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エナと出会って五年が経つ。彼女との関係は相変わらずで、ヨハンが連れてきた黒猫は落ち着いたのか一緒に日向ぼっこをすることが多くなった。猫の時間はあっという間にすぎていく。
エナはこの五年間、全く見た目が変わっていない。歳の頃は十五歳くらいだろう。彼女曰く、魔女になった日から時が止まっているのだそうだ。それがどれほど前だったのかなんて思い出せない。数えるのはやめたと言っていた。
「あれ、こんなところに部屋なんてあったっけ?」
今日もいつものように、ヨハンはエナの家を歩き回っていた。最も探索は粗方終わっていたので、面白い道具の一つでも無いか探してみようと思ったのである。
そして、見たことの無い扉を見つけたのだ。それは真っ白で、まるで穢れを拒むかのような色をしている。ヨハンが知る限り、その色の扉はここだけだった。
いつもならエナに入って良いか聞いていただろう。さすがに勝手知ったる家でも家主の許可なしに入るのは失礼だ。
だが、今日は違った。まるで導かれるように扉を開け、気づけば足を踏み入れていた。
部屋の中はこれまた真っ白だった。天井も壁も床も。窓がない部屋で錯覚を起こしそうになるが、それほど広くは無い。家具は真っ白な机と椅子。その机の上に、一冊のなめし革表紙の本がある。近づいてみると、どうやら手帳のようだ。
ヨハンはほとんど無意識にその手帳へ触れる。
すると。
突然パンと何かが弾けるような衝撃が体に走り、ヨハンの意識は暗闇へと吸い込まれて行った。
・*・*・*・
「ここは……」
ヨハンが目を覚ますと、そこは簡素な石造りの家が点々と立ち並ぶ村のようだった。傍には羊小屋でもあるのか、羊の声が聞こえてくる。家と家の間に畑があり、自給自足の小さな村なのだろうと想像が付く。
ヨハンが倒れていたのは大通りのようで、道が広い。あまり賑わっていないのか、ここが静かな場所なだけなのか、とにかく人はほとんど居ない。
きょろきょろと辺りを見回して状況把握に努めようとするが、ヨハンにはここがどこかは分からなかった。
少しして、向こう側から羊の声が沢山聞こえてきた。ヨハンがそちらを見ると、少女が手に鞭のようなものを持ちながら羊を引き連れて向かってくる。羊飼いの少女だ。
その顔を見て、ヨハンは目を見開いた。
「エナ……!」
エナだった。髪は栗毛で今よりも少し幼いが、見間違えるはずがない。ずっとそばに居たのだから。
思ったよりも大きな声が出ていただろうに、エナは気づいた様子はなく歩いてくる。しかしヨハンを……正確にいえば、ヨハンの後ろを見てぱぁと表情を明るくすると、駆け出した。
「父さん! 母さん! ただいま!」
「ハンナ、お帰りなさい。今日も無事帰って来られてよかったわ」
「大丈夫よ! 私もう十歳だもの」
「そうだな。ほら、今日の無事と恵みに感謝してから夕食にしよう」
「うん!」
エナが両親へ抱きつけば、両親もまたハンナを大事そうに抱き締め返す。幸せな家族そのものを体現したかのような光景を見て、ヨハンはここが過去の世界なのだと分かった。
過去の世界、つまり、エナの記憶。覗き見るような真似は本意では無かったけれど、それでもエナのルーツを知りたくて、ヨハンはとにかくこの物語を辿ってみることにした。
場面がガラリと変わる。夜だと言うのにエナの家には明かりが灯っていない。外出しているのだろうか。けれどそんな穏やかな雰囲気は感じない。
彼女の家の裏手へと回ると、エナが飼葉の山に蹲って泣いているのが見えた。羊が心配そうにエナの頭を舐めている。何かがあったようだ。
彼女に声をかけ抱き締めたくても、こちらの声はエナには届かない。せめて側にいてあげたいと横に座り、ただ時が彼女の傷を和らげてくれるのを待つ。
三十分ほどしただろうか。父親が家の中から現れ、エナを優しく抱きしめた。
「もう泣かないで、私の天使。そんな様子では母さんも天国へ行けないよ」
「でも、でも、母さんが……」
「母さんは心が優しく素敵な人だったろう? 神様が手元に置きたくなってしまったのさ。天国へ行けるのに、何を泣くことがある? たしかに悲しいけれど、いつか私たちが天国へ行けば、きっとまた一緒に暮らせるよ」
「でも私は今会いたいもん! またぎゅっとして欲しいもん!」
「父さんが代わりにしてあげるから。あんまりにもハンナが悲しがってて母さんが天国へ行けなかったら、それこそもう会うことはできないんだよ」
「うっ、うっ……もう、母さんは、痛くないかな」
「ああ、もう痛くないよ。苦しいことも何も無い。さぁ、今日は父さんと一緒に寝よう。明日から2人で頑張ろうな」
エナは父親へ強くしがみつき、父親はそんなエナを抱いて家へと戻った。
あの優しそうな母親が亡くなったのだ。父親も口調こそ穏やかだったが、悲しみに暮れていたのはすぐに分かった。故人を悼まない人間が、あれほど窶れるはずがないから。
様子からして、昨日今日でなくなったという訳では無いのだろう。病気の人が衰弱する様を見るのも、看取るのも、その者を深く愛する程に辛くなるのだ。
2人が穏やかに眠れることを祈り、ヨハンは空を見上げた。
またガラリと景色が変わる。村はボロボロで焼き払われた跡があった。戦か襲撃が起こったのは明らかだった。
場所が変わり、広場のようなところに来ている。傷ついた者たちが並べられ手当を受けている。至る所で呻き声や泣き叫ぶ声が聞こえてくる。中には力尽きてる者もいた。
その中心近くに、エナが居た。横たわる者に被さって泣いているのが見える。それが誰かなど考えるまでもなかった。
ヨハンは彼女に近づき、触れることができない頭を慰めるようにそっと撫でた。
父親は至る所から出血をしているようだが、手当を受けた跡がない。胸に血が滲み服が破れているところを見ると、胸を突かれて即死だったのだろう。運ばれたものの手当不要ということで置かれたのか。
村の人数よりも多くの患者や遺体がある。やはり、戦争が起きたのだ。理由は分からないが、こんな小さな村に軍が来れば一溜りもないだろう。
人々も疲弊しきっているようで、もはや誰も生気を帯びていなかった。
エナは幼いうちに、両親を亡くしていたのだ。そこから何十年あるいは何百年と、孤独な人生を歩むことになるなど、きっとこの時はまだ知らなかったのだろう。
焼け焦げた匂いが嫌に鼻についた。
・*・*・*・
また情景がガラリと変わる。ヨハンは先程の広場にいた。家が修復されているところを見ると、時間が進んでいるようだ。中央には薪が積まれた台があり、そこには十字架の棒が立っている。火炙り台だ。でも、一体なぜ。
ヨハンが不思議に思っていると、白い服を着た少女が歩いてきた。そして、自らその台へと登る。栗毛の長い髪の幼い顔をした少女。記憶の初めよりもずっと大人びた、けれどヨハンがよく知るエナだ。
「エナ! なんでこんなことに!」
ヨハンは誰かに聞こえる訳では無いことを分かっていながら叫んでいた。悲鳴のようなその声に説明する者はいなかったが、村長のような人が台に括られているエナへ声をかける。
「本当に良いのかい?」
「良いんです。私の命で村が豊かになるのなら。あの戦からずっと、気候に恵まれず、天災に遭って、羊も食べるものも無くなってしまった。隣の家のおばちゃんも、飢えで……。もう、こんなのは嫌なの」
「ありがとう、ハンナ。お前はこの村の救世主じゃ」
村長は泣きながら手を組み祈りを捧げる体勢になる。すると周りの人々も皆同じポーズを取り、賛美歌を歌い出した。
そして神父が、神への供物をお受け取りくださいといった祈りの言葉を告げる。
エナは、生贄として命を燃やされるのだ。最後の審判で皆が神の国へ行くとしても、彼女は行くことができない。彼女の体は燃やされ、灰になってしまうのだから。
両親に会うこともできなくなってしまう。
「やめろ! やめてくれ!」
無駄だとわかっていてもヨハンは叫ぶことしかできなかった。火が薪にくべられる。エナは手を組み神への祈りを口にしている。みるみる燃え上がり、あっという間に火は彼女を取り囲んだ。咳き込む声が聞こえる。それでも祈りの声は止まない。
『力が、欲しいか』
どこかから声が聞こえた。それは村の人々には聞こえていないようだったが、エナには聞こえているようだった。
『憐れな人間の娘よ。村を助けられるだけの力が欲しいか?』
「貴方は誰? 悪魔?」
『私は人間ではない。だが、悪魔ともまた違う。憐れなお前に慈悲を与えに来た』
「どうして? 私は憐れではないわ」
『お前が生贄になったのは何故か分かっているだろう? 身寄りがなく、食べ盛りのお前が死ぬのが一番良かったからだ』
「そうかもしれない。でも納得したことよ。悪魔め、私を誑かそうったってそうはいかないわ!」
『お前が死んだとて、村は豊かにはならん。お前が力を得れば、豊かにすることができるぞ。無駄に死にたいならそれも良し。どうする?』
悪魔の囁きだ、と思った。エナは村が好きだったのだ。だから生贄になることを受け入れた。けれど生贄はそれこそ神頼みで、力があれば確実に村を豊かにすることができる。
声の主は悪魔ではないというが、それが本当かどうかは誰にもわからない。たとえ悪魔ではなかったとしても、少なくとも人の道を外そうとしていることは分かる。そういう者を悪魔というのでは無いのだろうか。
「私が貴方の提案を受け入れるとして、代償は何? 命が欲しいの?」
『そんなものはいらぬ。ただ、お前は二度と人の理の中では生きていけぬから、それを代償と言っても良いかもしれんな』
「いいわ、上等だわ。人の理なんてクソ喰らえ! たとえ私がどうなろうと、この村が本当に助かるならそれでいいわ」
『交渉成立だな。憐れな娘、神に愛されし恵みの名を冠するものよ。この力、好きなように使うといい』
声の主がそう言うと、辺りに眩い光が広がった。ヨハンも、見ている人たちも、皆目を瞑る。
次に目を開けると、縛られていたはずのエナは自由の身になり、火が消えた台の上に立っていた。
「みんな、私は力を手に入れたわ! これで村も豊かに」
「あ、あ、悪魔だ! ハンナのやつ、悪魔と契約して魔女になったんだ!」
エナが嬉しそうに話し出した言葉を遮って、誰かが叫んだ。そしてその恐怖心はあっという間に民衆を飲み込む。
「魔女は火炙りでも死なないって聞くよ……」
「火が消えてる。きっと火を操って消しちまったんだ」
「もしかしてずっと俺たちを騙してたんじゃないか? 魔女のいる村には不幸が訪れるって……」
「するってぇとなんだ、今までの不幸は全部ハンナのせいだったってのかい」
「変だと思ったんだよ。生贄になるなんて受け入れるから。きっとこうやって俺たちを集めて儀式でも行うつもりだったんだ」
「魔女め! 消えろ!」
心無い言葉がエナを襲う。違うと否定するエナの声は民衆の声に掻き消されて誰にも届かない。
酷い話だった。彼女は村のために人であることを辞めたのに、村の人間は彼女を信じず、その上罵声まで浴びせるのだ。誰かが石を投げ始めれば、周りも同調して投げ始めた。
エナはやるせない表情をしたが、けれど気丈にも涙を流さない。
そして、まるで魔女として振る舞うかのように高らかに声を上げて笑った。誰もがその声に押し黙る。
「魔女ですって? 随分な言い様だわ! ええ、いいわよ。望むなら私は出て行ってあげましょう。二度とこの村には近寄らない。それで良いでしょう? 私が去ったら、種を巻いてみなさいな。きっと今年の秋には豊作でしょうね!」
「ま、魔女め……正体を現したな」
エナはその言葉にニコリと微笑むと、火刑台を下りる。そして早々に自宅へと戻り、旅支度を始めた。
ヨハンはただ見ていることしかできない。代わりに、彼女のこれからを見届けようと思った。
エナはまだ涙を流さない。きっと村を出るまで流すことは無いだろう。それが彼女の守れる最後の砦だったのかもしれない。
エナは支度を終えると、村の出口へと向かった。簡素な石が置いてあり辛うじて村との境界線だとわかる程度だが、確かな壁に見える。振り返ってみれば、最初に見た豊かな畑も家畜も確かになくなっている。
エナが振り返って何かを唱えると、地面が光る。土壌を豊かにしたのだろう。エナの言葉を信じて種を撒けば、豊作になるはずだ。
「ハンナ」
エナを呼ぶ声が聞こえた。嗄れたそれは村長のものだった。エナは1つため息を吐いて、ゆっくりと振り返る。
「村長さん、どうしたの?」
「ハンナ。村の者はどう言っても、この村にとってお前は救世主じゃよ。お前をずっと見てきたのじゃ、わかるさ。いつでも帰っておいで、ここはお前の故郷なのだから」
「……やだわ。私はもうハンナではないの。そうね、確かギリシアの方に戦いに強い女神がいるって聞いたわ。確か……アテナ。でもそのまま名乗るのは失礼かしら」
「ハンナ……」
「エナよ。私は今日から、エナ。もうハンナは死んだの。生贄として村に命を捧げたの! ……それで良いでしょう?」
「……ハンナ、すまない。ありがとう、どうか幸せに」
村長の言葉を振り切るように、エナは身を翻して道を進む。その先に何があるかは分からない。どこに行けば良いのかも、若干十五歳の少女には難しいだろう。けれど彼女は人の道を逸れてしまった。それは二度と戻ることは無い。だからただ歩くしかない。
エナの背中が震えてるように見えたのは、きっと気の所為では無かっただろう。
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