4話 剣術
練兵場の土を踏みしめる足音が、規則正しく響く。
僕は五歳になったその日から、剣術の訓練を始めていた。
この世界には、一つの定説がある。
『魔力の器が定着するのは十歳』
それ以前の未熟な肉体に過剰な魔力を流せば、器である身体そのものが崩壊する危険があるという。
ゆえに、器が固まるまでは、器そのものである肉体を鍛える。
これが、この世界における教育の常識だった。
だから今の僕にできることは、十歳までひたすらに「型」を作ることだけだ。
魔力を、そして剣技を受け止めるための、これ以上なく頑丈な土台。
それを今のうちに築き上げておかなければならない。
訓練の相手は、レーベンシュタイン家の騎士たちが交代で務めてくれていた。
彼らは手加減なしの「基礎」を叩き込んでくれる。
足運び、呼吸法、剣の握り方。
そして、来る日も来る日も素振り。
地味な反復練習の日々。
戦場で最後に物を言うのは、才能ではない。
恐怖で頭が真っ白になっても、勝手に身体が動くほどの「染み付いた癖」だけが、死の淵で命を拾うのだと。
魔の森という死地を生き抜いてきた彼らの言葉は、重かった。
だから僕は、その教えを信じた。
いつか来るかもしれない死の瞬間に、身体が裏切らないように。
ただひたすらに、教えられた動作を繰り返した。
そんなある日のことだ。
その日の担当騎士と、初めて実戦形式での訓練を行うことになった。
僕は練兵場の中央に立ち、木剣を正眼に構えた。
対峙する騎士もまた、ゆっくりと剣を構える。
ただそれだけの動作なのに、空気が張り詰めるのがわかった。
素振りとは全く違う。
目の前に「敵」がいるという事実が、心臓を早鐘のように叩いていた。
喉が渇く。指先が微かに震えそうになるのを、柄を強く握りしめることで抑え込む。
「行きます!」
掛け声とともに踏み込む。
相手が剣を構える。威圧感がある。
けれど、僕は目を逸らさなかった。
毎日何千回と繰り返した足運び。
教わった通りの呼吸。
余計なことは考えず、ただ無心に剣を振り下ろした。
バチィッ!
乾いた音が響く。
僕が振り下ろした木剣は、騎士の剣によって簡単に受け止められていた。
騎士が剣を戻し、再び構えを取る。
当然の結果だ。未熟な子供の剣が、本職の騎士に通じるはずもない。
僕はすぐに構え直し、次の機会を窺おうとした。
その時だった。
「……そこまで」
不意に、重厚な声が響いた。
振り返ると、回廊の陰に一人の男が立っていた。
騎士団長、ライオネル。
「鉄壁」の異名を持つ、レーベンシュタイン家最強の武人だ。
普段は領内の治安維持や魔の森の警備で忙しく、屋敷にいることは稀だ。
担当騎士が慌てて姿勢を正し、敬礼する。
ライオネルは片手を挙げてそれを制すと、ゆっくりと僕の方へ歩み寄ってきた。
その瞳が、じっと僕を見据えている。
鋭い眼光。
彼は僕の目の前まで来ると、静かに僕の顔を覗き込んだ。
「ウィルフレッド様」
「はい」
「手を見せていただきたい」
「手、ですか?」
言われるままに、僕は両手を差し出した。
彼は僕の小さな掌を、ごつごつとした指先で触れた。
そこには、毎日の素振りでできたマメが固まり、小さなタコになっていた。
ライオネルは、その手をじっと見つめていた。
数秒の沈黙の後、彼は小さく頷いた。
「なるほど、なるほど……」
納得したように、噛みしめるように、二度繰り返した。
そして彼は顔を上げ、僕に真っ直ぐな視線を向けた。
「明日からは、毎日私が指導します」
宣言だった。
疑問を挟む余地のない、決定事項としての言葉。
「えっ?」
僕は驚いて目を丸くした。
「団長がですか? でも、お忙しいのでは……」
「時間は作ります」
彼が言ったのはそれだけだった。
理由は語らなかった。
「よろしく頼みます」
「あ、はい……よろしくお願いします!」
僕は慌てて頭を下げた。
なぜ突然、騎士団のトップが僕なんかの指導役を買って出たのか、理由はさっぱりわからなかった。
ただ、一番強い人に教えてもらえるなら、それはラッキーなことだ。
もっと強くなれる。もっと効率よく上達できる。
そう単純に考えていた。
だが、翌日から始まった「特訓」は、これまでとは質の違う重圧との戦いだった。
彼自身が放つ剣圧と、そこで求められる精度の桁が違うのだ。
ただの素振り一つでも、彼が横で見ているだけで、空気が鉛のように重くなる。
大樹に見下ろされているような圧迫感の中で、僕は必死に剣を振り続けた。
(これが、最強の騎士の空気……!)
少しでも気を抜けば押し潰されそうだ。
けれど、僕は必死に食らいついた。
掌の皮が剥け、腕が上がらなくなるまで、ただ彼の無言の要求に応えようと剣を振り続けた。
ライオネルは多くを語らない。
ただ、僕が意識を失う寸前まで、ひたすらに剣を振らせ続けた。
座学に礼儀作法、そしてこの剣の訓練。
僕の幼少期は、息つく暇もないほどの学習と鍛錬の日々として過ぎていった。
中でも、ライオネルとの訓練は過酷を極めたけれど。
僕はひたすらに、剣を振るうという行為を身体に刻み込んでいった。
肉体も、知識も。
全てが、驚くほどの速度で僕の血肉となっていく。
生まれ変わったこの身体が優秀なおかげだろうか。
もしそうだとしたら、それはレーベンシュタイン家の血統ゆえかもしれない。
まるで乾いた海綿が水を吸うように、やった分だけ結果が出る。
昨日の限界が、今日は通過点になる。
この圧倒的な「成長の実感」こそが、僕を突き動かす原動力だった。
楽しい。
ただ単純に、前へ進めているという事実が、何よりも嬉しかった。
その時の僕は、まだ知らなかったのだ。
自分を信じている「積み重ね」が、ある日突然、無慈悲な事実によって否定される日が来ることを。
数ヶ月後、屋敷が慌ただしくなり、僕には弟ができる。
守るべき小さな命。
その誕生は、僕の物語を大きく加速させる。
そして僕は初めて知ることになるのだ。この世界には、「真面目にやり続けること」だけでは、どうにもならないことがあるということを。




