正気
午前6時。スマートフォンのアラームで目を覚ました。アラームを切って気が付く。昨夜の蜘蛛糸が解かれている。
体を起こしてハユリさんを探したが、天井の蜘蛛の巣には貼り付いていない。目線を下げていくと、部屋の隅で膝を抱えて蹲っているハユリさんを見つけた。
「ハユリさん、おはよう」
返事が無い。よく見ると、彼女の肩は震えている。
「ハユリさん?」
近づいていくと、ハユリさんがぐすぐすとすすり泣く声が聞こえてきた。
「ハユリさん、どうした?」
至近距離で声をかけると、ハユリさんはびくりと肩を跳ねさせて顔を上げた。彼女の顔は涙と鼻水でべしょべしょになっている。
「あ……おんっ、お、恩人、さんっ…………わ、わたっ、わた、ごめ、ぐずっ……」
何か言おうとしているようだが、泣きべそで内容が分からない。
「あーあー落ち着け。落ち着けってハユリさん。ほら大丈夫だから」
背中をしばらくさすっていると、落ち着いてきたようで少しずつ彼女の震えも収まってきた。
「お、恩人さん……わた、わたし、昨日、あんなひどいことを…………恩人さっ、ごめんなさい……」
まだ泣き止んではいなかったが、だいぶ聞き取りやすくなってきた。
「昨日って……俺に食いついてきたことか? それなら気にしなくて良いよ、全然痛くなかったし」
「そんなっ、駄目です! わたし、恩人さんを傷つけようと……恩を返したかったのに、こんな、ひどいことをしようとして……我慢しなきゃいけないのに……恩人さんが、美味しそうに見えてっ……!」
縋り付いてくるハユリさんの背中をさすりながら慰めようと試みる。
「……ちなみに、今は俺のことどう見えてる?」
「はぇ……?」
「今は俺のこと、『美味しそう』に見える?」
「い、いえ! そんなことは無いですっ!」
「そっかぁ。じゃ、俺のことが美味しそうに見えるのは夜だけってことでオーケー?」
ハユリさんは小さく縮こまりながらぽつりと答える。
「はい…………」
「いつも夜になると隠れちゃうのも、それが原因?」
「はい……わたし、恩人さんを食べるの、いやで……こわくて……っ」
またぐずぐずと泣き始めたハユリさんの肩を抱き、安心させようと頭を撫でた。
「別に、俺は気にしないよ? 何も怪我してないし、誰にも迷惑かけてないんだから、好きにして良いと思うけど?」
「……本当、ですか……?」
まだ顔はぐしゃぐしゃだったけど、無事泣き止んでくれたようで何より。
「うん。俺、昼間は大学行ってて全然ハユリさんと一緒にいられないし。多少甘噛みされるくらいで済むならハユリさんと一緒にいたいかな」
「はぇ…………」
ハユリさんの動きが止まった。目だけが忙しなく泳いで、何か考え事でもしているようだ。その目の動きが落ち着き、次の瞬間、耳まで真っ赤に染めて縮こまってしまった。
「お、恩人さんっ⁉ あのっ、いっ、一緒にって、その、どういう……⁉」
「え、俺何か変なこと言った?」
「いっ、いいい言ってないですっ! あのっ、わたっ、ごめ、ごめんなさっ、ひゃぁぁぁぁ……!」
ハユリさんは変な声をあげながら天井の蜘蛛糸ハンモックに隠れてしまった。
取り敢えず、今回の問題は解決したらしい。心配事が無くなったところで、今日も大学に行かなきゃならない。ひとまず朝食にしよう。




