月見
今日は帰りが少し遅くなってしまった。午後5時半過ぎ、既に暗くなってしまった頃合いにアパートの玄関扉を開けたとほぼ同時に、小さな黒い影が飛び掛かってきた。
「うわっ、ハユリさんか。びっくりした……ただいま」
「恩人さん、恩人さん、恩人さん…………」
ハユリさんは譫言のように俺を呼びながら、手足を絡めて俺の首に噛み付いてくる。『秋の日は釣瓶落とし』って言葉があるが、思った以上にハユリさんがこうなるのが早かったな。
「ハユリさんハユリさん」
「もむっ……んっ…………はぇ?」
ハユリさんの顔が僅かに上がる気配。しかし口は放してくれていない。まぁ無害なので構わず部屋の中に入っていく。
「今夜は”スーパームーン”なんだぜ。めちゃくちゃ月がデカく見える日」
「んー…………」
興味無さげだ。少し残念だけど、まぁ仕方がない。
「っつーわけで、お月見をします」
「……おつきみ?」
「そう。読んで字のごとく、月を見るんだよ」
「んー……」
ハユリさんに抱き着かれたまま、ベランダに出る。少し身を乗り出すと、通りの向こうの民家の屋根から顔を出すように、巨大な満月が見えた。いや、ただ出てきたばっかりだからデカく見えるだけなんだけど。
「ほら、あれだよハユリさん」
「んむぅ……おっきいんですか?」
「一応、スーパームーンは10時過ぎらしいんだけど……既に十分すぎるほど綺麗だよなぁ」
結構寒かったので、一度室内に退避。あと、ハユリさんに抱き着かれている状態で外に出るのは絵面的に何かマズい気がする。
一旦テーブルの前に座り、帰りがけに買ってきたものを広げる。
「ハユリさん、ちょっと口開けてくれる?」
「いやです、恩人さん食べてるところなんです」
「まぁまぁそう言わずに」
ハユリさんに人差し指を近づけると、彼女の意識が指の方に移った。そのまま口元に近づけると、上手いこと彼女は指先に食いついてくれた。そのままザリガニ釣りの要領でゆっくりと引き寄せ、顔を付き合わせる。ハユリさんはきょとんとしたまま俺の指を咀嚼しているが、やはり痛くない。
「ハユリさん、口開けてー」
「んーん」
ハユリさんの舌が動き、俺の指が少し彼女の口に吸い込まれた。構わず親指も口に突っ込み、二本の指を使い口を開かせる。
「んぁ……」
ハユリさんの弱々しい抵抗を無視して、口の中に買ってきたものを放り込む。
「むぐ……? 何か、やわらかいものです……ざらざらした甘いのが出てきます……」
「漉し餡だな。月見団子だよ、安くなってたから買ってきたの」
「…………こしゃん?」
「こしあん。どう、美味しい?」
「んー……甘いです」
「そっかぁ。もう一個食べる?」
「恩人さんの方がおいしいですよ?」
「まぁそう言わずに」
もう一つ差し出すと、ハユリさんは俺の手から団子を食べてくれた。
「美味しい?」
「甘いです」
頑なに『美味しい』とは言わないな?
「……ハユリさんにとって『美味しい』ものって何?」
「恩人さんですっ!」
ハユリさんはそう答えるのと同時に、また俺に飛び掛かってきた。咄嗟のことで支えきれずに押し倒される。すぐにハユリさんの出した蜘蛛糸が全身に絡みついてくる。これじゃあ動けないな……。
スマホの電源をつけ、時間を確認する。18時くらいか。
「……あん? ハユリさん、手足の自由は残してくれたんだ?」
あの夜は完全に身動きが取れなかったのに、今は胴体にぐるぐる巻きになってるだけだ。どうやらハユリさんと俺の身体を束ねるように糸が絡んでいるらしい。
「んへへ、はいっ。こうして恩人さんとわたしの身体を糸で結わえておけば、もう逃げられませんっ」
「動いたり歩いたりできんの助かる」
別に逃げる必要も逃げるつもりも無いが、ハユリさんがそうしたいのなら好きにさせよう。
もう少し月が昇ってくるまで待つため、暇潰しにノートパソコンを開き、ネットサーフィンをすることにした。




