6話 自信と自覚
月日は砂時計の砂が落ちるように、音もなく、けれど確実に過ぎ去っていた。
僕は九歳になった。
弟のノエルは四歳になり、屋敷の中を元気に走り回るようになっていた。
「兄上!」
中庭で木剣を振っていると、背後から高い声が飛んできた。
振り返ると、練習用の小さな木剣を抱えたノエルが、ぺたぺたと走ってくるのが見えた。
「また抜け出してきたのか、ノエル」
僕は剣を止め、タオルで額の汗を拭いながら苦笑した。
「エマが探していたぞ」
「だって、エマったら全然見つけてくれないんだもんー」
「見つからないように隠れていたのはノエルだろう?」
図星だったのか、ノエルは悪戯っぽく舌を出した。
四歳になったノエルは、天使のように愛らしい容姿をしている。
母譲りのプラチナブロンドの髪はふわふわと柔らかく、父譲りの青い瞳はビー玉のように綺麗で。
性格は――今のところ、僕とは正反対のようだ。
じっとしているのが苦手で、好奇心旺盛。
座学の時間になると五分おきに「休憩はまだー?」と家庭教師を困らせるが、その愛嬌でなんとなく許されてしまう。
「侯爵家」という重い枠組みの中で、彼は天真爛漫な光のように振る舞っていた。
「兄上、みせてー! さっきのやつ!」
ノエルが僕の木剣を指差してねだる。
「『払い』の型か?」
「そう! シュッてやつ!」
「見てて楽しいものじゃない。基本の反復だからな」
そう言いながらも、僕は再度構えを取った。
足を開き、腰を落とす。
剣術指南役のライオネルから教わった基本の姿勢だ。
息を吸い、吐き出しながら、踏み込む。
風を切る音と共に、木剣を一閃させる。
「おおー!」
ノエルが目を輝かせて拍手をする。
何がそんなに面白いのか僕にはわからない。ただの素振りだ。
けれど、ノエルは飽きもせずに僕の練習を見たがる。
そして、見様見真似で自分の小さな剣を振り回し始めるのだ。
「こう? 兄上、こう?」
「足の位置が違う。もう少し肩幅に合わせて」
「こうー?」
「そう。……うん、筋がいいな」
お世辞ではなかった。
ノエルの動きには、天性のバネのようなものがある。
教えたことを感覚で掴むのが早い。
僕が頭で考え、理屈を噛み砕いてから身体に落とし込むタイプだとすれば、彼は身体が先に正解を知っているタイプだ。
(才能、あるんだろうな)
ふと、そんな感想が頭をよぎる。
嫉妬はない。
ただ、兄として、前を歩く者として、決して油断はできないという心地よい緊張感があるだけだ。
僕は彼の姿勢を直し、また自分の練習に戻る。
僕が百回振る間に、彼は十回振って飽きてしまい、ダンゴムシを探し始める。
それでも、僕が終わるまで、彼は決してその場を離れようとはしなかった。
夕暮れ時、二人並んで屋敷の中に戻る。
僕の歩調に合わせて一生懸命歩くノエルの影が、廊下に長く伸びている。
「ウィルフレッド様、ノエル様」
出迎えたメイド長が、深く頭を下げた。
その視線が、僕たちの泥だらけの靴に向けられる。
「……お着替えを。旦那様がお待ちです」
「父上が?」
珍しいことだった。
夕食の時間にはまだ早い。
僕はノエルをメイドに任せ、急いで着替えると、父の執務室へと向かった。
重厚な扉をノックする。
「入れ」
短く低い声が響く。
中に入ると、父は書類の山に埋もれるようにして座っていた。
「ウィルフレッドです。お呼びでしょうか」
「座りなさい」
勧められた革張りのソファに腰を下ろす。
父はペンを置き、組んだ手の上に顎を乗せて、僕をじっと見据えた。
その瞳は静かで、底が見えない。
「来月で十歳になるな」
「はい」
「準備はできているか」
主語はない。けれど、意味は明確だった。
魔力測定の儀式。
この国の貴族にとって、十歳という年齢は成人と同じくらいの意味を持つ。
体内の魔力回路が安定し、その「器」の大きさと「属性」が確定する年齢。
つまり、貴族としての将来性が数値化される日だ。
「……準備は、できているつもりです」
僕は嘘偽りなく答えた。
「どのような結果が出ようとも、侯爵家の人間として恥じない振る舞いをする覚悟です」
父の表情は微動だにしなかった。
だが、纏う空気がわずかに鋭くなった気がした。
「自信はあるか」
試すような問いだった。
僕は迷わず頷き、真っ直ぐに父を見据えて答えた。
「はい。僕はやるべきことをやってきました。積み上げた時間は裏切らないと信じています」
「……慢心ではないな?」
「確信です。父上や母上、そして先生方の教えは、僕の中に確かに根付いていますから」
少しの沈黙。
執務室の時計の針が進む音だけが妙に大きく聞こえた。
「……そうか」
父は短くそう言い、再びペンを手に取った。
「下がっていい」
会話はそれで終わった。
肯定も否定もない。
けれど、退出間際に背中に投げかけられた言葉が、僕の足を止めさせた。
「ノエルが、お前の真似ばかりしているぞ」
振り返ると、父は書類に視線を落としたままだった。
「……剣の振り方だけでなく、本の読み方から、歩く姿勢までな。……よく見られていると自覚しろ」
「――はい」
僕は深く一礼して、部屋を出た。
廊下に出ると、心臓が早鐘を打っているのがわかった。
(よく見られていると自覚しろ)
その言葉の真意を、僕は必死に探ろうとした。
もし僕が手本として不適格なら、教育に厳しい父上は即座に止めさせているはずだ。
それをあえて黙認し、そしてわざわざ伝えてきたのは、僕の行動が「模倣に値する」と判断されたからに他ならない。
僕が積み上げてきた「正しさ」が、弟への教育として機能している。
そう、信じてもいいはずだ。
部屋に戻り、ふと部屋の隅にある剣立てに目をやった。
僕の木剣の隣に、ノエルの小さな木剣が、定規で測ったように真っ直ぐ立てかけられている。
見れば、柄の向きまで僕のものと完全に揃えてある。
父上の言葉を思い出す。
彼は僕の背中を見て、剣の腕だけでなく、こうした細かな所作まで真似ようとしているのだ。
兄として、見本であり続けること。
それは重責であり、同時に僕を支える芯でもあった。
ノエルが僕の背中を見ている限り、僕は立ち止まるわけにはいかない。
この先に待つ「測定」の結果は、きっと僕の努力を証明してくれるはずだ。
十歳の誕生日は、もう目の前に迫っていた。
僕は窓の外を見上げた。
冬の夜空には、凍てつくような星々が輝いている。
よし、と僕は星空に向かって小さく頷く。
早く結果が知りたい。
そして、胸を張ってノエルに伝えたい。「兄上はすごいだろう」と。
積み上げてきたものが形になる瞬間が、今はただ待ち遠しかった。
白い息と共に吐き出した言葉は、希望となって夜空へと吸い込まれていった。




