5話 弟の誕生
庭の木々から鮮やかな緑が失われ、代わりに冷ややかな風が屋敷の石壁を叩くようになった。
冬の足音が近づくにつれて、屋敷全体の空気もまた、少しずつ、けれど確実に変わり始めていた。
いつも通りの静寂は保たれている。
けれど、その静けさの質が違う。
例えるなら、嵐が来る前の海のような、重く張り詰めた緊張感が廊下の隅々まで満ちている。
理由は単純だ。
母上のお腹が、日増しに大きくなっているからだ。
第二子の懐妊。
それは侯爵家にとって、単なる慶事以上の意味を持っている。
後継者のスペア。つまり、現行の後継者(僕のことだ)に万一のことがあった場合の保険。
口に出す者は誰もいないが、それがこの家における「次男」の隠された意味だ。
リスクヘッジ。
家を存続させるための、冷徹なまでの生存戦略。
母上は、身重になってもその完璧さを崩さなかった。
大きくなったお腹を上質なドレスで包み、背筋を伸ばして歩く。
悪阻で顔色が悪い時もあったはずだ。けれど、彼女は決してそれを表には出さなかった。
「気分が悪い」とか「辛い」といった弱音を、僕は一度も聞いたことがない。
食堂で向かい合う時も、彼女は完璧な侯爵夫人であり続けた。
ただ、食事の量がわずかに減り、食後にハーブティーを飲む回数が増えただけだ。
その徹底した自己管理は、見ていて痛々しいほどだった。
(無理しないでほしいな)
そう思うのは、僕の中にまだ残る前世の庶民感覚なのだろう。
この家の人間にとって、体調不良ごときで規律を乱すことは、恥ずべきことなのだから。
ある日の午後、図書室で勉強をしていると、ロバート先生がふと手を止めた。
「……ウィルフレッド様。少し、よろしいですか」
「はい、何でしょう」
「もうすぐ、弟君か妹君がお生まれになります」
「そうですね」
「貴族にとって、兄弟とは複雑なものです」
老教師は眼鏡の奥の瞳を細め、言い聞かせるように語った。
「助け合う手足となるか、あるいは相争う敵となるか。……歴史を見れば、後者の方が多いのが現実です」
「先生は、僕たちが争うとお考えですか?」
「いいえ。ですが、ウィルフレッド様がどれほど優秀でも、比較への視線は避けられません。周囲の目、親戚の声、そして何より……ご両親の評価」
彼は言葉を濁したが、言いたいことは痛いほどわかった。
もし、生まれてくる弟が、僕よりも優秀だったら?
僕よりも魔力が多く、剣の才能があり、貴族として相応しい器を持っていたら?
その時、この家における僕の居場所はどうなるのだろう。
「大丈夫です、先生」
僕は努めて明るく答えた。
「僕は長男としての責務を果たすだけです。弟ができたら、兄として恥ずかしくない背中を見せますよ」
「……左様でございますか。杞憂でしたな」
ロバート先生は安心したように微笑んだ。僕はその笑顔に返しながら、密かに気を引き締めた。言葉にするのは簡単だ。だが、それを実現するためには、これまで以上の研鑽が必要になるだろう。
そして、その日は唐突にやってきた。
真夜中だった。
廊下を走る慌ただしい足音で目が覚めた。
普段は足音一つ立てないメイドたちが、なりふり構わず走っている。
「お湯を! もっとたくさん!」
「治癒術師様はまだか!」
怒号に近い指示が飛び交っている。
僕はベッドから飛び起き、ドアを少しだけ開けて廊下を覗いた。
母上の寝室の前に、父上が立っている。
腕組みをして、壁に寄りかかり、閉ざされた扉をじっと見つめている。
その表情は、いつものように鉄仮面だった。
焦りも見えない。不安も見えない。
腕を組み、微動だにせず、ただ扉を見据えている。
何を考えているのか。無事を祈っているのか、世継ぎの心配をしているのか。
その背中からは、何の感情も読み取れなかった。
僕は声をかけるのをやめて、そっとドアを閉めた。
時間は永遠のように長く感じられた。
部屋の中をうろうろと歩き回り、時計の針を何度も確認する。
一時間、二時間。
夜明けが近づき、空が白み始めた頃。
オギャア、オギャア、と。
高く、力強い泣き声が屋敷に響き渡った。
その瞬間、屋敷中の空気が変わったのがわかった。
張り詰めていた糸が切れ、安堵と祝福の気配が波紋のように広がっていく。
僕は深く息を吐き、へなへなとベッドに座り込んだ。
生まれた。
無事だった。
ああ、よかった。
「後継者争い」とか「スペア」とか、そんな小難しい思考よりも先に、母上の無事と新しい命への祝福が湧き上がってきた。
なんと言っても、僕の弟なのだから。
翌日の昼。
僕は父上に連れられて、母上の寝室を訪れた。
部屋の中は、血の匂いは完全に消され、代わりに高貴な花の香りが漂っている。
母上はベッドに体を起こしていた。
顔色は少し青白かったが、髪の乱れはなく、すでに「侯爵夫人」の仮面を被っている。
その腕の中には、真っ白な布に包まれた小さな塊がある。
「ウィルフレッド。近くで見なさい」
母上に促され、僕は恐る恐るベッドに近づく。
覗き込む。
そこにいたのは、猿のようにくしゃくしゃな顔をした赤ん坊だった。
まだ目は開いていない。小さな口をパクパクと動かし、何かを探している。
「男の子だ」
父上が短く言った。
「名は『ノエル』とする」
「ノエル……」
僕はその名前を口の中で転がした。悪くない響きだ。
「ウィルフレッド」
母上が僕を見た。
「あなたの弟よ。……そして、いずれあなたの支えとなるべき存在です」
「はい、母上」
「仲良くしなさい。けれど、忘れてはいけません。あなたが兄であり、彼を導く立場にあるのです」
釘を刺すような言葉だった。
馴れ合うな。甘やかすな。
兄として、長男として、常に前を歩け。
産後すぐのベッドの上でさえ、彼女は母であることより、教育者であることを選んでいる。
僕はノエルの頬に、そっと指先で触れた。
温かかった。
柔らかくて、壊れてしまいそうなほど儚い。
この子が、僕の敵になるかもしれない存在?
想像がつかなかった。
前世で一人っ子だった僕にとって、兄弟という感覚は新鮮で、そしてどうしようもなく愛おしいものに思えた。
指先を握られた。
驚くほど強い力だった。
反射だということはわかっている。けれど、その小さな手が僕の指を確かに捉え、ここに生きていることを主張しているようだった。
「よろしく、ノエル」
僕は小さく囁いた。
父上も母上も、何も言わずにそれを見ていた。
彼らが何を考えているのかはわからない。
この光景を「兄弟の絆」として見ているのか、それとも「侯爵家の未来」として評価しているのか。
その瞳の奥にある感情は、やはり僕には読み取れなかった。
部屋を出ると、いつもの日常が待っていた。
エマが次のスケジュールの確認に来る。
ロバート先生が図書室で待っている。
ダンスのレッスンがある。
だけど、世界は何も変わっていないようで、決定的に変わってしまった。
僕は廊下を歩きながら、拳を強く握りしめた。
負けられない。
ノエルが成長し、もし僕を脅かすほどの才能を見せたとしても――。
兄として恥ずかしくない背中を見せ続けなければならない。
それが、僕がこの家で生き残るための条件であり、同時にノエルを守るための力にもなるはずだから。
「さあ、行こう」
僕は誰に言うでもなく呟き、一歩を踏み出した。
足取りは重いが、迷いはなかった。
守るべきものが増えるというのは、悪くない重圧だ。
そう自分に言い聞かせて、僕は図書室の扉を開けた。




