8話 兄弟の転機
儀式の日から、僕の世界は色を失った。
部屋から出ることもなく、ベッドの上で膝を抱える日が続いた。
食事も喉を通らず、メイドのエマが申し訳なさそうに運んでくるトレーは、ほとんど手つかずのまま下げられていく。
本を読む気力も、剣を握る気力も湧かない。
ただ、天井のシミを見つめながら、ぐるぐると同じ思考を繰り返すだけだ。
カーテンは閉め切られたまま、部屋の中は常に薄暗い。
時間の感覚さえ曖昧になり、朝も夜も溶け合っている。
思考の泥沼は深く、どこまでも暗い。
――また、やってしまった。
前世で、事故にあって死んだ時と同じだ。
あの時も、僕は親に「親不孝」をして死んだ。
自分よりも先に子供が死ぬこと。それがどれほど親を傷つけるか、僕は知っているはずなのに。
そして今世でもまた、僕は彼らの期待を裏切った。
「結果」を出せなかった。
いや、それどころではない。
「無能」の烙印を押され、侯爵家の面汚しとなった。
積み重ねた努力は、彼らを笑顔にするどころか、落差による失望を深めただけだった。
父上も母上も、部屋には来なかった。
叱責されることも、慰められることもない。
それが、侯爵家としての彼らの「答え」なのだと理解していた。
無能な長男にかける時間はなく、今は一刻も早く次の一手を打たねばならないのだ。
家を存続させるために。貴族としての責務を果たすために。
彼らの行動は常に合理的、そして正しい。
だからこそ、自分が「この家にとって、いてもいなくても変わらない存在」であることを、痛いほど思い知らされる。
その矛先がどこへ向かったかは、部屋の中にいても伝わってきた。
廊下を慌ただしく行き交う家庭教師たちの足音。
中庭から聞こえてくる、ライオネルの厳しい檄。
そのすべてが、まだ五歳のノエルに向けられている。
「違う! そうじゃない!」
「もっと速く! 兄上ならこの頃は出来ておられましたぞ!」
窓の外から聞こえる叱責の声に、僕は耳を塞ぐ。
僕ができるようになったことを、ノエルにも求めているのだ。
確かに、僕はその年齢で出来ていたかもしれない。
だが、それは精神年齢が大人だったからだ。
言語を理解し、効率的に身体を動かす術を知っていたからこそ、幼い体でも大人のような所作が可能だった。
しかし、ノエルは違う。
彼は本物の、ただの五歳の子供だ。
いくら才能があるとはいえ、大人の精神を持つ僕と同じ速度での成長を求めるのは酷に過ぎる。
「なぜ兄にできて弟にできない」。その理不尽な問いは、僕という異常な前例が生み出したものだ。
無茶だ。焦りすぎている。
わかっていても、身体が動かなかった。
口を出す資格すらないその無力感が、鎖のように手足を縛り付けている。
僕が部屋を出て、「やめてくれ」と言ったところで何になる。
「ならばお前が代われるのか?」と問われれば、僕は口をつぐむしかない。
魔力なき者、侯爵家を継ぐ資格などないのだから。
そんな日が数日続いた夜のことだった。
屋敷は静まり返り、使用人たちも寝静まった深夜。
僕は眠れずに、ただベッドに横たわっていた。
コン、コン。
控えめなノックの音がした。
風の音かと思った。あるいは、自分の鼓動が耳に響いただけかとも思った。
だが、音はもう一度鳴った。
コン、コン、コン。
遠慮がちで、けれど必死さを滲ませるような音。
エマかと思ったが、彼女なら時間を知らせてから入ってくるはずだ。
返事をしないでいると、ドアノブがゆっくりと回り、小さな隙間が開いた。
「……あにうえ」
涙声だった。
隙間から覗いているのは、ノエルだった。
その顔はぐしゃぐしゃに歪み、目元は赤く腫れ上がっている。
手足には、不慣れな訓練でついたであろう擦り傷が見えた。
包帯の巻かれた小さな手が、痛々しく視界に刺さる。
僕が何も言えずにいると、ノエルはおずおずと部屋に入ってきて、ベッドのそばまで歩み寄ってきた。
そして、僕のパジャマの袖をぎゅっと掴んだ。
「できないんだ……」
ポツリと、震える声が落ちた。
「ぼく、兄上みたいに、うまくできない…。剣も、勉強も、全然覚えられないんだ……」
堰を切ったように、ノエルは泣きじゃくった。
「父様も、母様も、何も言ってくれないんだ……。ただ、冷たい目でじっと見るだけで……それがすごく怖いんだ……。先生たちも、兄上とは違うって……」
小さな身体が小刻みに震えている。
無言の重圧。比較される苦しみ。そして何より、見放されるかもしれないという恐怖が、弟を壊そうとしている。
「ノエル……」
「兄上、助けて……。ぼく、どうしたらいいの……?」
その言葉が、凍りついていた僕の心臓を鷲掴みにした。
五歳の子供が、大人たちの焦りと期待を一身に背負わされている。
本来なら、僕が背負うはずだった重荷を。
僕が不甲斐ないせいだ。僕が才能を持たなかったせいで。
この小さな弟が犠牲になっている。
僕と比較され、僕の影を追うことを強いられている。
その影を作ったのは、間違いなく僕自身だった。
僕はベッドから降り、泣きじゃくるノエルの小さな体を抱きしめた。
「ごめんな」
掠れた声が出た。
喉が詰まって、うまく声が出ない。
「ごめん、ノエル。ごめんな……」
謝ることしかできなかった。
自分の無力さが、これほど憎いと思ったことはない。
ノエルは僕の胸に顔を埋め、さらに激しく泣いた。
「うわぁぁぁぁん!!」
子供らしい泣き声が、部屋いっぱいに響く。
その温かさが、体温が、痛いほどに僕の胸を焼く。
前世の僕は、才能がないことが罪だなんて、思ってもみなかった。
けれど、大事な弟を泣かせ、守ることもできずに部屋に閉じこもっている今の僕は、紛れもなく罪人だった。
情けなくて、悔しくて、僕の目からも涙が溢れ出した。
静まり返った夜の部屋で、僕たちは互いにしがみつくようにして泣き続けた。
何も解決しないだとわかっている。
僕が泣いたところで、魔力が増えるわけでも、ノエルの負担が減るわけでもない。
けれど、今はただ、この傷だらけの弟を一人にしたくなかった。
僕ができることは、一緒に泣くことくらいしかなかったのだから。
やがて泣き疲れたノエルが、僕の腕の中で寝息を立て始めるまで。
僕は弟の背中を、何度も何度もさすり続けた。
誰も見ていない夜の部屋で、ノエルの安らかな寝息だけが、静かに響いていた。




