美食
大学から帰ると、玄関入ってすぐのところにハユリさんが立っていた。
「ただいま、ハユリさん」
「お、おかっ、おかえりなさいっ」
ハユリさん、緊張してる? 今日は甘えたいって言ってたけど、それでこんなに緊張するか? いつもやってることじゃないか。
とりあえず手を洗い、部屋に入って鞄を片付ける。
「ほらおいで、ハユリさん」
「は、はいっ」
ベッドに腰掛けてハユリさんに手招きすると、彼女は躊躇いがちにこちらに近付き、膝の上に乗ってきた。
「そっ、それじゃぁっ、お、恩人さんっ」
「どうしたハユリさん。別に逃げないから」
「い、いただきますっ」
「……ん?」
言葉の意味を理解するより早く、ハユリさんが俺の首筋に噛み付いてきた。
「……あの、ハユリさん?」
「もむっ……あむっ……もぐ…………」
咄嗟に窓の方を見る。当然ながらまだまだ日は高い。ハユリさんが食人に目覚めるには早い気がするが……。
「ハユリさん、これは一体どういう……?」
「恩人さんっ……やっぱり、おいしいですっ……わたし、まだっ、夜じゃない、のに…………っ」
「……そっかぁ……」
夜の食人衝動とは別に、素の状態でも俺は『美味しい』のか。新発見だな。
「ハユリさんは、昼間でも俺を食べたくなるの?」
「えと……その……今、恩人さんのこと食べたいって気持ちはあんまり強くないんですけど……口を付けると頭がピリピリして……『おいしい』で頭がいっぱいになって……」
ハユリさんは答えながら、おそらく無意識に顔を近づけてくる。だいぶ食欲に支配されてるな? 指を近づけると、迷わず口に含んでもぐもぐし始めた。
「すげえ食いつき方するじゃん」
「んむっんむっ、ちゅろ……」
「ハユリさーん、こそばゆいー」
ハユリさんは俺の声なんか聞こえていなさそうに、夢中で指にしゃぶりついていた。彼女の舌が絡みついてきて、とてもくすぐったい。
「…………ハユリさーん?」
「もむっ……んぇっ?」
「ようやくこっち向いてくれた」
ハユリさんは感情の読めない顔でゆっくりと俺の指を解放し――いきなり蜘蛛脚を展開して俺を抱え込んできた。
「は? ハユリさん?」
「おっ、おんじんさんっ、わたし、甘えてもいいんですよね?」
「良いけどさぁ……いや涎すげえな」
俺に覆い被さったハユリさんの口からは止め処なく唾液があふれ出しており、既に相当量が俺の顔を濡らしている。
「じゃっ、じゃあっ! 恩人さんっ、たべっ、たべますっ」
「さっきから食いまくってるけどな」
ハユリさんの目が泳ぎまくっている。何を考えているのか分からなかったが、いきなり彼女の顔が迫ってきた。直後、鼻先に柔らかい感触がぶつかってくる。……鼻を食われてる? 初めての体験だなぁ……。
ハユリさんはすぐに口を離し顔を上げた。彼女の瞳は夜間そうなるみたいに赤く染まっている。
「も、もっと、恩人さん、を、味わいたいですっ」
「そっかぁ……ん?」
ハユリさんの手が伸びてきて、俺の口に指をねじ込んできた。
「こっ、ここっ、恩人さんっ、いちばん柔らかいんですよ、ねっ?」
「……待ってハユリさん? それは良くない」
いや既に絵面的にかなり良くない状態なんだけども。
ハユリさんが指先をばたつかせて、俺の舌を挟んで引っ張り出そうとしている。マズい、これじゃあまともに言葉を話せない。まぁ、既に説得に応じてくれない状態ではあるが。にしたって、せめて抗わせてほしい。
ハユリさんにアイコンタクトで踏み留まってくれるよう念を送っていると、視界外から細長い腕がゆっくりと伸びてきた。この細っこい腕は、ユイさんのものだ。ユイさんがハユリさんの頭頂部を指先でつつくと、ハユリさんが顔を上げた。ユイさんと目が合ったらしく、瞳の赤色がすごい勢いで元の琥珀色に戻っていく。
「………………ひひゃぁっ⁉」
ハユリさんは悲鳴を上げ、蜘蛛脚をしまって弾かれたように俺の上から身体を退かした。
「ユイさんありがとう……」
袖で顔を拭きながら態勢を立て直す。ハユリさんをつついたユイさんの方を見ると、ぼんやりした表情で首を傾げていた。
「ひゃ、ゆ、ユイちゃん⁉ なんで⁉」
「いや『なんで』も何も同じ部屋に住んでたら当然じゃねえかな」
思わず突っ込んでしまう。ユイさん本人の反応を見てみると、ユイさんは伸ばした腕を引っ込め、ゆっくりとハユリさんに近づきのしかかった。
「おねーさん、ユイにも構って?」
「えっ、え、あっはいっ、ごめんなさい……?」
ハユリさんはかなり動揺した様子ではあったものの、ユイさんを抱きしめて背中をさすり始めた。
まぁ兎にも角にも、ユイさんのおかげで助かった。ハユリさんも多分、今回は少し暴走してしまっただけだろうし、落ち着いたらゆっくり話し合おう。今は取り敢えず、ハユリさんの唾液でべとべとになった顔を洗いたい。




