「ん?」
「もうちょっと、会話、盛り上げません?」
「ああ、ラジオとか入れて良いぞ」
「そうじゃなくて、もっと、こう……訊き返してきたりさ」
ちらと横目で表情を窺うが、拗ねてる以上の感情は読めなかった。もしかしなくても、ナンパだと思われたのか? つか、それならほいほい車に乗るなよって思う。
例え、仮に、熱中症になりそうな距離、重くてでかい組み立て式の机を運ぶことになったとしても、だ。
「個人情報のガードが緩いな」
「そう? でも、女は嘘を吐くのが上手いから」
「は」
嘘が上手いなら、尚更訊くことはない。俺は真っ直ぐにアパートの駐車場に入り……。
「あ、まって、入り口のとこはダメ。九番」
荷物を降ろすだけだし、玄関前で良いかと思うんだが、別に抵抗する必要も感じなかったのでそのまま指定される駐車場の番号へと車を止めた。
「荷物、もってくれる?」
「甘えんな」
車を止めたので、改めて彼女の方を見るが、あざとい笑みを向けられ、俺は視線を正面へと戻した。
「お昼ってか、おやつの時間だけど、食べそびれてるんですよね。なにか出しますよ」
まあ、他人が作った飯とか、なんか微妙だけど、御礼と言えなくは無いのかもしれないんだろうし、向こうにそういうつもりはないんだろうけど――自然と無権に皺が寄ってしまった。
「無防備過ぎる」
「大丈夫。私達、知り合いだから」
「は?」
彼女は、このアパートからでもギリギリ見える工場のエタノール蒸留塔を指差してみせた。
「あれ? アンタも今年入社か?」
「そうだよー」
こんなの居たっけな、と、思うが、確か工場とあわせれば三十人程度がこっちに来ていたんだし、会社に慣れてちょっと雰囲気が変わったのも居るのかもしれない。女は化けるそうだしな。
軽く嘆息し――。
「なら、最初からそう言え」
不満の山程はあったが、同じ会社なら、まあ、仕方が無いかとあの馬鹿でかい机を抱え……階段を上がり、彼女が鍵を開けた202号室のドアを潜った。
昨今の世情を反映してか、表札は掲げられていない。
名前、訊きそびれたままだ。
「玄関で良いよ。組み立ては、食事の後でお願いするから」
「随分と横柄だな」
そっぽ向きながら愚痴るが、彼女は微笑を返しただけで、リビングの冷房を入れた。
女にしては綺麗な部屋っていうか、未開封のダンボールもあるし、越してきてから余り手を入れていないのかもしれない。床にも、カーペットは敷かれていなかった。
「カップ麺で良いよね」
机よりも、テーブルとかちゃぶ台だろうと思っていた矢先、そんな声が聞こえてきたので、俺は玄関へと向かい――。
「うそうそ」
廊下兼キッチンにいた……ん? あれ? そういえば。
「具の無い冷やし中華と、素麺と、蕎麦ならどれがいい?」
「素麺で良い。そういえば、アンタ名前はなんだ?」
ちょっと呆れたような目をした彼女は、少しだけ拗ねたように唇を尖らせて答えた。
「本当に覚えてないんだね。長月だよ」
そんな名前のヤツいたっけな? 携帯を取り出そうとしたが、長月に私と喋っているのに、という咎める目を向けられたので、携帯はポケットに落としたままで手を引き上げた。
「この季節には恋しくなる名前だな」
代わりに、軽く皮肉ると、ちょっとヤな感じに目を細めた長月が顔を寄せてきた。
「ん?」
「九月になれば、少しは涼しくなる」
「言ってなさいな」
最後に嘆息して締めた長月を残し、リビングへと戻る。
やっぱり、女にしては物が少ないと思った。
ベッドに箪笥に、透明なプラスチックの衣装ケース。ああ、これは、秋冬物か。引越しのダンボールをテーブル代わりにしていたのか、軽く皿のあとがあった。
他には、横に長い形で配されたカラーボックス。中は漫画で、上にノートパソコンが乗っている。そして――。
「触らないで!」
不意に響いた大きな声に、手を引っ込める。
「壊れてるから、危ないよ」
そんなのを放置しておくなよ、とは思ったが、多分、壊れているというのは嘘で、なにか思い入れがあるんだろうな、と思った。
「なんだこれ?」
壊れた玩具……だと思うんだけど、どういう用途のなんなのか、全く分からなかった。子供向けって感じは余りしない。細工が細かいって言うか。
「ああ、うん、時計なの。今は携帯でも時間が見れるからそのままにしちゃってて」
早口で言い終えた長月。
「ふ――ん」
特に、触れる必要を感じなかったから――物理的にも、話題的にも――、俺は大人しく長月の方へと向かう。
汁を別にしていないぶっ掛け素麺で、予想していたといえばその通りなんだけど、長月は引越しのダンボールの上にそれをおいた。
「机よりも、テーブルを買え」
「今度の休みに、ね」
思わせぶりなウィンクに、軽く嘆息して俺は素麺をすすった。
味は……薄かった。
その後、机を組み立て、なんとなくそのまま夕飯を一緒して無駄話をして――。
「どうしたの?」
席を立った俺に、長月が不思議そうな顔を向けてきた。
「帰るよ。もう二十二時だ」
長月は、ちょっと考える仕草をしたけど、結局は真顔になって訊ねてきた。
「分かってないの?」
「分かってるよ」
そういう雰囲気だとは。ただ――。
「これでも、意外と奥手でね」
「スパイスをきかせた恋はいかが?」
「オーソドックスな味付けで充分だ」
ふふん、と、長月は妖艶に笑い――。
「嘘ばっかり。本当は、退屈しているくせに」
「だからこそ、だ」
女は、難しい。
本性が、量れない。
本気になったら、火傷じゃすまなそうだ。
だから、少しずつ、ゆっくりと……。
「ねえ」
部屋を出るとき、ドアまで見送りに来た長月に呼び止められ、振り返ると、軽く背伸びした長月に唇が触れるだけのキスをされた。
「実は、同じ会社って嘘だよ」
「な!?」
「またね」
戸惑う俺を他所に、とん、と、胸を押されドアが閉められた。
きっと、夏の天気のせいだと思う。こんなに調子が乱れたのは。
嘘ばかりの空から、夏の嵐、夕立の始まりの一粒の水が落ちてきた。