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それからヨハンはいくつもの場面を見てきた。それはエナにとって優しいものばかりでは無かった。
彼女は成長しないから、同じところには居られない。エナを受け入れて家族になっても、やがてはエナを置いて行ってしまう。寂しさからペットを飼っても、あまりにも速く命がすぎていく。
いつからか彼女は孤独の中に身を置くことに慣れてしまっていた。それが悲しいとは思わないし、いっそ気が楽だとさえ思っていた。
魔術と呼ばれるあらゆるものを試して研究を始めたのは、彼女が孤独になって三十年したくらいだろうか。
彼女はしばらくの間研究に明け暮れていた。「時間を進める方法」「死ぬ方法」「悪魔を呼び出す方法」など分野は多岐に渡ったが、いずれも人の道に戻るための方法だった。だが、成果は一向に表れない。
そんななか、ヨハンもよく知る森に居を構える。そこは静かで日当たりもよく、水も豊かで、一人でのんびり過ごすには最適だった。森が大きく固有の植物も多いので、研究が捗りそうだったのだ。
ある日街に買い物に出たエナは、1匹の黒い子猫を見つける。その傍らには親猫と思われる黒猫がいて、子猫は親の温もりを求めて鳴いていた。
早くに親を亡くしたエナは、もしかしたらその子猫の姿に自分を重ねたのかもしれない。二度と動物なんか飼うもんかと思っていたのに、家へ連れ帰ることにした。
黒猫はエナが大好きだった。いつも傍で日向ぼっこをしたり、たまにエナに遊んでもらったりしながらすくすくと成長した。
二人きりの世界だったけれど、それがとても心地よかった。
黒猫はある程度大きくなると、街へ遊びに行くようになった。エナは止めなかったし、黒猫は必ず戻ってきた。友達もできたようで、エナが街に出るとたまに楽しそうにしてるのが目に入った。
そうしていつも通りすごしてたとき、ガシャンと何かが割れる音がする。エナが何かを落としたのだ。
ヨハンがどうしたのかと様子を見ようとしたその時。
「何してるの!!」
突然声をかけられたかと思うと、世界がぱっと暗転し、次に目を開けた時、あの真っ白な部屋に戻ってきていた。
ヨハンは現実感のないまま声の方を見ると、慌てたエナが手から手帳を取り上げている。
「エナ……、いろいろ聞きたいことがあるんだけど、とにかくこれだけ聞かせて」
「……なに?」
ヨハンは混乱する頭で言葉を整理しながら、彼女を見る。
「俺は、猫なの?」
エナが拾ったあの黒猫。他人だとは思えない。それにどんどんあの猫の記憶が……いや、元々あった記憶が蘇ってくるのだ。
ヨハンはこの五年よりも前の記憶が無い。けれどそれは気にならなかった。あるのが普通だと知らなかったし、友人たちの顔も名前も分かっていたからだ。
村には人間として受け入れられていて、体もどう見ても人間で、そこに疑う要素は無かった。
記憶が、戻らなければ。
「……五年前、私は誤って薬品を落としてしまったの。貴方はそれを舐めて、そしたら人間になった」
「どうして教えてくれなかったの」
「貴方は私のことをすっかり忘れていた。自分は街に住んでる若者だと思っていたのよ。きっとずっと街で人間を見てたから」
「……人間になりたいと、思ってた。そしたらエナの痛みも孤独も包んであげられるのにって」
「そう。でも貴方は人間になって最初に、君は誰って聞いたわ。帰らなきゃ行けないけど道が分からないって」
辛そうに吐き捨てた言葉に、ヨハンは息を飲む。記憶が無いのは、おそらくその時はまだ猫とも人間ともつかない朧気な存在だったからだ。
誰よりも大切にしたい相手だったはずなのに、それを忘れて酷い言葉を掛けていたなんて。今すぐにでも自分を殴ってしまいたかったけれど、話を聞きたくて耐えた。
「この家に来た時は驚いた。記憶を思い出したわけじゃないってすぐに分かった。でも、それで良いかなと思ったの。貴方は街の青年で、これからもそこで生きていく。そうやってゆっくり生を終えるのも良いだろうって」
「そんなの、俺は望んでないよ」
「私と再開しなければ望んでいたかもしれないでしょう? 貴方は気づいてきなかったけれど、グレイもアンバーもメアリーも、みんな、猫よ。貴方の友達だったから、貴方のために、同じ薬を飲ませたの。街にも魔法をかけて、貴方たちがもともといたかのように錯覚させた」
グレイもアンバーもメアリーも、天涯孤独だった。当たり前なのだ。だって彼らは、本当は人間じゃないのだから。ヨハンと友達だったから、無理矢理人間にさせられてしまった、可哀想な猫たちだったのだ。
「グレイが死んだのは人間だったから。貴方が私を責めた時、何も言えなかった。責められても仕方ないって思ったわ」
「でもそれを言ったら、俺が人間にならなければ……」
「貴方が人間になったのも私の不注意でしょう? それに、人間になってくれて私は嬉しかったの。酷い話かしら? 猫の貴方も大切だったけれど、会話ができて、同じ体温を感じて。楽しかった。だからグレイ達を人間変えたことは、良かったことだと思ってるわ」
「どうしてそんな言い方……!」
エナは本当にグレイたちがどうでもいいと思っているようだった。ヨハンが大切で、ヨハンのために動いていたのだから、グレイが人間になったが故に死んだとしても気にしていないのだ。
けれど、その言い方はまるで、ヨハンに責めて欲しいと言っているようだった。わざと煽るような言い方をしてヨハンが離れていけばいいとさえ思っているような。
ヨハンには、今のエナが何を考えているのか分からない。
「貴方、友達の猫が子供を産んだって子猫を連れてきたでしょう。あれも、友達の飼ってる猫じゃなくて、友達の猫だったはず。でも、人間に猫の友達はいないわ」
そう。今ではすっかり大人になったあの黒猫は、友達の黒猫が産んだ子供だった。エナのためにどうしてもと1匹譲り受けたのだ。大切にするからと。親猫は渋々了承してくれた。
「ずっとこんな時間が続けばいいと思った。でも、それはどうやら無理みたい」
「え?」
「去年の暮れ、メアリーとアンバーが猫に戻ったの。きっと魔法にかかっているあなたにはまだ人間に見えていたと思うけれど。それで、この薬の効力が切れ始めていることがわかった」
メアリーとアンバーを思い出す。人間として接していたはずの記憶の中の彼女たちは、たしかに猫になっていた。メアリーは裕福な家の猫だった。アンバーは野良猫でグレイとはいつも喧嘩をしていたけれど仲が良く、野良猫の集会では二人のやりとりを微笑ましく見守っていたものだ。
「同じ薬をまた飲ませようとしたの。アンバーたちに頼んでね。でも、効かなかった。だから貴方ももう少ししたら、きっと猫に戻ってしまう」
「……そんなのは、嫌だ。俺は人間になって、エナと過ごしたいと思っていた。事故だったし、グレイたちには悪いけど、俺は人間になれて良かったんだよ……」
ヨハンにとって、猫として過ごした時間も人間として過ごした時間も、どちらも大切だった。人間として過ごした時間の方がずっと親密だった。
ヨハンの言葉に、エナはゆっくりと首を振る
「……生命の理を変えるのは良くないことなの。事故がなければ、私は貴方を人間にしようと思わなかった」
「……メイの実の効果に書いてあったことと同じだ。生命の理を変えるなって」
「ずっとずっと昔、まだこの森にメイの実が生えていた時。私には大切な人がいた。偶然ここに迷い込んできたから仕方なく助けてあげたのよ」
知らない話だった。手帳の記憶には刻まれていなかったものだ。あるいは、意図的に封印したものなのかもしれない。
「その人は戦で大怪我をして、命からがら街へ戻ってきた。森の東側にある街にね。私は彼を好きだった訳では無いけど、やっぱり慣れ親しんだ相手だもの、情も湧くわ。こっそり、メイの実を飲ませたの。みるみる回復した」
「……その後は?」
「彼は奇跡だと思ってた。またここの家に来るようになって、しばらくは平穏だったけど……うっかり見つけてしまったの。メイの実の情報をね。当時は戦が頻繁にあったから、仲間を助けたかったんだと思う。どこにあるのかって聞いてきて、私は仕方なく教えてあげた」
「そういえば、メイの実が戦に繋がったって」
「そう。彼が言いふらしたわけじゃなかった。彼が仲間に渡したメイの実を、偶然見ていた人がいた。そして、その噂が北側の街に広がったの。実を取り合って、戦が起きた。私はすぐに森に術をかけて簡単には入れないようにしたけれど、森の外では争いがしばらく起こっていたみたい。そして、彼がまた命からがら森へとやってきた」
懐かしむような、痛みをこらえるような表情で、エナは続ける。自分の知らない彼女と接した男に少しだけ嫉妬しながら、それでも行く末が幸せでは無いことなど分かっていたから、ただ静かに聞くことしかできなかった。
「彼はメイの実が欲しいって言ったの。自分の嫁が瀕死だから、と。でも彼女はかつて戦乱で死にかけた時にメイの実で助かってる人だった。だから効かないって言ったら、彼、無理やり奪って持って行ってしまった。奥さんを助けたい一心だったのね」
「でも無理に飲ませたら理を外れるって……」
「そう、外れてしまった。一粒だったらただ効かないだけだったかもしれない。けれど一度に沢山飲ませてしまったのね。彼女は朽ちることの無い死体になってしまった。体は生きてるのに、ピクリとも動かないの。眠ったようにね。文献では逆に、体が朽ちてるのに動いていたというのもあるわ。どちらも対処法は同じ。燃やしてしまうしかない」
火刑は本人にも家族にも辛い選択だ。敬虔な信仰心を持つ者ほど、その意味は重い。特に今から何百年も前なのだとしたら、もっと強い信仰心があっただろう。
人間として過ごしていたヨハンだって、自分の身を灰にしたいとは思わない。できればエナとともに天国へ行って過ごしたいと思う。エナが地獄へ行くというのなら付いていくけれど。
「彼は私を責めなかった。言われた通りにしなかった自分が悪いのだと。そして、2人で手を繋いでそこに火をつけたの」
「生きているのに……?」
「少なくとも彼は意識がはっきりしていた。だからせめて苦しくないように、痛みを感じない魔法をかけたわ」
「……そう」
愛する人と二人焼かれた彼は幸せだったのだろうか。きっとそれを見送るエナの気持ちは考えなかったのだろう。そうして何度も置いていかれた彼女の気持ちなど、ヨハンにも分からない。
「生命の理を外れてはいけない。必ず代償が来る。だから貴方も、猫に戻ったらその生を受け入れて」
「それならせめて、俺が死ぬまでそばに居させて欲しいんだ」
「それはできないわ。貴方が猫になったら、街へ連れていく。その後はもうこの森には入れないように閉じてしまうから」
「どうして!」
「もう、見送るのは嫌なの。貴方がどこかで幸せになってたら良いと想像する方がずっと楽。貴方は街で生きていける力がある。友達もいる。だから街へ置いていくの」
「勝手すぎる。俺はエナの孤独を埋めたくて人間になりたかったのに!」
「貴方を見送る方がずっと孤独だわ! もしかしたら幸せになってて、もしかしたら貴方の子供が、孫が、生きてるかもしれないって思う方がずっと幸せでしょ」
エナの願うような言葉に、ヨハンは何も返せない。返す権利もなかった。だって、ヨハンは置いていく側なのだから。人間になれて良かったけれど、人といる温もりを思い出してしまったことは、彼女にとってより残酷だったのではないかとさえ思った。
エナは、ヨハンが人間でよかったと言った。それを信じることしかできない。たとえヨハンにとって、人間になれた今の方が別れが辛かったとしても。
「……わかった。でもお願いがあるんだ」
「何?」
「首輪を、くれないかな」
「首輪?」
「そう。そしたら俺、その首輪をずっと大事にするから。もし子供が産まれたらその子にも渡すよ。ずっとずっと擦り切れても、俺の血が繋がる限り、俺が君と幸せにすごした証になるから」
エナはヨハンに首輪を付けなかった。それは今飼っている黒猫でも同じだ。きっといつか別れると思っているからだろう。
首輪は飼い猫の証。彼女はヨハンやあの黒猫を、飼い猫にはしたくなかったのかもしれない。
エナは少し考えてから、覚悟を決めたようにうなづいた。
「分かったわ、作ってあげる」
その言葉に応えるかのように、ヨハンの体が光り出した。
「私、言い忘れてたかしら。貴方と過ごせて楽しかった。猫の時も人間の時もね」
「……俺も、楽しかった。ありがとう。大好……」
エナの言葉に返そうとするが、どんどん言葉が失われていく。人間と猫は声帯が違うのだから当たり前だ。
次に目が覚めた時、ヨハンはもう二度と人間の言葉を口にすることはできなくなっていた。そして、エナがヨハンの言葉を正確に理解することも。
・*・*・*・
エナはヨハンを連れて街へ来ていた。メアリーの家の屋根の上に降り立つと、ヨハンを下ろす。名残惜しそうにヨハンが彼女の足を舐めれば、エナはその頭を撫でた。
猫の首には幸せになるよう願いが込められた首輪がある。赤色は絆の証だった。
「それじゃあ、いくね」
そう言って魔女は黒猫を一撫ですると、箒に跨るなり空高くへと舞い上がった。
暁のしじまに、寂し気な鳴き声だけが響き渡る。
彼女の姿を見ることは、その後のヨハンの生涯で一度も無かったという。
~Fin~




