第5話:オオカミ少年
あれから彼を見かけることはなかった。私はあのコンビニに近寄らなかったし、彼からも何もなかった。ときどき裕介から彼の名前を聞くことがあったが、私はごく自然な受け答えをしてみせた。
「ねぇ、あの人とはどうなったの?」
夕日が照らす教室。私は結衣と一緒に教室に残っていた。結衣から、話があるからと、結衣の部活が終わるのを待っていた。
「どうって別に」
「何その冷たい言葉」
結衣はカタンッと、私の席の前の椅子を引いた。
「言葉のとおりだよ。だいたい私とあの人は何でもないの」
私は結衣を待つ間、読んでいた本をカバンの中にしまった。
「話ってこのこと?」
「うん。だって美樹のことで、裕介以外の男が出てくるなんて珍しかったんだ」
いつも裕介ばっかりだったでしょ? と、結衣は笑って言った。私は結衣の顔を見て眉を上げた。
「私、そんなに裕介の話してる?」
「してるよ。気付いてないの?」
驚いた。私は全然気付かなかった。結衣は少し寂しそうに笑って、友達をナメんなよ、と言った。
「それにね、この機会に、裕介のこと……忘れたほうがいいと思うの」
結衣が遠慮がちに呟いた。私は一瞬、目の前が真っ暗になった。
何言ってるの? 裕介を忘れる?
私は慌てて冷静さを取り戻そうとした。
「結衣、冗談はやめてよ。裕介は私の幼なじみだよ」
「もういいよ、私は知ってるから」
知ってる? 何、結衣は何を言ってるの……。
結衣は今度は声をはっきりとさせて私に言い放った。
「美樹が裕介のことを好きなこと、私はずっと知ってたの」
「ちょっと、やめてよ」
「美樹が寂しそうに裕介と彼女を見てるの、私はいつも気付いてたよ」
ごめん、黙ってて……と、結衣は目線を足元に落とした。私は結衣から目が離せなかった。
私の黒い心は、結衣にもバレていた。隠そうと自分を作っていたのに、結局は意味がなかった。何だか自分が可哀想になってきた。ひとりで慌てて、ひとりで空回っていて、ひとりで苦しんでいたんだ。外から見たら、なんて可笑しな自分。
「でも、要さん、良い人そうだしさ。裕介のこと忘れようよ」
「忘れる?」
結衣がこくんと頷いた。
忘れる? そんなことが出来るの?
もうこんなに大きくなった、私の心。今さら、無かったことなんて出来ない。
「……無理よ」
「美樹?」
「今さら忘れるなんて無理なの。無かったことなんて出来……」
「ち、違うよ。何も全部無くす必要なんてないんだよ」
結衣が慌てた様子で私の言葉を遮った。しかし、結衣にさえ知られていたショックで、私はいつもの自分を見失っていた。乱暴に自分のカバンを手にとって教室を出ようとした。結衣が、待って! と、私を呼び止めた。
「バカみたいね、私ひとりで……。私ひとりでさ」
私はそう言い残して教室を飛び出した。結衣の声が私の体を引っ張ろうとしたが、私はそれを振りほどき力任せに足を動かした。
あぁ、バカみたい。学校を出てずっと走り続けたせいで、足がパンパンになってしまった。私はゆっくりと歩くことにした。
本当、笑える。バレないように気をつけてたのに、簡単にバレてる。私の今までの時間って何だったんだろう。とても無駄な時間だったのかな。
「でも本人にバレてないって、裕介はかなりの鈍感なんだ」
くすっと、私は小さく笑った。突然、しとしと……と、空から雨が降ってきた。私は屋根のある場所を探した。ちょうど、屋根付きのバス停が目に入ったので、そこで雨宿りをすることにした。雨はだんだんと激しく降り出した。
「ツイてないなぁ」
私はそっと顔を出して空を見上げた。灰色の分厚い雲が、世界中を覆っているみたいだった。当分止みそうにない。ふぅ、と溜め息をつくと、このバス停に近づく足音が聞こえた。その足音は雨のせいでバシャバシャと濡れていた。
「あれ、美樹じゃん」
「……裕介」
こんなときに会うなんて、本当に自分はバカだ……と、美樹は自分を呪った。裕介はケロッとした顔で私の隣に立った。
「俺も雨宿りさせてね。天気予報で雨降るって言ってた?」
私は黙って首を横に振り、雨が早く止むことを願った。
「椎名さんは?」
裕介との沈黙が耐えられなくて話題を探したのに、自分で自分の傷をほじくり返してしまった。
「俺、そんなに毎日咲と一緒にいないよ?」
「え、そうなの?」
裕介の返事に、一瞬喜んでしまった。裕介は不思議そうな顔をして私に質問した。
「俺ってそんなにベッタリに見える? 会う奴みんなに、彼女は? って聞かれるんだぜ」
「ふふ、それは椎名さんが人気者だからだよ」
「ひっでぇ。俺は人気者じゃないってこと?」
私はあははと、久しぶりに大声で笑った。今まで底なし沼に落ちたような感覚だったのが、裕介と話しただけで少し救われた。
「なんか久しぶりだよな、こうして話するの」
裕介がバス停に設置されていたベンチに座った。私も座った。確かに裕介と話をするのは久しぶりだ。あの日曜日以来、私は一度もコンビニに行かなかったし、朝は椎名さんが裕介の側にいるのだ。
「俺、関係ないんだけどさ、ちょっと気になることがあってさ」
裕介が急に真剣な目をして私を見た。
「松永さんのことなんだけど」
雨のせいで外の気温が低くなり、私の体は少し冷たくなっていた。しかし、裕介に彼のことを聞かれ、ますます私の体は熱を失っていった。
「ケンカしたの?」
「……」
あれはケンカというのだろうか。私は一方的に彼に傷つけられたのだから、ケンカとは言わない。そんな簡単なものじゃない。黙っていると、裕介は軽く頭を掻いた。
「松永さんって、ちょっと変わってるけど、良い人なんだよね。だからさ……」
「仲直りしてって言うの?」
私の声が自分でも驚くほど、低く冷たかった。裕介もぎょっとした顔で私を見た。
「私と松永さんは、別にそんな関係じゃないし。それに私はあの人が嫌いなの」
彼の第一印象は最悪だった。人の感情を逆なでする言い方で、私の心を無理やりこじ開けた。そのせいで私は彼に振り回され、しまいにはキスもその手段に使われた。私はもう彼には会いたくない。
「もう会いたくないの」
そう言うと、裕介の顔が悲しさでいっぱいになっていた。
「どうして、裕介がそんな顔するの?」
裕介は、何でもない、と軽く頭を振って私から目を外した。それからしばらく2人の間に沈黙が流れた。その間も雨の音は途切れることなく、わたし達を包み込んだ。
「雨止んだぞ」
裕介が空を見上げた。地面には水たまりが出来ていて、見事に晴れた空が映っていた。分厚い雲はチリチリに千切れていた。
「じゃあ、帰ろうか」
「……うん」
私は裕介の後ろを歩いた。
しばらく、2人無言で歩いていると、あのコンビニが見えてきた。どの道を通っても、コンビニの前を通らないと家には着けない。私は少しスピードを速めた。裕介はコンビニに入ろうとしていた。急に後ろを振り向き、私の手首を掴んだ。
「美樹、ちょっと待ってて」
それだけ言うと裕介は、松永さんっ、と彼の名前を口にした。私は逃げようと必死だったが、裕介の手は離れない。とうとう、裕介に呼ばれた彼が外に出てきた。私は裕介の後ろに隠れ下を向いた。
「松永さん、連れてきました」
裕介がぐっと私を引っ張り、彼の前に出した。私はちらっと彼の顔を見て、またすぐ下を向いた。
「裕介、これはどういう?」
彼の少し困った声が聞こえた。
「松永さんが元気ないのって、美樹が原因なんですよね?」
裕介が声を強めて言った。
「原因って、そんなことないよ」
「だったら、そんな顔しないでください」
裕介の言葉を聞いて、少し顔を上げた。久しぶりに見る彼の顔は、私の知っている彼の顔ではなかった。あの頃感じていた不快感が、少し薄れていた。
「俺、もう見てられないです。美樹もいつもと違うし。見ててイライラするんです。ちゃっちゃと解決してください」
そう言った裕介は、もう片方の手で彼の手首を掴んだ。そして強引に私と彼の手を繋がせた。
「じゃ、後は任せます」
裕介は、止める彼の言葉に目もくれず、走り去ってしまった。嫌な空気が流れる私達を置いて……。
「……いつまで繋いでるんですか?」
「あ、ごめん」
彼は慌てて手を離した。私は少し乱れた制服を直し、カバンを持ち直した。
「裕介がすみませんでした。何か勘違いしてるみたいで」
私は自分の家の方に体を向けて歩いた。
「あ、あのさ!」
彼が私を呼んだ。けれど私は振り返らなかった。私の思いは堅かった。
「待ってよっ」
彼の声がしつこく私を呼ぶ。私は振り返らないで、ぴたっとその場に足を止めた。
「何ですか? もう迷惑かけないし、もうここに来ませんから」
「俺の話、聞いてくれないか?」
今さら何を言い出すんだろう。今さら謝られても、私の心は変わらない。それに今日は疲れた。早く家に帰って眠りたい。何も考えなくてすむように。
「この前はごめん。勝手にキスして」
私の脳裏に日曜日の光景が蘇った。私は変わらず、彼に背中を向けた。
「謝らないで、本当のことを言ったらどうです?」
「本当のこと?」
彼が聞き返した。私はすぅっと息を吸い込んだ。
「あれは、私をからかうためにやった……って」
キスまでそのために使う彼は、私の中でとても卑怯な、自分勝手な人物になっていた。当たり前だ。私の初めてのキスを、彼は簡単に奪ったのだから。
「違う、あれは、違うんだ」
彼の必死な声。私にはますます、からかわれているような感じがした。
「違う? 何がどう違うっていうんですか? あんなことをする理由なんて、私をからかうことしか……」
「好きなんだ」
突然の告白。私ははっと息をのんだが、すぐに言い返した。
「またそれも、からかっているんでしょ? もういいですよ」
「違う、これは本当だ。俺は前から、キミがコンビニに現れたときから俺は……」
「やめてっ!」
私の大きな声が彼の言葉を消した。これ以上、傷つきたくない。からかわれるために使われる『好き』は聞きたくない。
「頭おかしいんじゃないの?」
私は背中で彼に向かって話した。今、彼がどんな顔で私を見ているのか分からない。
「あんなに私を振り回して、突然キスして、実は好きって信じると思う? はい、そうですかって簡単に終わると思ってんの!?」
私は振り返り、彼の目を正面から睨んだ。
「バカにしないでっ!」
私は眉をぴくりとも動かさず、彼を見た。彼は一度だけ顔を下にやり、すっとまた私を見て、少しずつ私に近づいた。私はその場から動かず、ただひたすら彼の目から目を離さなかった。今逃げたら、またからかわれる。今逃げたら、私が負けてしまう。ある意味の私の意地があった。
「……ごめんな」
彼の今まで聞いたことがない、懺悔にも似た声が落ちてきたかと思うと、軽く私の唇にキスをした。それはとても短いキスで、私が避けようと思ったときには、すでに彼から離れていた。
「……どうして」
私は彼の顔から目が離せなかった。彼はふっと笑いコンビニに戻っていった。私はひとり、その場に突っ立っていた。
「どうして、そんな顔するの……」
懺悔の声。2回目のキス。キスの後の彼の顔。どれも今まで聞いたことがない、見たことがない彼だった。あのときの彼の顔は、とても悲しくて寂しそうな顔だった。