禁術①
魔王城の最深部は、静かだった。
城の外で繰り広げられる戦いがもたらす炎の熱気も、魔族の叫びも、剣戟の音も、ここまでは届かない。ただ、どこか遠くで低く唸り続ける魔力の振動だけが、石造りの壁を通して足の裏に伝わってくる。
まるで城そのものが、生きた獣のように呼吸しているようだった。
ディムは、一人で立っていた。
広間の入口から十数歩。その先に続く巨大な扉は、黒い金属でできており、表面には魔俗語の文字が刻まれている。
背後には三人が倒れている。
アレスは右膝をついたまま動けなくなっていた。赤く輝いていた鎧は胸部が深く凹み、その下では肋骨が何本か折れているのだろう、苦しそうに顔が歪んでいる。それでも彼は剣を手放さず、刃の先を床に突き立てて体を支えている。目だけはまだ、ディムの背中を見ていた。
ブリギッドは壁に背を預け、両手を膝の上で組んでいる。回復の祈りを何度も唱えたせいで、神力が底をついていた。白い法衣の袖が裂け、そこから覗く腕には深い切り傷が走っている。唇は動いていた。祈りの言葉か、あるいはディムへの言葉か、距離が離れすぎていてディムには聞こえなかった。
ディアナだけが立っていたが、左腕をもう使えないことは分かった。狙撃銃を右腕一本で抱え、鋭い目でディムの横顔を見ている。引き金を引く指だけが、まだ確かな意志を持っていた。
三人とも、これ以上は戦えない。
ディムはそれを確かめるように一度だけ振り返り、そして前を向いた。感傷に浸っている時間がないことは全員が理解していた。
「ディム」
アレスの声だった。低く、短く、それだけだった。
ディムは足を止めずに答えた。
「大丈夫だ。任せろ。」
沈黙が返ってきた。三人とも、その言葉が何を意味するか知っていた。
ディムは上着の内側に手を入れ、小さな革袋を取り出した。中身は粉末状の何かではなく、液体でもなく、ただの羊皮紙だった。薄く、古く、端が焦げたように変色している。文字が書かれているが、見ようとすると視線がずれる。目が、その文字を正面から捉えることを拒否するような奇妙な感覚があった。
禁術の術式。
老魔導士ガルドから受け取ったのは魔王討伐の旅出発の前夜だった。ガルドは震える手でそれを差し出しながら、言った。「この禁術は最後の切り札だ。出来ればこんなものに頼らなくて済むことを祈る」。
ディムは笑って受け取った。そのときはまだ、使うことになるとは思ってはいなかったから。
今は、この禁術を使わざるを得ないということを理解していた。
ディムのレベルは324。しかし、魔王のレベルは1847。この世界で魔王とその眷属である四天王を除けば最高峰と呼ばれる数値でも、その差は到底埋まらない。埋まるはずがない。数字というのは嘘をつかない。ならば数字を変えるしかない。
ただ、それだけのことだった。
禁術の効果は、自身のレベルを5倍まで強制的に引き上げるというものだ。しかし、代償があった。経験値を受け入れると言われている魂の器が壊れ、それ以上レベルが上がらなくなる。それだけでなく、本来経験値を得ることでレベルが上がるが、器が壊れることで経験値を得ることでレベルが下がるようになる。
つまりは、使用することで一時的な力と引き換えにまともな人生を送ることができなくなることを意味していた。
だが、羊皮紙を両手で広げる。文字を、今度は正面から捉える。まるでディムが本気だと理解したように、術式が静かに顕現した。黒い文字列が空中に浮かび上がり、ディムの周囲を低速で旋回し始める。
「待って」
ブリギッドの声だった。
ディムは振り返らなかった。
「待たない」
「ディム、せめて——」
「ブリギッド」
ディムは静かに遮った。振り返らないまま、しかし声だけは柔らかくした。
「お前たちと戦えないのは、足手まといだからじゃない。お前たちと一緒なら、俺が守ることに集中してしまう。それだけだ」
旋回する術式の文字が速度を上げた。
ディアナが言った。感情を押し殺した、彼女らしい平坦な声だった。
「わかってます」
「後悔しないの」
ディムは少し考えた。本当に少しだけ、考えた。
「しない。後悔する暇があるくらいレベルが残ってたら、その分また誰かを助けられる。」
誰も笑わなかった。笑えるはずがなかった。
ディムは羊皮紙から手を離した。紙は空中で静止し、そして術式の文字列に溶け込むように消えた。黒い文字がディムの体に向かって収束し始める。皮膚に触れる寸前、一瞬だけ熱を持った。
痛みはなかった。
あったのは、圧倒的な充填感だった。何かが内側から膨れ上がる感覚。器の容量を超えた液体が溢れる寸前のような、息苦しい充満。骨の中まで何かが満ちていく。
ディムは静かに目を閉じた。
324。
数字が、内側で燃えるように書き換えられていく。350。449。780。加速する。923。1129。1360。
ディムは奥歯を噛んだ。声を出さないために。
1478。1600。
1620。
静止した。
ディムはゆっくりと息を吐いた。体の中に収まりきらないような力が、今は不思議なほど穏やかに落ち着いていた。剣を握る手に力を込めると、指の一本一本が今まで感じたことのない確かさで応えた。
振り返った。
三人の顔が見えた。アレスは歯を食いしばっていた。ブリギッドは目を伏せていた。ディアナだけがまっすぐにディムを見ていた。その目に、今まで見たことのない色があった。
ディムは笑った。いつも通りの、明るい笑顔だった。
「行ってくる」
黒い扉が、ディムの手で押し開けられた。




