第2話:裕介の後ろ
「何かあったの?」
コンビニから家までの帰り道、裕介が私の顔をのぞき込んで聞いてきた。私は、なんで? と聞き返した。
「コンビニ出てからなんか怖い」
裕介がうんっと手を上げて体を伸ばした。私はあの失礼な男のせいで、裕介に心配されるほど不機嫌な態度を顔に出していたらしい。心配をかけまいと、勉強疲れかも、と笑って答えた。
裕介は優しい。昔から私のことなら、何でも解ってくれる。一番に私を見つけてくれる。そんな裕介に私はいつの間にか……。
「あ、今日咲が美樹のクラスに行ったろ?」
咲……椎名 咲。裕介の彼女の名前だ。裕介が名前を口にしただけで、黒い私の心に波がたつ。
「辞書を返してもらったの」
彼女の顔が私の目の前にちらついた。目を閉じても、彼女の顔が離れない。
「俺が返しに行くんだったんだけど、あいつが勝手に持っていったんだよ。何か言ってなかった?」
「何も言ってなかったよ」
私は彼女の顔を消すように首を横に振った。と同時に、私の心のスイッチが入った。
「あいつ、どうしてか美樹のことになると変わっちゃうんだよな。ごめんな?」
裕介が両手を合わせて私に謝った。私は、大丈夫だよ、と笑ってみせた。
「誰だって好きな人が、他の異性の人と仲良くしてたら変わっちゃうよ」
……大丈夫。声はしっかりしてる。私は完璧に幼なじみを演じてる……。私は一言一言、確認するように口にした。裕介はそんな私の様子に全然気付かない。
「美樹って昔から理解あるよな。俺そういうとこ尊敬してるんだ」
裕介があまりにも無邪気に笑うものだから、完璧だった『私』が崩れてしまうかと思った。
お願い、そんな顔を見せないで。そんな顔を、彼女になんかに見せないで。
パチンッと、風船が割れたような音が聞こえた。その音で私ははっと我に返った。危ない、もう少しで完璧な『私』が歪むところだった。
「行ってきまーす……」
翌日の朝。空は青くて気持ちの良い風が吹いていた。だいぶ朝は涼しくなってきたみたいだ。なのに私は冴えない。昨日の夜から、裕介と彼女の顔が離れなかった。
「……しっかりしなきゃ」
ぺちっと自分の頬を軽く叩いた。もう少しで裕介の家の前だ。こんな暗い顔をしてたら、裕介にまた心配されてしまう。私はすぅっと深呼吸をして、裕介の家の前を通ろうとした。
「あ、遠藤さん。おはよう」
せっかく新鮮な空気を体の中に取り込んだのに、意味がなくなってしまった。聞きたくない声が私の返事を待っていた。
「おはよう、椎名さん」
彼女は裕介の家の前で立っていた。あからさまに不機嫌な顔をして。
「遠藤さんの家ってこの近くなの?」
彼女が長い髪を、指でいじりながら聞いてきた。私はこくんと頷いた。
「そうなんだ。あ、あたしね、今日から裕介と一緒に登校することにしたから」
「え?」
彼女は勝ち誇ったように鼻を鳴らした。『彼女』という立場を、目の前に堂々と叩きつけられた。
「そう……大変ね。わざわざ」
私は作り笑いをして彼女に対抗してみせた。しかし彼女は怯むことなく、私に釘を刺した。
「大変なんて思わないよ。だってあたし、彼女だし。遠藤さんはただの幼なじみだから、そう思うんだよね?」
彼女の目がぎゅっと私を掴んだ。この感覚を私は前に体験したことがある。……あぁ、あいつだ。コンビニの失礼な男だ。
『キミは裕介のことが好きなんだよね?』
男の言葉が私の体に響いた。ゆらっと私の黒い心がぐらついた。
「……違う」
『キミは裕介のことが好き……』
「違う、勝手なこと言わないで!」
大声を出して現実に戻った私の顔は、とても酷い顔をしていたに違いない。彼女の元々大きな目が、これでもかってぐらいに見開いて私を見ていた。
「な、なんでもないの」
私は逃げるように、彼女の横を通り過ぎた。後ろのほうで、彼女の名前を口にする裕介の声が聞こえた。
「はぁ、はあ……」
私の足が悲鳴を上げた。こんなに走ったのは久しぶりだった。息を調えようと足を止めた場所は、あのコンビニの前だった。
「……最悪」
これでは休まるどころか、ますます体の調子が悪くなる。今日は朝からツイてないみたいだ。すぐに走ろうと体の向きを変えたときだった。
「何でそんなに汗かいてるの?」
聞きたくない声が私を引き止めた。店の自動ドアが開き、私の隣にあの男がいた。
「遅刻……ってわけじゃないよな。まだ余裕だし」
私は耳を貸さずに通り過ぎようとした。
「待ってよ」
男はまた私の手首を掴んだ。私は振り解こうと、体全体で男を拒否した。しかしびくともしない。
「っ! 離して!」
「あらら。嫌われちゃったかな」
男はくすくす笑って手を離した。男に掴まれたところが、ひどくズキズキと痛んだ。
「何か用ですか」
「いや、用があるわけじゃないんだけど」
男はぽりっと頭を掻いた。私は、だったら失礼します、と丁寧に頭を下げた。
「用がなかったら呼んじゃ駄目なの?」
男がしつこく声をかけてくる。私は苛立って男を睨んだ。
「当たり前です。それでなくても私は、あなたに対して良い印象なんて持ってないんです」
「わお、はっきり言ってくれるね」
男はぴゅーっと口笛を吹いた。
「それに『あなた』なんてやめてよ。俺の名前は松永 要。えーっと美樹ちゃんだっけ?」
勝手にちゃん付けをされて、私はかっとなった。
私はあんたなんかと話したくない。あんたの側にいたくない。あんたと一緒にいると、おかしくなってしまう。今まで積み上げてきた『私』が、積み木崩しみたいに簡単に崩れてしまう。
「私とあなたは他人です。気軽に名前で呼ばないでください」
「冷たいなぁ。だって名前しか知らないし」
へらへらと笑う奴を見て、ますます私の心がおかしくなりそうだった。
「……遠藤です」
「遠藤 美樹ちゃんね」
奴はへらへらと笑った。私はしまった、と後悔した。いつの間にか奴のペースになっている。空気を戻すために私は学校の方向に顔を向けた。すると、チリリンッと聞き覚えのある鈴の音がした。私と奴の目の前を、裕介の自転車が走り過ぎていった。裕介の後ろには彼女が乗っていた。通り過ぎるとき、一瞬、彼女と目が合った。彼女は裕介の腰に手を回してこっちを見ていた。
「さっきの、裕介と彼女だったね」
「……さぁ。分かりません」
私はすたすたと歩き始めた。
「嘘だね」
奴が何でも分かっているような言い方をした。私は放っておけばいいのに、さっきの彼女の姿が頭から離れなくて冷静さを失っていた。
「何が嘘なんですか?」
「美樹ちゃんは見たよ、裕介と彼女を」
「見てません!」
私は威嚇するように目を鋭く光らせた。もういい、学校に行こう。このまま相手をしても意味がない。後ろ姿を向けた私に男はまた声をかけた。
「どうしてそこまで隠そうとするの?」
男の足音がゆっくりと近づいてきた。
「何も隠してなんか……」
「また嘘ついた。嘘付くの、好きなの?」
何、こいつっ。人を馬鹿にして!
私は頭に血が上り、顔を赤くして男を睨んだ。いつの間にか、男の顔が私の目と鼻の先にあった。私はとっさに離れようとしたが、男がぐいっと手を引っ張った。私は引く力に負けて体が前のめりになり、私の鼻の頭が男の胸に当たった。男の息が耳にかかる。
「ねぇ、裕介が好きな気持ちに、何で蓋しちゃうわけ?」
「……っ」
逃げたいのに逃げられない。男の囁く声が私の力を奪っていく。心臓が大きな音を立てて、身体の時を刻んだ。
「あんたには……あんたには関係ないっ」
私は全身の力を振り絞り、男の頬を力任せに平手打ちした。そしてもう足を止めないように、逃げるように男の前から走った。
「いってぇ……。ちょっと突っつきすぎたかな」
授業が始まっても、私の心臓の音は大きな音を立てていた。朝からあんな目に遭い、私は心も体も疲労感でいっぱいだった。
あいつ、絶対に許さない。こんなに疲れたのはあいつのせいなんだ。。裕介達のことは何でもない、いつもの『私』なら笑って済ませてしまえることなのに。あいつが口にする言葉は、私の心をズタズタに切り刻む……。
「ふぅ」
すっと頭の中が、腹立たしい男のことから、今朝見た裕介と彼女のことに変わった。
私はしっかりと、裕介の後ろに乗った彼女と目が合った。彼女は腰に手を回して、裕介は自分のものだ、と私に見せつけたのだ。
ーーみき、どこだよっ!
目を閉じると私の耳の奥で、まだ幼いころの裕介の声が響いた。私の意識が次第に、昔の記憶へと流れていく。いつだっただろう、私が両親とケンカをして家を飛び出した時だ。あの日は雨が降っていた。
「みきーっ!」
朝から降っていた雨が夜になると激しさを増していた。何が原因で家を飛び出したのか、今は思い出せない。けれどあの時の私にとって、そのちっぽけな原因はとても大きな問題だった。私は公園の遊具の下でうずくまって泣いていた。両親への怒りと、真っ暗になった外、止まない雨の不安で泣いていた。
「やっと見つけた」
私の目の前に裕介がひょっこりと顔を出した。突然のことで私の涙がぴたっと止まった。
「ゆ、ゆーすけ」
裕介は雨で濡れていて、髪も顔もぐしゃぐしゃだった。裕介はすとんっと私の隣に座った。
「みきのおかあさん、さがしてるよ」
「……しらない。みき、今けんかしてるもん」
本当は帰りたいのに、ケンカをした両親に会うのが怖くて素直になれなかった。鼻を鳴らしながら、私は顔を抱えた膝の中にうずめた。
「そっか」
裕介はそれだけ言うと空を見上げた。気付くと、雨がだんだんと弱くなっていた。
「みき、みて!」
裕介が空を指差して外に飛び出した。私はひとりにされるのが怖くて、急いで裕介の後を追った。
「まっ、まって、ゆーすけ」
「にじだよ! ほらっ」
裕介の小さな指が差すほうを見上げてみた。雨雲の間から、きらきらと輝く虹がかかっていた。
「きれー……」
「みき、しってる?」
裕介が遊具に立てかけてあった自転車を、よいしょっと私の前に持ってきた。裕介は自転車に跨った。
「にじのはしっこの下には、たからものがあるんだよ」
「たからもの?」
裕介はにこにこと笑って頷いた。
「今からさがしにいこうよ、ふたりで」
私は裕介の手を取って自転車の後ろに座った。私は落ちないように裕介の腰を抱きしめていた。裕介は一生懸命、自転車をこいで虹の端を目指した。
「たからもの、みつかるかな?」
すっかり泣き止んだ私は、目をきらきらさせて裕介に聞いた。
「みつかるよ。みつかったら、かあさんたちにみせてあげよ! きっとよろこぶよ。それに……」
裕介の背中が上下に動きながら答えてくれた。私は裕介の言葉を待った。
「みつかるまでさがす! みきをのせてさがすから」
今思えば、この時から私は裕介に恋してしまったのかもしれない。そのときの裕介の背中は、とても暖かくて優しかった。裕介の後ろは私の居場所なんだと思っていた。今この瞬間も、これからもずっと……。
「美樹っ」
結衣の声にはっと目を開けた。気付くと先生の姿がなく、クラスメイトもまばらになっていた。
「もうお昼?」
「今日土曜日だから、午前中で終わりだよ」
結衣が呆れた顔をした。そうだっけ、と私は呟いた。長いこと、昔の思い出に浸っていたみたいだ。私だけ今の時間に追いつけないでいる。机に広がっている教科書をカバンに収めた。
「ね、あれ誰かな」
クラスの女子が外を見て騒いでいる声が聞こえた。結衣もその中にいた。
「美樹も見てみなよ。イケメンが正門に立ってる。あ、こっち見た!」
結衣は嬉しそうに手を振っている。私はやれやれと思い、そっと顔を出してみた。正門で立っているイケメン、それはなんと……。
「ちょっと! あの人、美樹のこと呼んでるよ!」
外から帰ってきたクラスメイトのひとりが私に報告してくれた。結衣が驚いて私の腕を引っ張った。
「知り合い? もしかして彼氏?」
「ち、ちがっ! あれは、裕介と同じバイトの人で……」
「でも美樹に用があるって」
結衣がニヤリと笑った。そして私の机からカバンを持ち、私の手を引いて教室を飛び出したのだ。
「い、痛いよ、結衣!」
結衣は満足に靴を履けていない私を引っ張った。向かった先は正門のイケメン……私にとっては、もう二度と会いたくない人物だった。
「あのっ!」
結衣が奴に声をかけた。奴は私達に気付くと、にこりと笑った。
「キミは?」
「あたしは美樹の友達で、結衣って言います!」
結衣は目をらんらんとさせて答えた。私は、なるべく奴と目が合わないように結衣の後ろに隠れた。
「美樹、紹介してよっ」
結衣が私の肘をつついた。私はじろっと奴を睨んだ。
「松永 要。裕介と同じバイト先で働いてます」
「あらら、冷たい紹介じゃない?」
奴はハハハと笑った。何が可笑しいんだか。私はじわじわと腹が立った。
「ま、俺って嫌われてるから」
「えーっ! 松永さんみたいなイケメン、誰も嫌いになんかならないですよーっ」
結衣がキャーキャーと声を上げた。よく見れば目がハートになっている。私はぎゅっと結衣の腕を捕まえた。
「結衣、駄目だよ。そいつめちゃくちゃ悪い奴なんだから」
「あら、あたし悪い人って大好きっ」
結衣は私の言葉を簡単に蹴り飛ばした。奴は私達のやり取りにクスクスと笑った。
「結衣ちゃんは可愛いね」
奴の一言に結衣は身体を真っ赤にさせた。私は逆に真っ青になった。結衣をこいつの毒牙にかけるわけにはいかない。なんとか目を覚まさせないと!
「結衣、帰るよ」
私は結衣の手を引っ張って奴の前から消えようとした。しかし奴は、ちらちらと私の目の前に何かをちらつかせた。
「これ、なあんだ?」
「……私の生徒手帳っ!」
私がさっと手を挙げると、奴はそれを交わして自分のシャツの胸ポケットに入れた。そして口を私の耳元に近づけた。
「美樹ちゃんも、結衣ちゃんみたいに素直になればいいのにね?」
「! か、関係ないっ」
「今日俺に付き合ってよ。じゃないとコレ返さないし、裕介に美樹ちゃんの気持ちを教えちゃう」
私は顔が青ざめ、体に寒気が走った。結衣はのん気に、ぽーっとした瞳で奴を見ている。
「どうする? って言っても、美樹ちゃんに選択肢なんてないんだけどね」
登場人物がここで全員出たので、読み方を紹介します。
遠藤 美樹
松永 要
伊月 裕介
椎名 咲
中川 結衣
……です。これからもよろしくお願いしますm(_ _)m