生血
夕方頃アパートに帰ると、玄関扉を開けたのと同時にハユリさんが飛びついてきた。
「わぁっ」
「恩人さんっ! 恩人さんから血の匂いがしますっ! 何があったんですか……?」
「鼻利くなぁ……」
ハユリさんを引き剥がし、部屋に入る。
「いやぁ、帰りに結構ド派手に転んじゃってさ」
恥ずかしながら、何もない場所で躓いて転んでしまったのだ。しかもそれがアスファルトの上だったものだから、ぶつけた場所がかなり削れてしまった。袖を捲ると、右前腕におろし金にでも掛けたのかってくらいの傷が広々とついていた。幸いにも傷口は浅かったので、既に出血は止まっている。
「い、痛そうですね……?」
「もう平気だよ、血は止まってるし」
いや実際まだ痛いけど。
「あ、お、恩人さん……大丈夫なんですか……?」
ハユリさんの手が、俺の右腕に触れる。彼女の細い指が、カサブタになりかけの傷の上をざらざらと滑る。痒いようなくすぐったいような、不思議な感覚だ。
「ハユリさん……大丈夫だから、あんま擦らないで……」
「うあっ、ごめんなさい……あのっ」
ハユリさんがこちらを見上げてくる。手は俺の腕に置いたままだ。
「あの、な、なめたら治りますか……?」
「治らないんじゃねえかなぁ」
「そ、そうですか、ね……?」
そう言いながらも、ハユリさんはこちらに目を向けたまま俺の腕に顔を近づけてくる。
「だから、舐める必要は無いからな? そりゃたしかに『唾つけとけば治る』ってよくいうけどさぁ」
「はいっ、ですから……」
「だから良いって。ほら口拭いて」
涎を垂らしながら俺の腕と顔を交互に見るハユリさんにティッシュを1枚差し出すと、彼女はハッとしてティッシュを受け取り、俺から離れてしまった。
「ご、ごめんなさいっ!」
今のハユリさん、だいぶ様子がおかしかったな。まさか俺、食われそうになってた?
「…………いやまさかな」
「恩人さん? どうかしましたか?」
「いや何でもない」
血に反応して食おうとするとか、野生の獣じゃあるまいし……。
「……いやそうでも無えな?」
「恩人さん?」
「ごめん何でもない」
よく考えたらハユリさん、野生の獣……っつーか野生のクモだもんな。別にハユリさんが恐ろしいとは思わないけど……。
「…………いや待てよ?」
「恩人さん、何考えてるんですか?」
「ハユリさんのこと」
「はぇ…………はぇっ⁉」
ハユリさんが変な声をあげたので顔を上げると、彼女は顔を真っ赤にして目を泳がせていた。
「どうしたハユリさん」
「いっ、いえっ、何でもありませんっ! わっ、わた、わたしっ、虫やっつけに行きますね!」
ハユリさんはそそくさと廊下の方へ行ってしまった。まぁ放置しておいても大丈夫だろう。
考え事を再開する。そういえばハユリさんには、巨大な蜘蛛脚を生やす能力があった。あれは凶器になり得るんじゃないか? どれだけのパワーがあるかは分からないけど、触った感じではそれなりに硬かった記憶がある。
「あとは……”歯”だよなぁ……」
一応”爪”もか。人体じゃ数少ない『硬い部位』。いくら幼女の身体とはいえ、引っかかれたり噛み付かれたりしたら、流石に痛いよな?
「…………いや、駄目だな……」
『ハユリさんは人間ではない』。この前提があるせいか、どうしても『ハユリさんが危ないものである』って方向で考えてしまう。別に悪いことじゃないとは思う。けどこれまで見てきた限り、ハユリさんは間違いなく『善人』だったはずだ。
彼女がそうあろうと振舞ってくれているなら、俺の方も『彼女が善人である』と考えるのが礼儀だろう。
「ハユリさーん?」
廊下に向けて呼びかけると、彼女が顔だけ出してくる。
「恩人さん? どうかしましたか?」
「んー……いや、別に……」
よく考えたら、俺がずっと頭の中で考えてただけで、ハユリさんは何も知らないんだよな。こんな状況でいきなり謝罪しても、ハユリさんからは意味が分からないだろう。適当に誤魔化すか。
「……改めてハユリさんは善人だよなー……と」
「はぇっ⁉ あっ、ありがとうございます……?」




