レモネード
かけるうちは二日に一作くらいを目標に頑張ります。
テーマ:レモネード
ひたひたと、僅かに汗をかいた足裏が階段を踏む音が耳に響く。足元が乾燥した空気を裂いて、凍てつくように冷たい。
ぞわっと粟立つ皮膚をさする。光が窓を媒体に屈折し、光がリビングから漏れ出している。
最後の階段を降りきったところで、息を大きく吸う。それから、見た目で肩が上がってないように見えるよう、落ち着いた素振りで吐き出し、ドアノブに手をかけた。
扉を押し開けると、甲の黄色が増した。未だ少し霞む視界の隅に、黒い艶のある足元が見えた。
「おはよ、真雪」
少しだけ視線をずらして、兄貴が目を優しく細める。
「……はよ」
声がまだがらがらしていたせいか、上手く声が出なかった。喉のあたりが少し焼けるように痛い。風邪だろう。
兄貴はもう既にスーツを着ていて、ゆったりとソファに腰掛けて、今日の朝刊を読んでいる。その前に、所々はねた前髪をどうにかしたほうがいいと思うけど。
後ろ手に扉を閉める。階段側から流れ込んできた冷気が足首にまとわりついて、寒い。かじかんだ指先を、なんとなく振り払うように、床にぐりぐりと押し付ける。
「顔、洗いなよ」
「……うん」
前を通り、そのまま洗面台へ向かう。銀色のノブに触れると、ちょっとだけ暖かかった。
兄貴は、手を洗い、うがいをし、服を着て、食事をする。そして最後に顔を洗って、歯を磨く。いつもそのルーティンワークで朝を過ごしているから、きっとこのぬくもりは兄貴のものだ。
ぎゅっと握って、そうっと引く。ちらとソファの方を見ると、兄貴はまだ新聞に夢中で、それを見るとやけに心臓が冷え切ったような気がした。
蛇口を思いっきりひねり、体の芯まで凍らすような水が流れ出た。勢いよくその中に手を突っ込み、ばしゃばしゃと乱暴に洗う。目を閉じたまま蛇口をしめ、タオルを手繰り寄せる。なかなか見つからなくて目を開くと、まつげについていた雫が目の中に入った。
強めにきめの粗いタオルで拭き、髪を適当に整える。洗面所から出ると、兄貴が立っていた。
「女の子なんだから、もっと丁寧に洗いなよ」
「カンケーないじゃん、そういうのは、カノジョにいいなよ」
「言うかよ」
苦笑したように笑い、オカンみたいじゃん、と惚気る。そういうのを見ると、追い打ちをかけたくなる。
「どいて」
脇腹を少し押して避ける。兄貴は身長がとても大きくて、まん前に立たれたら、胸の下までしか見えない。
ぐいと首を捻ると、目があった。少しだけ振り返ってた兄貴の澄んだ黒目。その黒目がいつも怖い。そして、兄貴の、他人よりも少し綺麗な顔が、少しだけ悲しそうな顔をする。全然似てない、その顔。ほんとの兄妹じゃないから、当たり前だけど。
何でもないように横をすり抜け、台所に向かう。机の上に朝のオカズがあった。好物の卵焼きとウインナーとキャベツの千切りが小花柄の皿に盛られていて、ラップがかけられていた。隣には、お気に入りのマグカップ。中にはちみつと、薄い色の汁。おそらく、これはレモン汁。コンロを見ると、まだ湯気を吹かしたヤカンがあった。
「……いってきます」
兄貴が小さく呟いた。慌てて振り向くと兄貴は座っていた。靴を履いているようだった。しどろもどろしながら、いってらっしゃいという言葉が喉奥にこみ上げた。でも口先で消えてしまう。なんだか言わなきゃいけない気がして、いや、別に急を要する用事を思い出したわけでも、本当になんでもなかったのだけれど、小走りに玄関へ向かった。
足を踏み出すとマットレスから足裏がはみ出して、つるっとした床に触れた。ひゃっとこえを出して退きそうになる。その気配を察したのか、兄貴は足早に玄関を出た。その後数分は玄関に立ち尽くしたままだった。
しばらくして台所に行き、ヤカンを掴んでマグカップに湯を注ぐ。引き出しを乱暴に引いて、マドラーを取り出す。雑にしまい、その調子で湯の中に突っ込んだ。ぐるぐるとそこに押し付けるように混ぜ、シンクに投げる。
ゆっくりと運び、席に着く。腕を伸ばして皿を寄せ、ラップを外して丸くにまとめる。あとで捨てるの忘れないようにしないと、また怒られてしまう。
そうっと口をつける。マグカップの淵はすごく冷たいのに、押し寄せてくるぬくもりが心地いいようで、寂しかった。思わず、目を閉じる。このまま寝てしまいたいとさえ思った。その矢先に、酸っぱいレモン味が喉に伝う。驚いて、思いっきり目を開く。なんだか熱いものがこみ上げていることに、たった今気づいた。
この小さな、とってもボロい二階家屋。昔はお義母さんとお父さんの笑顔もあったけど、今はない。忘れたのだ。できるだけ忘れようって、目をぎゅっと閉じてきた。縋ってしまわないように、過去の暖かさだとか優しさだとか、豊かさだとか、そういうの。
高校二年の冬、未だキリストの誕生日は先。私はこの想いに、まだ気づかないふりをしている。