蜘蛛
今日は午後の講義が急遽なくなったおかげで、1限の後すぐに帰れることになってしまった。他にすることも無いので、帰宅することに。
玄関を開けて真っ先に目に入ってきたのは、そこから続く廊下に張り巡らされた無数の蜘蛛の巣や糸束だった。ハユリさんが何か大捕物でもしたんだろうか。
「ただいまー、ハユリさーん?」
部屋の奥に声をかけると、蜘蛛の巣の向こうから軽やかな足音が近づいてきた。糸束の陰から顔を覗かせたハユリさんに手を振ると、彼女は軽い会釈で応えた。
「おかえりなさい、恩人さんっ」
「ハユリさん、随分派手にやったな? どんな虫と追いかけっこしてたんだ?」
ゴキブリだったりしたら怖いが、一応聞いてみる。
「ぅあ、ごめんなさい蜘蛛の巣だらけにしちゃって……」
「後で片付けてくれるんだろ? なら別に気にしないよ。それで?」
「えと、はい。これを捕まえたんです」
ハユリさんが、合掌よろしく重ねた両手をこちらに突き出してきた。
「捕まえた? 珍しいな、ハユリさんって捕まえた虫はすぐ食べちゃうのに」
俺が現場を見た回数はそこまで多くも無いけど、少ない前例を顧みる限りはそうだ。
「えっと、とりあえず、見てみますか?」
「うん、部屋に入ってからにしようか」
「はいっ」
ハユリさんと一緒に部屋に入り、テーブルの前に座る。ハユリさんが対面に腰を下ろし、合わせた掌をゆっくりと解いてみせた。
その中に入っていたのは、1匹のクモ。全体的に白っぽい、透明感のある身体。体長に対して極端に細長い脚。ハユリさんの種を調べる時に見たことがある。
「イエユウレイグモだ。部屋の中にいたのか?」
「はいっ。わたしと同じクモだったので、どうしようか迷ってしまって……」
「クモは益虫だからなぁ。悪い虫を食べてくれるんだ」
「わ、わたしも悪い虫食べますっ!」
「大丈夫、分かってるから。いつもありがとうね」
「んへへ……」
ハユリさんの手の上を、イエユウレイグモは緩慢な動作で動き回っている。
「…………えいっ」
「えっ」
動くクモを眺めていると思っていたら、ハユリさんは一瞬でそれを口の中に収めてしまった。
「食べちゃったの?」
「んむぅ……」
ハユリさんが少し目を泳がせた後に口を開くと、無傷のクモが抜け出し、彼女の頭の上まで這い上がった。良かった、咀嚼はしていなかったらしい。クモの全身はハユリさんの唾液にまみれて、蛍光灯の光をぬらぬらと反射している。
「恩人さん……やっぱり、わたしがクモ食べるの、嫌ですか?」
「嫌っつーか……まぁ、多少びっくりはしたけども……」
個人的に”クモ”って生き物は好きだ。それが食べられる、というより殺されるのは、たしかにモヤっとするが……。
「……まぁでも、食物連鎖なんてそんなもんだよなぁ」
「しょく……?」
「まぁ要するに、俺は気にしないよってことで」
「はぇ、そうですか……」
ハユリさんは頭上でじっとしていたイエユウレイグモを両手で捕まえると、しばらく見つめてから捕食しようと口を開いた。その時だった。
「ぴゃっ⁉」
ハユリさんが小さく悲鳴を上げ、クモを放り投げた。クモはふんわりとテーブルに着地し、輪を描くように動き回る。
「ハユリさん、どうした?」
「お、おおっ、恩人さんっ、い、今っ、動いてっ」
ハユリさんはかなり狼狽している。そりゃ生きてるんだからクモは動くだろうに、ハユリさんは何をこんなに慌ててるんだろうか。
ハユリさんをなだめつつ、テーブルの上のクモの様子を見ると、その姿は既に天板の上には無かった。もう逃げてしまったんだろうか。
「おっ、恩人さんっ! 後ろっ!」
「は?」
ハユリさんに言われて振り向こうとするより早く、背中に何か軽いものがのしかかってきた。
「……何?」
改めて振り返ると、そこには金髪幼女が立っていた。
「…………また?」
白いワンピースと、透けた素材のフード。それに異様に痩せた細い手足。きょとんとした無表情に、金色の瞳だけがこちらをまっすぐ見つめ返している。
……多分、さっきのイエユウレイグモなんだろうなぁ…………。




