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水平線の埋もれた夜に

作者: 仄賀 万紘

 

 ラジーナ国、貿易港――。

 停泊中の船内一室。


「……へぇ」


 膝下のロングブーツをコツコツと鳴らしながら入ってきた女は集められた子どもたちをジロジロと不躾に眺めた。

 品定めするようでもあったが、どこか他人事のように興味がなさそうでもあった。


「これがどう金になるんだ?」


 どうやら女は儲けにしか興味がないらしい。


「さあな。俺らが気にすることじゃねぇことは確かだ」

「言われたとおり、オシゴトしてりゃあ金は貰える」

「……そうかい。それならアタシは文句ねぇや」


 女が浮かべた冷笑にそれを見た子どもが恐怖に震えた。

 悪事に手を染めることに何の躊躇いもない、暗い世界に生きる人間なのだと。

 そして、自分たちはその餌食になったのだと実感した。

 女だけでなく、今ここにいる大人全員が闇の住人だった。


 その中に頭ふたつ分小さい人影が紛れていた。

 子ども――少年だ。見たところ10歳前後。

 他の子どもたちとは異なり、捕らえられず大人たちにひとり交じっている。

 その顔に恐怖の色はなく、妙に大人びた様子で落ち着き払っていた。

 子どもたちはその少年を見ると、悲しみや悔しげな表情を浮かべた。


 ここにいる子どもたちをおびき寄せたのはその少年だった。


 少年を友人だと思っていた子どもたちはまだ短い人生で初めて裏切られた瞬間だった。

 子どもたちから様々な視線を浴びても、少年は冷たい瞳で一瞥しただけですぐに興味を失くしたように顔を背けた。

 その様子を見ていた女はそれまで退屈そうにしていたが、面白いものを見つけたと言わんばかりの笑みを浮かべると、少年に近寄り声をかけた。


「よお、小さなアニキ」

「……」


 少年は億劫そうに目線だけを上げて女を見た。

 睨んでいるとも取れる視線に女は一層笑みを深め、顎を持ち上げて少年を見下ろした。


「アンタ、すげぇんだってな。その年でカシラの気に入りだって聞いたぞ」

「……」


 少年はフイッと顔ごと視線を逸らした。

 それは気まずさなどではなく、鬱陶しさからだった。


「なあ、そんなツレなくすんなよ。アタシ、まだ入ったばっかだからショセイジュツ? 教えてくれよ」


 少年はゆっくりと溜め息を吐く。


「……簡単だ。使えれば上にいける。使えなければ処分されるだけだ」


 おそらくまだ声変わりしていないであろう声は、限界までトーンを落とされたせいで実際よりも低く感じられた。

 女は少年から返事があったことに一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに片頬を持ち上げた。


「いいねぇ……アタシ頭良くねぇから、そういうわかりやすいの好きだぜ」


 女が少年の薄い肩に腕を回そうとしたが、少年はスタスタと歩き出し空振りに終わる。

 小さな背中に「つれないねぇ~」と言ったが、何の反応も返ってこなかった。


 1時間ほど経った頃、女は大きな欠伸を隠そうともせずに伸びをした。


「ふぁ~あ……ねっみぃ。暇だし寝てきていいか?」


 返事を聞くことなく立ち上がると、頭の後ろで腕を組み、また豪快に欠伸をしながら船室を後にする。

 出る直前に女の耳にこんな会話が届いた。


「あれ? ラッドの奴どこ行ったんだ?」

「ラッドならさっきガキを便所に連れてったぞ」



 ◆  ◆  ◆



「何してんのさ」


 女は少女を連れた大柄な男が一室に入るところを呼び止めた。


「んあ? ああ、お前か。なに、ちょっと遊んでやるだけだ」

「遊ぶ?」


 女はオールバックにした髪をかきあげながら男に近づいた。


「どうせ大した扱いされねぇんだからよ、ここで俺が遊んだって変わんねぇさ」

「……」


 女は男のすぐ後ろに視線を落とした。

 女の目に映ったのは怯える少女の姿。

 何をされるかだなんてわかっていないのだろうが、“遊ぶ”というのが身に危険を及ぼす意味を持っていることは予感しているらしい。


「……そういうこと。邪魔して悪かったねぇ」


 女が腰に手を当てる。

 緩めのタンクトップにオーバーサイズのシャツを羽織っているため、それまで強調されることのなかった胸部が自然と突き出される。

 それを見た男の視線が不躾なものに変わり、女の身体をジロジロと見つめる。

 視線に気付いた女が男へ視線を向けると、目が合った男はいやらしい笑みを浮かべた。


「でも、どうせならガキよりも大人の方がいい」

「……へぇ?」


 男の興味は完全に少女から女へと移り変わっていた。

 目の前の女に夢中で少女がいることすら忘れていそうだ。


「それってどんな大人だ?」


 女は余裕の笑みを浮かべ、自分がされたのと同じように男をジロジロと見つめ返す。

 色を含んだ瞳に男の喉仏がゆっくりと上下した。

 その様子を見た女は小さく笑いながら、後ろ手に少女を追い払うような仕草をした。

 何度か繰り返したところでやっと気が付いた少女はそっとその場を抜け出した。

 荒い息をしながら前のめりで今にも女に覆いかぶさりそうな男に、女は尋ねる。


「なあ、ここは誰かに聞かれたりしねぇのか?」

「はっ、心配いらねぇよ。この部屋は壁が厚いんだ」


 男が扉を閉めに向かう。


「扉を閉めちまえばそうそう聞かれやしねぇさ」

「そうかい。それなら安心したよ」


 女は扉を閉める男の背後からスルリと身体に手を這わせながら前へ腕を伸ばす。

 男はニヤニヤと緩む口元を抑えられなかった。


「おいおい、随分と積極的だ、なっ……!?」


 男は肩に重みが圧しかかったと感じた次の瞬間には、女の腕に首を締め上げられ、抵抗できないように両腕は巻きついた脚に胴体ごと拘束されていた。


「――すまないが、私は主導権を握られるのが嫌いでな」


 まるで別人のような声音だったが、息も絶え絶えな男にその声は届かない。

 男は苦しそうに藻掻くがすぐに解けないと判断し、後ろへ体を倒して背にしがみついた女を床に叩きつけようとした。


 女は瞬時に拘束を解き、片手で男の首元を掴むとそこを起点に勢いをつけてぐるりと体を男の正面へと移動させた。

 その間に隠していたスプレー缶を取り出し、そのまま倒れる男の上に伸しかかった。

 倒れた勢いのまま体重を乗せて首を圧迫すると、男は女の腕を圧し折らんばかりに強く掴んで抵抗する。

 女の眉が僅かに動いた。


 男の顔が赤くなったところで女は首にかけた手から力を抜いた。

 同時に女の腕を掴む力も抜ける。

 女は男が酸素を求めて大きく息を吸うのに合わせ、その顔面にスプレーを吹きかけた。

 すぐに煙を吸わないように服で口元を覆い、距離を取る。

 男は噎せながらも体は自然に酸素を求めて呼吸を繰り返してしまう。

 すぐにボンヤリとした表情を浮かべ、意識を手放した。


「……馬鹿力め」


 シャツの袖を捲ると、女の腕は男に強く掴まれたせいで赤くなってしまっていた。

 女は手首や指を動かして腕に異常がないことを確認する。幸い骨に問題はなさそうだ。

 しかし、あの力の入れ具合から想定して痣になるだろうと女は思った。


――不格好な腕輪をプレゼントしてくれたものだ。


 女は手早く男を縛ると、そっと部屋の外へ出た。

 すると、部屋からそう離れていない場所に先程逃した少女が立ち尽くしていた。

 怯えた表情を浮かべて今にも泣き出しそうに両手を合わせて握り締めている。


「なんだ、まだいたのか」

「……あの」


 おずおずと女の顔と部屋を交互に見た少女はあの男のことを気にしているらしかった。


「ああ」


 女はすぐに少女が怯えている理由に気がついた。壁が厚いといえど、近くに居れば揉み合う音が聞こえていたのだろう。


「酒を飲みすぎたのか、ぐっすりオネンネしてるよ」


 後ろ手にそっと扉を閉め、そのまま背に腕を隠したまま上着の袖を下ろした。

 少女は安心したのか強張った表情を少し和らげた。


「……さあ、大事な人質だ。戻るぞ」


 女が少女の肩を抱いて歩くよう促す。

 少女は大人しく歩いていたが、女の顔を見上げて尋ねた。


「❝商品❞じゃなくて人質なの? 私たち売られていくんじゃないの?」

「……間違えただけだ。商品だ」

「……」

「商品に傷付けられたら困んだろ? それに……」

「?」

「テメェの魅力で女をつれねぇで、力で無理やり言うこと聞かせようって奴が1番きれぇなんだよ」

「……おねえさん、優しい人?」

「……」


 女は少女から向けられた微笑に一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに意地悪く笑った。


「さあな」



 ◆  ◆  ◆



「あ? ラッドはどうした? そのガキを連れてったろ」

「アイツなら子守押し付けてでっけぇイビキかいて寝てんぜ? おかげで眠気が吹っ飛んじまった」

「ハハッ! そうか、お前聞くの初めてか。アイツのいびきは部屋の外まで響き渡るから同室どころか3つ4つ隣の部屋でも聞こえてくるんだ。だからいつも壁の厚い倉庫で、寝さ……せて……」


 不自然に言葉が途切れたと思った瞬間、女に向かって手が伸びてきた。


「!」


 女は反射的に飛び退いて避ける。

 顎先を寸でのところで掠めた手は空を掴む。


「……んだよ、あっぶねーな」


 女は不機嫌そうに顔を歪めた。

 避けなければ首を一掴みされていただろう。

 男の顔からは笑みが消え、ギラついた眼がギョロリと女を見上げた。


「おい、見てこい」


 男は女から視線を逸らさないまま顎でしゃくる。

 ふたりの男が立ち上がり船室を出ていく。


「はぁ……」


 それを横目で追った女は諦めた様子で溜め息を吐いた。


「アイツが迫ってきたから返り討ちにしたんだよ。わりーかよ!」


 ガシガシと後頭部を掻く。


「……そいつ、ずっと探る目つきしてたから怪しいと思う」


 女が「小さなアニキ」と呼んだ少年のこの一言と、縛られた大柄な男が見つかったことで女は船から降ろされ、すぐ近くの倉庫に連れていかれた。


 倉庫の明かり窓からは夕焼けの色が差し込んでいる。

 女はそのスポットライトに照らされる位置に座らされた。


「それにしても急に静かになりやしたね」


 下っ端が頭を垂れる女を見て意外そうに言う。


「身動き取れなくなって怖じ気づいたんだろ」


 コンッココッコンコン


 後ろ手に手首を縛られ、椅子に胴体を括り付けられた女が貧乏揺すりをする音が響く。

 外からは「カンッカッカラカラ」と空き缶の転がる音が小さく聞こえてくる。


 女は押し黙ったまますぐに貧乏揺すりを止めた。

 打開策を練ったが良い策が思い浮かばなかったのだろうと取り囲む男たちは嘲った。


「で? お前はどこの派閥のスパイだよ? どうせそうなんだろ?」

「……」


 女は微動だにしない。


「キーニスの奴らか?」

「いや、ナトリーかもしれねぇ」

「イドリゴだろ」


 上がった名前はどこも悪名高い組織だ。


「おら、なんとか言えよ」


 ひとりの破落戸ごろつきがペチペチと女の頬を叩く。


「……いいぞ。耐久戦でもやるか? 私に弱みはないぞ。生憎痛みにも鈍感だ」


 一瞬誰が口を開いたのか、破落戸ごろつきたちにはわからなかった。


 囚われている女の口調はそれまでとは真逆のものだった。

 ゆらりと上げられた顔からは余裕綽々と浮かべていた不敵な笑みもすっかりと消え、無表情でどっしりと構えていた。


 破落戸ごろつきたちが「強がりだ」と嘲笑しかけたが、この先の展開を見透かしたような落ち着き払った女の様子に不安の色が浮かび始め、それはひとりふたりと伝染していく。

 誰が見ても敵地に単身で乗り込んだ女の方が圧倒的に劣勢であるというのに、その目は周囲を静かに見下していた。


 こういう時に捕らわれた者が浮かべるのは絶望や恐怖の色だ。

 しかし、女が浮かべているのは対極の色。

 あまりにも女の表情が場にそぐわないため、周囲は「はったりじゃないのでは……?」「マズい相手なんじゃないか?」と嫌な予感を抱いてしまう。


 優勢であるはずの側が強気に出られないという奇妙な状態が生まれてしまった。

 不遜な態度で、まるで女の方が悪役と言っても過言ではなかった。

 周囲は顔を見合わせ、互いの動向を窺う。


 また外から「カンッカッカラカラ」と空き缶の転がる音が聞こえてくる。


「……来るぞ」


 薄暗い中、弧を描く唇の赤がやけに鮮明に見えた瞬間――。


 バリバリバリッ!と爆竹でも弾けたような音が響いた。

 女の背後、頭上にある倉庫の明かり窓を丸い大きな物体がぶち抜いてきた。

 多くの者が「大砲でも撃ち込まれたか!?」と慌てたが、その物体が開く動きを見せた。


 丸い物体からふたつの長い棒が出てきて空をかくように前後に動く。

 それは伸びた足であり、物体の正体は人間だった。


 大小様々に砕かれたガラスはキラキラと飛び込んできた男を飾る。

 顔の前でクロスした腕を解いてその下から現れたのは悪役のような笑みを浮かべた男だった。


「アァズレェェン」


 砕けたガラスの雨が地面に当たり薬莢をばら撒いたかのような音を鳴らす中、女の地を這うような低音が響く。


「生け捕れよ」


 真上を見上げると、下げた音量でサラッと呟く。すれ違いざまに挨拶するような軽いテンションだった。


「保障はしねぇ」


 呼ばれた男――アズレンはギラついた眼を獲物から逸らさずに答えた。

 そこから形勢逆転するのはあっという間だった。というよりも男の一方的な蹂躙に近かった。

 まもなく一掃されそうかという頃に、女は遅れてやってきた仲間に縄を解かれた。


「見事なショーだったよ。一方的過ぎてつまらなかったが」


 女が死屍累々と化す人々の中で立つアズレンに声をかけると、彼は振り向いた。


「おー、無事だ……った、か……」


 女を見るなり、目を丸くして固まる。数秒後「ぶはっ!」と吹き出した。


「なんっだお前、それ!」


 今にも転げ回りそうなほど体を捻って「お前っ……本当に……あの、ヴィーナ……かよっ……?」と笑っている。


「……大変楽しそうなところ申し訳ないがまだ仕事は終わってないぞ」


 ヴィーナことヴィヴィアナは無表情のまま告げた。







 ◆  ◆  ◆







「はい、どうも、こんばんはぁ! 国家治安機関でぇーす!」


 アズレンは大きく開けた口で笑い、テンポよく殴っては相手の足を払い、蹴っては投げ、進んでいく。

 彼の後ろで控える部下たちが漏れがないように補助しつつ相手を捕縛していく。

 騒ぎを聞きつけた破落戸ごろつきがわらわらと船内から出てくる。

 アズレンに戦力を集中させるのが狙いで、そのかんにヴィヴィアナ率いる部隊が子どもたちの救出を行う手筈だ。


「おいっ! 出せ! 早くしろ!」


 船尾の方から怒号が聞こえる。

 それをアズレンの地獄耳が聞き逃さず、喉奥で笑った。


「おいおい、この状況で逃げれると思ってんのか?」


 船体から顔を出し、船の側面を3度叩くと、港の仲間に向かって叫ぶ。


やっこさん、船出すぞ!」

「是が非でも止めろ!」


 子どもたちを誘導していたヴィヴィアナが船内から顔を出す。


「ちっとばかし手荒でも構わねぇよな?」

「許可する!」

「っし! そこいらの借りれるモン、全部借りてこい!」

「はいっ!」


 船はモーター音を唸らせ、じわじわと進み始める。

 船に渡した板が引き摺られ、コンクリートの上をズリズリと音を立てて滑っていく。


「あと何人です?」

「これで最後だ」


 最後の子どもふたりを連れてヴィヴィアナは急ぎつつも慎重に降りていく。

 すでに降ろした子どもたちが固まる中で、キョロキョロとする少年がひとりいた。

 その少年はヴィヴィアナの「最後」という言葉を聞くと慌てた様子で船に向かって駆け出した。

 誰かが「あっ、君!」と静止の言葉をかけたが、渡し板を通って船に入っていってしまう。


「おい、どうした」

「子どもがひとり中へ……!」

「は? 私が行く」


 ヴィヴィアナが戻った頃には板がギリギリ船と岸に引っかかっている状態だった。

 大股で飛ぶように走り、船へと足を踏み入れるとすぐ渡し板は支えを失い海へと落下した。



 ◆  ◆  ◆



 甲板で交戦中のアズレンは船が動き出したことに気づくと舌打ちした。


――あまり 国 ナワバリから離れられるとめんどくせぇ。早く停めさせねぇと。


 陽は水平線に隠れるように沈んでしまい、残光は闇に浸食されつつあった。


 最後の破落戸ごろつきを取り押さえて拘束するなり、操縦室に向かう。

 操縦室は甲板から頭ひとつ上にあり、アズレンが扉を開けると中には男がふたりいた。

 そのうちの舵を握っていない方がナイフで襲いかかってくる。

 アズレンは軽快な身のこなしで避けると、男の両手首を掴んだ。

 あまりに強く握るので痛みから男の手はナイフを落としてしまう。

 けれど諦めずに蹴りを入れようとする。

 しかし、振り上げた膝は蹴落とされ、逆に腹へ膝蹴りを受けると「うぐっ」とくぐもった声を最後に意識を手放した。


 男が倒れるのと入れ替わりで操縦していた男が襲いかかってくる。

 その手には仲間の落としたナイフが握られていた。

 難なく避けたアズレンだったが、足元に転がる男に躓いて体制を崩してしまう。

 咄嗟に手を伸ばして支えを探すが、掴んだのは舵で、アズレンの体重がかかると勢いよく旋回した。


――しまっ……!


 急な進路変更に船は大きく傾き、アズレンは壁に叩きつけられそうになる。

 その直前、同じようにふらついた男を捕まえてクッション代わりにした。

 男は壁にぶつかった時に頭を打ったらしく、アズレンが頭を上げた時にはすでに気絶していた。


 まだ船体の傾きがある中、操縦台に立ち、舵を逆方向へ回す。

 早すぎず遅すぎず、船体の傾きが感じられなくなるまで舵を戻すと、レバーを下げてエンジンを落とした。


――完全に停めるにゃあ、逆に回さなきゃなんねーけど……とりあえずこれでいいだろ。


 本来ならば船のスピードをある程度落としたところでプロペラを逆回転させ後進することで船を停止させるが、ひとまず応急処置的なものに留める。

 まずは敵の鎮圧が優先事項である。完全停止は応援が来た時に頼めばいいのだ。


「お、来た」


 暗い海上にいくつかの小さな明かりを見つけたアズレンは床に伸びた男たちを自身の上着で手早く拘束し始めた。



 ◆  ◆  ◆



 アズレンが操縦室に突入する少し前。


 破落戸ごろつきの少年は人目をかいくぐりながら小型ボートに辿り着いた。

 ボートは船体にロープで括りつけられており、隠し持っていた折りたたみ式ナイフで切ろうと船体に足をかけ乗り出した。


 その瞬間、急旋回した船から少年の身体は放り出された。

 甲板から「うおっ」という声と人や物が転がりぶつかる音がした。

 少年はなんとか船の縁に片手をかけ、もう一方は船体にナイフを突き立てたものの、濡れた船体にずりずりと手が滑っていく。

 船の傾きが戻るのにさほど時間はかからなかったが少年の限界は近かった。

 少年が「因果か」と諦めかけた時、突如伸びてきた小さな手に腕を掴まれた。


「!」


 船体から顔を覗かせたのは彼が騙して連れてきた子どもだった。


「なんっ……」


「誰かーー!! 助けてー!」


 破落戸ごろつきの少年が言い切るより早く子どもは叫んだ。

 その高い声はよく通り、船上に響き渡った。

 顔を真っ赤にして引き上げようとする姿に少年はなぜか目の辺りが熱くなる気がした。


 そこへ長い腕が子どもの腕を通り越し、少年の左肘と服の首根っこ部分を掴んだ。

 少年が見上げれば、そこには捕らえられていたはずの女が無表情で彼を見下ろしていた。


「君、彼の右手を掴んでやってくれ」

「う、うん!」


 子どもは少年の腕から手を離し、彼の右手に向かって手を差し出す。


「はいっ」

「……」


 少年はナイフの柄に張り付いた指を1本ずつ剥がし、子どもの手を握った。


「いくぞ。せーのっ!」


 ヴィヴィアナのかけ声に合わせて一気に少年を引き上げる。

 女は少年を持ち上げたまま、じっと少年の顔を見つめた。


 少年はこの数秒の間に起きた生死の境を彷徨う出来事にまだ脳内処理しきれていないようで、その瞳は揺らいでいた。

 正直助かったのかわからなかったのだ。

 海に落ちる事態は免れたが、こうして女に捕まっている。

 本来であれば女の腕を振り払うなり蹴飛ばすなりして逃げているところだが、死に直面した直後で少年の気力はほとんど残っていなかった。


 ヴィヴィアナは横目で子どもを確認する。


「君、怪我は?」

「ない……」


 子どもは少年を引き上げた後、腰を抜かしていた。


「そうか。ならいい……さて」


 再び少年の顔を真っすぐ見つめる。


「どうだ、助かった心地は」

「っ……」


 項垂れて視線を落とす少年の口元にきゅっと力が入る。


「……頼んでもいないのに、勝手に助けたんだろ」

「……そうか」


 ヴィヴィアナの口調は相変わらず冷めている。


「勝手に助けて悪かったな」

「!」


 ヴィヴィアナは勢いをつけて少年を海に向かって投げようとする。

 少年は思わずギュッと強く目を瞑った。


「……?」


 しかし、ピタリと止まった動きにゆっくりと目を開ける。視界にヴィヴィアナの腕にしがみつく子どもの姿が映った。


「ま……待って」

「なぜ止めるんだい?」

「だって……その子は……友達、なんだ」

「!」


 少年はなぜか喉の奥に物が詰まったみたいに苦しくなった。


「ほう? 君を騙して売り飛ばそうとしたこの少年が? 助けても❝頼んでない❞などとひどいことを言う奴なのに?」

「っ……」


 子どもは言葉を詰まらせる。

 何かに葛藤するかのような苦悶の表情を見せたが、すぐに結論が出たのかまっすぐにヴィヴィアナを見つめ返した。


「そうだ!」


 混じり気のない澄んだ心。それをぶつけられたヴィヴィアナと少年は目を見張った。


「……ねぇの」


 先に口を開いたのは少年の方だった。


「お前脳みそスカスカなのか……? どうしたらそんな思考回路になるんだ」


 子どもを貶す言葉を吐き出しても、その声は僅かに震えていた。


「そっ、れでも…………僕は鈍臭いって皆に言われてて……誰も相手にしてくれなくて……そんな僕に初めてできた友達なんだ」


 子どもは少年の袖を遠慮がちに掴んだ。


「……馬鹿じゃねぇの」

「……」

「馬鹿だ……」


 ヴィヴィアナは少年を下ろそうとしたが、その腕を急に持ち上げると少年を海に向かってぶん投げた。

 一瞬の出来事に子どもが目を見開くと、その子どもも同じように投げられた。


 ヴィヴィアナは船外に向かって「アズレン!」と大きく叫んだ。

 先程到着した増援の船にアズレンが降りていくところを彼女は見ていた。


 投げ出された少年と子どもは着水を予見してギュッと目を閉じたが、体を包んだのは海水ではなく大きな腕だった。


 その直後、連続した射撃音が船体の方で鳴り響いた。


 少年と子どもはこれまで聞いたことのない耳をつんざく音に身を固くした。

 頭上から舌打ちが降ってくる。

 子どもたちを抱えた腕は一瞬船の方へ重心を移動させたが、すぐに逆方向へと走り出した。

「おい、ガキだ!」といささか乱暴に船内へと投げ入れると、来た道を戻っていく。


「……ヤロー、人身売買に銃まで密輸してんのかよっ」


 銃の所持は一般国民には認められていない。国直属の一部の機関に属する人間のみが認められている。

 つまり国同士もしくは国を通すなど、国の管理下でなければ銃の輸出入は禁止されているのである。



 ◆  ◆  ◆



 一方の甲板ではヴィヴィアナとひとりの男が対峙していた。

 ヴィヴィアナに眠らされていた大柄の男だ。

 ラッドは怒りに目を血走らせヴィヴィアナを睨みつけている。


――思ったより効き目が薄かったみたいだな。


 目覚めた後、どこかに隠してあったか密輸品からくすねたかした銃を持ってきたのだろう。

 3発撃った弾はひとつも当たっていなかった。

 射撃音の間隔が不規則すぎたのも狙ったわけではなく、不慣れさ故だろう。

 予想どおり「チッ、当たんねぇ」とボヤいている。

 そうはいっても殺傷器具だ。

 万一に備えてヴィヴィアナは警戒を怠らなかった。


――弾切れを待つか。


 男が持っていたのはハンドガンだ。

 多くても15発程度だろう。


「……」


――そんなに待てないな。


 女は気が短かった。

 いたずらに待ったところで結果など同じなのだ。

 だったら早い方がいい。

 そう判断したヴィヴィアナは男へ向かって駆け出した。


「!」


 まさか突っ込んでくるとは思わなかったのだろう。

 男の目が驚きに見開かれ、僅かながら焦りの表情を浮かべた。

 慌てて数発撃つも女を捕らえることはできない。


――当たらんさ。


 動く的を狙うなんて余程センスがあるか訓練しないと難しい。

 ついさっき銃を初めて扱った素人に当てられるはずがないのだ。

 右に左にと走路を変更しつつ走るスピードに緩急をつけ、狙いを定めにくくすれば尚のことだった。


 男の射撃間隔が短くなっていく。

 当たらないとなると焦りから数を打ち始めるのが人間のさがというものだ。


――12……13、14……15!


 ヴィヴィアナと男の距離が10mを切った時だった。


「!」


 拳銃の遊底が後退したまま戻らなくなり、銃口が露わになる。


 ホールドオープン――弾切れの合図だ。


――ビンゴ。


 加速したヴィヴィアナは一気に距離を詰め、男へ飛びかかった。

 その口元には残忍な笑みが浮かんでいた。



 ◆  ◆  ◆



「え、何これ。何したの」


 アズレンが駆け付けた時に見たのは、顔面を蒼白にして床に転がった状態で悶える男の姿だった。


「急所を蹴った」

「うわ……かわいそーう」


 アズレンは両手で口元を覆い、わざとらしく同情の眼差しを男に向けた。


「相手は銃を持っていたんだ。それに比べれば至極平和的で早期的な解決だろう?」

「……」


 アズレンはそれ以上言及しなかった。


「てか、なんで現場出てんの?」

「……どこかの誰かが出張で、その穴を埋められる人間がいなかったからだが?」

「そのシュッチョーを指示したのお前じゃん」

「そうだったか? おかしいな。お前の部下には指示を出したが、お前には出した覚えが私にはないんだが?」

「……あー……」


 アズレンは途端に気まずそうに視線を横に背ける。

 どうやら本人も言われて思い出したらしい。


「勝手にお前が意気揚々とついていったんだろう? そうだよな。この件で指示を出そうと思っていたのに、尋ねたらいないんだもんな」

「それは……なんというか……」

「おかげで私が出る羽目になった。はぁ……まだデスクに仕事が残ってるのに」

「〜〜〜っ! 悪かったよ、俺が! だからそのネチネチやめろ!」

「……ま、ずっとデスクワークだったから久々に体を動かせていい気分転換になった」

「んだよ……じゃあ――」

「帰ったらお前も事務仕事だからな」


 アズレンの顔に浮かびかけた笑みがギシリと固まる。


「……は?」

「当たり前だろう。お前のせいで仕事が遅れたんだ。その事実は変わらない」


 腕を組んだヴィヴィアナはじっとりとアズレンを睨めつけた。


「うっ……」


 たじろいたアズレンだったが、改めてヴィヴィアナの姿をしっかりと見てしまい、口元に笑みが浮かぶ。


「しっかし、似合わねぇカッコしてんなぁ。ダッセ」


 ニヤニヤとヴィヴィアナの肩に肘を置いて揶揄う。

 揶揄われた方は特に気を悪くした様子もなく、視線を伏せた。


「そうか」


 それだけ答えて部下から渡された服を受け取り、着替え始める。


「お前の格好を真似たんだがな。そうか、お前の格好は❝ダサい❞んだな」


「はっ!?」


 床に転がる男を縛っていた部下が小さく「ぶっ」と吹き出した。


 アズレンの出で立ちといえば、肩につかない程度のオールバックヘア、タイトな黒のタンクトップ、少しダブついたズボンの裾を黒のコンバットブーツに差し込んでいるというものだった。


 アズレンが弾かれたように振り返ると、ヴィヴィアナは羽織っていた上着を脱いで愛用のコートのボタンを留めていた。

 下ろされていた髪はすでに普段どおりの高い位置でひとつに束ねられている。


「ああ、そうだ」

「あ?」


 手元から顔を上げたヴィヴィアナと視線が交わる。


「ほら、お前の❝ダッサイ❞服だぞ」


 ヴィヴィアナは今しがた脱いだ上着を片手で掴んで持ち上げる。


「……?」


 アズレンがその服を注視する。


「あ!」


 アズレンは慌てた様子でシャツを奪い取る。

 それは彼が普段よく着ているシャツだった。

 ヴィヴィアナはそのボタンを留めずに上着代わりにしていたのだ。


「行くぞ」


 ヴィヴィアナはコツコツと靴の音を鳴らしアズレンを置いて歩いていく。


「おいっ、待てよ! 俺のカッコはダサくねぇ!!」


 アズレンの少し先を歩くヴィヴィアナは後方から迫る足音を聞きながら、口元に小さく笑みを浮かべた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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