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11話 ウィルフレッド


僕は父上の執務室を訪ねた。

重厚な扉をノックする。

「入れ」

短く、低い声が響く。

僕は深呼吸を一つして、扉を開けた。


執務机の奥で、父上が書類にペンを走らせている。

その傍ら、窓辺には母上が立っている。

彼女は僕の方を見ず、ただ彫像のように外の景色を眺めている。

僕は二人に深く一礼し、机の前に立った。


父上は顔を上げることもなく、淡々と僕に問いかけた。

「用件は」


父上のペンが走る音だけが、部屋に響いている。

僕は迷うことなく、用意していた言葉を口にした。


「私を早期に廃嫡し、追放してください」


ピタリ、とペンの音が止まった。

父上がゆっくりと顔を上げる。

その瞳に、驚きの色はなかった。ただ、静かな湖面のような瞳が、僕を射抜くように見つめている。

「理由は」などと、野暮なことは聞かれない。

父上ほどの人が、現状を理解していないはずがないのだ。


本来なら、もっと早く僕を呼び出し、廃嫡と追放を言い渡すべきだったはずだ。

合理の塊である父上ならば、それがレーベンシュタイン家にとっての『最適解』だと、誰よりも理解しているはずなのだから。

しかし、父上は今日まで沈黙を守り続けていた。

結果は決まっている。

ただ、少しでも先延ばしにしてくれていたのだ。

本来なら一刻も早く決断を下すべき多忙な身でありながら、その時が来るギリギリまで、僕をこの家に留め置いてくれていた。


……ならば。

その想いに報いるのが、息子としての最後の務めだ。


「……釈迦に説法とは存じますが、あえて口にさせていただきます」

僕は一拍置き、静かに言葉を継いだ。

「私がこの家に居座ることは、レーベンシュタイン家にとって百害あって一利なし。『毒』でしかないはずです」


それは、誰もがわかっていながら口にできなかった真実だ。

最大の問題は、レーベンシュタイン家の『鉄の掟』――次期当主は15歳までに『初陣』を飾り、魔の森で魔獣を討ち取って強さを証明せねばならないという儀式にある。

これは単なる伝統ではない。常に死と隣り合わせの領民に対し、『次代の守護者もまた強者である』と示し、安心させるための合理的な統治システムだ。

だが、魔力なき僕にそれは不可能だ。

それどころか、実力がないとわかっていながら戦場に立つこと自体が、命を懸ける騎士たちへの冒涜であり、裏切りだ。

初陣の場で僕の『無能』が露呈した時、家は『臣の命を軽んじ、不適格者を指揮官に据えた』として糾弾されるだろう。

それは単なる恥では済まない。レーベンシュタイン家の統治者としての資格そのものが失われる事態だ。


もし『初陣』を言い訳して延期し、僕を隠し続けたとした場合。その間に、王家から縁談を持ち込まれたらどうするか。侯爵家の権力は絶大であるが、この可能性は低くない。

貴族、とりわけ王家の婚姻は『強大な魔力』を前提とした契約。魔力ゼロの事実を隠して縁談を受けることは、王家に欠陥品を売りつけるに等しい。

それが露呈した時、我が家は王家からの信頼を完全に失う。『侯爵家は王室すらも欺くのか』と見なされれば、今後二度と重用されることはないだろう。名門レーベンシュタイン家にとって、その名誉と信用の失墜は、物理的な死以上に重い『社会的な死』を意味する。


しかし、一介の子供である今なら『能力不足による廃嫡』と公表して切り捨てることができる。

それは恥ではない。むしろ『身内であっても無能ならば容赦なく切り捨てる』という、レーベンシュタイン家の厳格な実力主義を世に示す好機ですらある。

致命的なスキャンダルになる前に、堂々と『損切り』をするのが最も合理的だ。


つまり、早期に廃嫡することこそ、いま最も必要なことである。

そして、長男を廃嫡し、家に残すことは合理的ではない。なぜなら次なる火種を生むからだ。


僕が屋敷にいる限り、現体制に不満を持つ家臣は必ず僕を旗印にする。『署名は強要されたものだ』『真の当主は長男だ』と難癖をつけて。

僕の意志など関係ない。そこに『使える神輿』があること自体が、内紛の火種なのだ。これを断つには、物理的に僕がこの地から消える以外にない。


これら積み重なる多大なリスクに対し、魔力ゼロの僕が家に残るメリットは皆無だ。


「……不純物である私を早期に切り捨て、次期当主の体制を盤石にすることこそが、レーベンシュタイン家の未来を守る唯一にして最も合理的な解です」


父上は再びペンを置き、組んだ両手の上に顎を乗せた。

その視線が、僕の魂の在り処を探るように鋭さを増す。

長い沈黙だった。

執務室の空気が鉛のように重く張り詰める。

父が何を考えているのか、その表情からは一切読み取れない。

ただ、その瞳の奥には、僕がこれまで見たことのない、深く静かな光が宿っている。

肯定とも、否定とも取れない絶対的な静寂。


父は何も聞かなかった。

行く当ても、これからの生活も、廃嫡された人間に掛ける言葉などないと、言わんばかりに。

ただ、書き上げた書類を封筒に収めると、机の引き出しから革袋を取り出し、無造作に放った。


ゴトリ、と重い音が響く。


革袋が、机の上に鎮座している。

窓から差し込む光が、その輪郭を淡く照らしている。

部屋を満たすのは、変わらぬ静寂だけだ。

「…ありがとうございます」


僕は深く頭を下げ、革袋を受け取った。

ずしりとした金貨の重み。

これが、僕に残された最後のライフラインだ。


母上は、終始一言も発さず、窓辺に立ち尽くしている。

視線は合わない。表情も読み取れない。

ただ、窓の外を見つめ続けるその背中が、どこか小さく見えた。


踵を返し、扉に手をかける。

これで、全て終わる。

そう思った時、背後から父上の声が響いた。


「ウィルフレッド」

呼び止められ、僕は振り返った。

父上の瞳は、どこまでも冷たく、そして深かった。


「貴様は、レーベンシュタイン家の末代までの恥だ」

鋭利な刃のような言葉。

だが、続く言葉に、僕は息を呑んだ。

「しかし、その罪は我にある。……貴様は十年間、次期当主としての役割を全うした」


「っ……」

「行け。精々、足掻くがいい」


それきり、父上は書類に視線を戻した。

突き放すような物言い。

だが、今の僕にはそれだけで十分だった。

『恥』とは、魔力なき身で生まれた事実。『罪』とは、持たざる者を産んでしまった悔恨。

そして、『役割を全うした』という一言。

それは、僕がこの家で過ごした十年間が決して無駄ではなかったのだと、そう告げてくれている気がした。

領民と国の命を背負う守護者として、弱みを見せることなど許されない親からの、精一杯のはなむけ


僕は無言で深く一礼し、踵を返した。



翌朝、空が白み始めた頃。

僕は誰にも見送られることなく、裏口から屋敷を出た。

早朝の冷気が肌を刺す。

振り返ると、巨大な侯爵家の屋敷が、朝霧の中にそびえ立っている。

石造りの堅牢な城塞。

十年間、過ごした場所。

守られ、育てられ、そして挫折した場所。

そして何より、僕の大事な家族が住む場所。


「行ってきます」

僕は小さく、けれど力強く呟き、前を向いた。


これは「諦め」ではない。

今のままでは、僕は一生「出来損ない」のままだ。だからこそ、一度全てを捨て、外の世界で新たな「力」を手に入れる。


(前代未聞だと、外の人間は笑うだろうな)

だが、レーベンシュタインの人間なら知っている。

かつてこの家が滅亡の危機に瀕した時、追放された身でありながら舞い戻り、圧倒的な魔法の力で家を救った「中興の祖」の存在を。

その時示された力こそが、今のレーベンシュタイン家の絶対的な流儀となっている。

実力さえあれば、過去など関係ない。その教えがある限り、道は閉ざされていない。

歴史は繰り返す。いま僕が繰り返させてみせる。


そして、幼い弟へ。

この過酷な家の責務を、暫くの間、お前一人に背負わせることになる。

だが、いずれ必ず。

その重荷を分かつに足る『力』を手にして、僕は戻ってくる。


一度は捨てたその名を、この手で再び掴み取るその日まで。

これは、僕が「最強の当主」に返り咲くための、長い旅の始まりだ。


僕は歩き出した。

朝日はまだ昇りきっていない。

僕の本当の人生は、ここから始まるのだ。





――後に、大陸全土にその名を轟かせることとなる『英雄』ウィルフレッド。

彼の波乱に満ちた生涯において、最も決定的な転機はいつかと問われれば、多くの歴史家は、この『喪失』の瞬間を挙げるだろう。

『持たざる者』として家を追われた少年は、しかし、何も失ってはいなかった。

むしろ、既存の価値観という檻から解き放たれた獅子は、この時、真の意味で牙を研ぎ始めたのである。


(『大陸英雄列伝』序文より抜粋)


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