魔女、宮廷魔術師やめるってよ
「あ、ここ辞めよ」
百年が経った。
今日は王宮に宮廷魔術師として召し上げられて記念すべき百年目の――すなわち、私が百年間勤めあげた記念日であった。
もう、ずいぶん前から無理をしていた。
思えば睡眠時間を一時間までに削り、起きている時間はずっと仕事続きだった。しかも散々待遇改善の要請を出しているにも係わらず一向に上司が動く気配がないことから、というか、百年前に交わした契約を彼はすっかり忘れているらしく、ついに私は百年目の今日を迎えて諦めてしまったのだ。
そうだ。辞職して、旅に出よう。
しかし、そんな決意を心の中で新たにしたところで、くだらないかと嘲笑うかのように――私の小さくて大きな決意を知らない彼らは私の前に次々と現れ、私に(本当にどうでもいい)仕事を押し付けてきた。
「雑用係、ほら、洗濯物よろしく」
「雑用係~、訓練場の掃除お願い~!」
「雑用ちゃん、王家の森にドラゴン沸いて出たから、退治しといて~」
彼らは私の一応の執務室である物置部屋にやってきては、いつものように挨拶もほぼなしに仕事を放り込んでくる。しかし残念ながら私は退職届を書いている最中であり、一時間後には完全なる無職になるのだから、彼らの願いを聞く義務はないのである。
残念ながら、彼らは私がいつも通り仕事をこなしてくれると信じているのか、いつものように私の返事を一切訊こうともしなかった。一応ではあるが、口を開いて断ろうとした。けれど彼らは私のことなど便利な駒扱いしかしておらず、言葉の端々から既にお察しだろうが、私の地位など、それは本当に下位の下位――奴隷より酷いものだった。
すなわち彼らは私に口がないと思っているようである。雑用を投げかければ、もう自分の仕事は終わりといわんばかりに、さっさと去っていく。
それが彼らの決まりきった作業と言わんばかりに。
「……ふぅ」
しかしこうも思う。彼らは自らの役目をそうだと思い込んでいる。ならば、訂正するのは上司の役目では?
ちなみにだが、私は何回も何回も――五十年ぐらいを過ぎたときには諦めもしたが、上司に陳述した。しかし結果はこれだ。百年目にもなったら、いい加減訴えるのを諦めて、自分から立ち去ったほうがよほど一番手っ取り早い手段だと気付いてしまった。
また、上司と交わした契約はまったくの別物であるが――その一つも一つの区切りであった百年目ですら思い出さないのだから、今後彼は何かが起きない限り永遠に思い出さないのだろう。
「よいしょっと」
私は退職届を書いて、王宮の上にある上司の元へ参じる。ついでに頼まれていた書類も、手に持てるだけ持っていった。元々整理しろと命じられていたのもあるが、これがあると私の願いが叶う可能性が上がる。少しでも、私は退職の成功を上げるべく、使うものは使うことにした。
「失礼しまーす」
「遅い、さっさとしろ」
「はいはい、すみません」
私は執務室に入って、人外めいた美貌の彼――上司でもある宮廷魔術師長のラファエル・エルに挨拶をした。
魔術師長様はいつも北の塔の執務室にいた。
彼は魔術師の頂点に名だたるだけあって、実力は折り紙付きだ。ついでに見た目も、常に手入れがされている銀髪に、まるで宝玉のような赤い瞳をしている――非常に整っている顔であった。
残念なことに彼の人外めいた美貌のせいでふらふらと寄ってきた異性同性を追い払うのも私の職務内容に入っていた。一介の宮廷魔術師として王宮に召し上がったときの最初の仕事もこれだっただろうか。あのときは呆れるばかりであったが、そのとき私は王宮を辞めてもよかったかもしれない。
まぁ、過ぎたことを嘆いても仕方ない。私はすべからく任務を成功させるべく、だが退職届と見破られないように書類で隠しながらいかにも急務です! みたいな風を装って届け出を提出した。
「魔術師長様、これとこれとこれだけ急ぎなんで、判子押してください。内容を確認しましたが、魔術師長様がお手を煩わせることはなく、私一人で十分対処は可能かと思われます」
「あぁ、そこに印璽があるから、勝手に押してくれ」
「……はーい」
彼はこの通り、五十年ぐらいまでは非常に慎重で、私でも執務室に入れないほどだったが、八十年を過ぎたあたりから印璽をぽいってよこすぐらいには雑になった。私が一切悪事をするとは思わないのだろうか。この人。別にもう係わることはないのだからいいのだけれど。
「それではここに書類を置いておきますね。失礼しました」
「あぁ、さっさと仕事に戻れ」
ラファエル様は私にも書類にも目をくれず、自分の仕事に集中している。
不覚にも百年前に恋をした――相手の見納めになるのだ。最後くらいは目を合わせて挨拶したかったが、それも叶わぬ夢のようであった。
それはそうとして、あとは騎士団長と宰相にも退職届の判を押してもらわないと!
私はくるりと背を向けて、さっさと退出する。
呼び止められるかなと、一縷の希望もちょっとあったけれど、それもない。
結局、私はその程度の存在だったのだ。
百年前に契約したことも思い出さないようなちっぽけな存在が、私。
ただの上司と部下。本当に百年ぽっちではあるが、それだけの関係だったと言わんばかりのようで。
魔女という人種は恋にのぼせやすく、因果な関係で人間と結ばれることはない。
そういえば、あの人、見た目は人間だった筈なのに、どうして百年も姿を変えられずにいたのだろうかと考えたが、結局、深いところまで話す関係でなかったと思い出した。
しかし私だって百年も姿が一切変わらずにいたのだ――その事実に気付けたなら、彼はもしかしたら契約を思い出せたのかもしれないけれど。
でも、今は思い出してもらわないほうが楽しくなりそう。
魔女における予感や勘は、未来予知と近しいものがある。結局、私はこのまま立ち去ったほうが、面白いことになると確信した。
私は含み笑いをして、それから退職届の許可を貰うべく再び歩き出した。
「……やったー! 退職できたー!」
騎士団長も、宰相も、執務室にいた。あとは魔術師長と同じような手法で、同じように印璽を頂戴し、退職の裁可を得た。あとは魔法でちょちょいのちょいで認可が済んでいる書類に紛れ込ませれば、退職届は無事に成立した。
何の苦労もなく、退職できてしまった。まぁ、素直に提出をしたら破り捨てられる可能性もあったので、退職金も有給休暇などもないまま辞めてしまったのだけれど。元々私を一時間睡眠にさせるような現場だ。今更言っても仕方ない。あんなところ、係わるだけ無駄である。
それよりこれからの生活だ! 退職金はもらえなかったにしても、部屋にあったものは私の懐から出したものなので、つまり私のものなので持ち出してよいということになる
部屋にあった物ぐらいなら、自前の魔法鞄があれば十分詰められた。心配なのは、私が片づけているところと見られるぐらいだったが。幸いそんなこともなかった。
所要にして十秒。部屋にあった物は全て魔法鞄に詰め込んだ。驚くことなかれ。物置部屋自体が希少な幻想魔法付きの魔法鞄だったのだ!
そもそも王宮の人間は気づかなかったのだろうか。本来なら窓もない部屋なのに、窓があり、吹き抜けの二階もあり、少し誇りっぽくはあったが、物置部屋一つだけで一人の人間が住めてしまうという事実に。まぁ、気付けるような人間なら、そもそも私をここまで軽んじられることもなかっただろう。唯一気づけそうな魔術師長は一度も私の仕事部屋に来なかった。つまりそういうことだ。
「さーて、どこ行こうかなー」
様々な場所に派遣されたせいで、王国内の土地はほぼ網羅している。恐らく王国内のどんな測量家よりも正確に地図が頭の中で形成されていることだろう。
だが、地図はできても、内情を把握していても、それはあくまで情報だけの話である。
王国の内情をどんなに知っていても、私用で王国を出るなんてことは一度たりとてなかった。
市井に降りてまずしたこと。それは乗合馬車に乗ることだ。
王国はここ何十年か国内情勢が安定している。時間が来れば出発する。兵士とともに行くこともない。見知らぬ人間のぶらり旅。
規定の料金を払って私は馬車に乗る。勿論、手元には魔法鞄を持ちながら。
実は今の格好は、王宮のときの服装とまったく変わらない。けれども、残念ながらこの服装は解れてはいるわ色あせているわで、市井に下っても全く違和感のない格好であった。
思えば魔術師団の専用のローブ一着だってくれなかった。
だからこそ王宮に置いていくものも何一つだってないのだが、それにしたって酷い話である。
時間が来て、馬車は恙なく出発する。この馬車は王都を出る検問の手前まで行く。ちなみに王都から出るときの検問は、有事がない限りはあり得なかった。
そしてやっぱり、王都から市街地へ出ても検閲はされない。
そろそろ私が退職したのがバレたかな? と、思ったが、やはり私程度が退職しても、誰も何も気にしなかったということだ。
私は街から街へ移動する乗合馬車に乗り換える。遠出してくれる馬車は、王都に比べて本数が少ない。一日一本あればいい方だろうか。
つまり、乗合馬車に乗り遅れるわけにはいかないのだ。
幸い、乗合馬車は私が乗るまで待ってくれたので、無事にその日のうちに王都から旅立つことに成功した。私に対して優しくしてくれたことなんてここ何百年くらいなかった気がするからちょっぴり泣くぐらい嬉しかった。そうしたら隣の旅行者のお子さんが大丈夫? と言ってハンカチを差し出してくれた。もっと泣いた。
世界はこんなにも暖かで優しかったのだ。と、何百年ぶりに思い出した。
きっと私もまだまだ楽しめと、神様に言われた気がした。神様なんて信じていないけれど。寧ろ嫌いだけなんだけれど。このときばかりは手のひら返して神様を讃えてもいいんじゃないかなって考えてしまった。
◇
異変が起きたのは――その日の夕方だった。
まず、頼んだ洗濯物が出来上がっていない。そんな些細なこと。
だが、いつもだったら洗いに出したものが、全てノリがきいた状態で、新品と同じように届けられていたのだ。こんな些細な異変でも百年はこんな失態、全くもって起きたことがなかった。
「一体、何故、こんな洗濯物を出したときと同じ状態で返ってきたのだ」
「それが、その……部下が急遽退職してしまい、引き継ぎに手間取っていまして……」
女官長に事情を訊いても、要領を得ない。そもそも部下一人が辞めたところで、洗濯に手間取るはずがない。
忘れていた、なんてことはないだろう。王宮メイドは、掃除や洗濯の要人の世話が主だった仕事だ。それにまさか、私の洗濯物が含まれていないなんて思いもしなかった。
「まぁ、いい。次から気をつけろ。業務に戻れ」
「はい、いいえ。申し訳ありません。しばらくは洗濯物を、受けつけれられないのです」
「……何?」
それは一体どういうことだ――と、口を開こうとした途端、執務室の扉が乱暴に開けられた。
ノックもせずに開けたのは魔術師団の部下である一人だった。睨みつけたが萎縮することなく、彼は信じられないことを口走った。
「魔術師長! 魔術師と騎士団の合同訓練が、中止になりました!」
「中止になっただと? そんなこと訊いていないぞ。一体なぜ、どんな理由でそうなった」
「それが……部下が一人辞めてしまったそうで……それで訓練室も、更衣室の片付けもままらならず、とてもあの状態では訓練をはじめるどころでの騒ぎではないと思われます」
「……部下が一人辞めてしまったぐらいでどうしてそうなる」
と、呟いても部下も原因がわからないらしく、首を傾げている。
情報の伝達もうまくいっていないらしい。そういえば、ここ半日、自分の元には何ら報告が来ていなかった。
事態は更に深刻になる。またもや現れた部下が、今度は別の案件を持ってきたのだ。
「魔術師長様! 王の森から火竜が出没! 今騎士団と魔術師団総出で引き止めていますが、死傷者も出て魔術師長様の手を貸してほしいとの要請が騎士団長からきています!」
「王の森の火竜如き――百年間はいなかったはずだ。何がどうして急に沸いた」
王都の北にある、王室領である王の森は、百年前は死の森と言われていた。人の手に負えない獣ども、何千年も昔から続く呪いが蔓延している森――だがそれも百年前の話で、今はただ静かな森のはずだった。
「……いえ、火竜は今も定期的に沸いておりました。しかし、今までは一人の宮廷魔術師が討伐を含めて管理していたのですが、今は連絡も取れず、また獣の討伐できるものがいなくなっています」
だが、そうではない。一人の魔術師が管理していること自体がまずあり得なかった。私王宮にいる全ての魔術師の長であるが、全てを管理しているわけがない。
複数人で対処しているかと思っていた。森には異常なしという報告は常にされていた。
ならば、火竜がいる自体が見逃されていた? いや、そんなはずはない。そこで考えを改めるべきだった。火竜は百年間出現していなかったわけではない。ただ問題なく、被害もなく討伐されていただけだったのだと。
ここまで思考を巡らせているところで、部下に事態の収束をと迫られた。
そうだ。騎士団長ですら対処できないなら、自分が行くしかない。
火竜は王国の精鋭達を圧倒するほど強い。だが私にとって、息の根を絶やすのは赤子の手を捻るより容易かった。
一撃で火竜の心臓を潰して、殺したことを部下たちが確認すれば、見慣れた顔が向こうからやってきた。
騎士団長は火を浴びたのか、黒ずんだ鎧のまま挨拶をしてきた。腰に携えた剣も、錆びて王家の紋章がわからないほどだった。
「いやぁ、すまない。魔術師長様レベルでないと、やはりドラゴンの相手は難しいわ」
「ここは我々が見張りをしているとはいえ、騎士団管轄のはずだ。騎士団は何をしていた」
「それが部下が一人辞めて、ごたごたしていたんだ。それで、このざまさ」
「部下が一人辞めた程度で……?」
そう、部下が一人辞めたぐらいで、この体たらく。
だが最も驚愕すべき事実はいまだ黙されていた。
「そういうなよ、自分の元部下だろうか」
騎士団長は、首を掻きながら呆れかえっている。
そのとき、私はまだ考えついていなかった。部下の一人が退職した。どの部下が、まさか同一人物だということを思いつかなかったのだ。
「……私の、部下?」
「おいおい、そこまで言うことねぇだろうが。確かに宮廷魔術師に支給されるローブこそ羽織っていなかったけどな。あれだって立派な部下だろうよ」
私の部下は数えられないほど多くいる。だが、誰一人として、宮廷魔術師として必要な道具や衣類を支給していない記憶はない。
ここで私は思い出した。あぁ、一人だけ、雑用係として雇用されていた人間が、いたなと。
その人間がまさか自分の直属の部下だと思いもしなかった。何故か? 決まっている。誉ある魔術師のローブを羽織っていなかったから、自分の部下だと認識していなかったのだ。
だが雑用係と言われていた彼女は、確かに多くの雑用をこなしていた。しかし現状を顧みるに、恐らく雑用に当たらない業務、それも一人前の魔術師でさえ困難な任務をも問題なく管理していたのだ。
「まさか」
私は騎士団長に辞めた部下の名前を確認する。だが騎士団長は、確かに彼女の顔を覚えている筈なのに、私を含めてどうしても彼女の名前を思い出すことができない。
何かの呪いにかかっている。そう判断するに時間はかからなかった。
痕跡が必ずある。呪うには、何かしらの媒体が必要であった。幸いにも、名前も思い出せない彼女の痕跡が何もない、なんてことはなかった。
急務だとその場を離れ、彼女がいたらしき部屋にたどり着く。
部屋ともいえない、おんぼろ小屋。まだ家畜小屋のほうが立派といえるのか。
しかし、何故そこに、雑用係が住んでいると皆思い込んだのか。足を踏み入れば、その理由はすぐに知れた。
「――……ッ! なんだこの、瘴気とも変わらない魔力の残滓は!」
魔術師が魔法を行使する際、必ず魔術の痕跡が残る。だが、残ってはいると考えてはいても、これほどまでに濃いとは思いもしなかった。
私の後ろにいた数名の部下が、耐えきれずに吐いてしまう。名だたる宮廷魔術師が、立っていられないほどの悍ましい狂気の塊。
「お前たちは気づかなかったのか! 馬鹿め、魔法の痕跡がこれほどあって、あいつがただの下働きではないと誰も気付かなかっ――……!」
倒れた部下を担ぎながら言葉を口にしたとき、膨大な魔力が後ろで蠢いた。火竜どころではない、悪意の塊が、もぞりと動く。
しかしその魔力は、糸が途切れたようにすぐに霧散してしまった。
いや、物理的に、私と彼女にいつの間につけられていた糸が途切れてしまったのだ。
その瞬間、過去を思い出してしまう。全ての記憶が蓋が開けられるように溢れかえって、そして。
「魔術師長!」
自らも膝をつく。立っていられるはずもない。百年分の記憶が濁流となって脳内を侵していくのだから。
記憶も感情も置き去りにしていた。百年経って、そんなことも気付かなかった。
あの魔女は見事に、契約の履行を目の前にいなくとも執行してみせたのだ!
「お前……――ッ、今も私を弄んでいるのか……!」
ようやく出た言葉は、掠れて隣にいた人間に聞こえたことすらも分からない。
今をも弄ぶ魔女の契約。立っていられないほどの狂気と呪いが、身体を蝕んでいく。
しかしそれでも、確かにそんな報いを受けるほどの契約を百年前にしてしまったのだ。
ぼたぼたと汗が床に落ち、垂れる。身体に異変が生じている事実に周りが理解しても、まさか彼らが自分がまさか呪いに侵されているとも考えすら至っていないのだろう。
「魔女め……っ!」
魔女は既にこの王宮を去った。だが最悪なのは、このまま外国にでも逃げられて契約を不履行と断定され、天罰を受けること。
天罰――それはこの世界で最も恐れられていること。魔女と同等の力をもつものによる、災い。違うのは、必ず自らの業が原因で滅ぼされること。
天罰を受けた人間は、輪廻転生も叶わず、永劫幽世をさまようことより恐ろしい目に遭うという。
そんなこと、させるものか――
自分は未だ、罪人だと断定されなていない。ならば、まだ時間はある――……!
そこからは、彼は身体中に走る激痛を抑え、全力で魔女の確保に取り掛かる。
魔女と契約した哀れな人間の、契約を不履行したゆえの末路と言われないがために、抵抗を彼は決行した――
◇
王宮では大変なことになっているとも露知らず、彼女はグルメ紀行に勤しんでいた。
「うわぁ……っ!」
王国内の辺境地、所謂南都はさすが王国一の太陽が近い土地といわれているだけあって、つまりとても暑い。しかしこの気候だからこそ、分かることもある。
「んー! 何この串カツ! 最高! 揚げられた肉と大蒜のなんて贅沢なハーモニィ!」
高温である油をたっぷりと使い、短時間で揚げられたおかげで、水分が抜けて一口食べればざくっといった、軽すぎず重すぎもしない絶妙な舌心地を味わえる。
しかも、中にある肉も、十分肉汁が閉じこもっていた。つまみである大蒜も辛味が効いて肉のいいスパイスになってくれる。
それに串カツだけではない。
もう片方の手に持つ、麦酒。
氷できんきんに冷やされたビールはこれほどまでに喉を潤す。喉越しも甘すぎず辛すぎず、丁度いい塩梅。
しかも今は、まさに暑い。身体中から汗が出ている。そう、私は水分を欲していた。
だからこその冷えた麦酒。一気飲みして身体中か迸る快感が味わう。
一口食んで、飲めばまさに天国に行ける仕様。
私はまさに、天国というものを実地で経験していたのだ。
しかし残念ながらどんなに屈強な大男の胃袋にも、限界ってものはある。ましてや私は(見た目だけは)小柄な一般女性。もしかしたら子どもに見間違えられるほどの外見。
私は大事に大事に、人より小さな手足を使って、食べ物をむさぼっていた。
私の外見をつかさどる髪と瞳はこの国のどの人間だって存在する、ありふれた色だ。外見で憲兵に呼び止められるなんてことはなかった。迷子だと勘違いされそうになったことは何度かあったけれど。
しかし麦酒も売ってもらえたことから、思っていたよりは年下にみられないようで安心した。
と、その瞬間、何かひんやりとした空気がした気がして、上を見る。
しばらく、呆然として見たそれは。
「……わぁ、何て大きくて素敵な、魔術師長様の魔方陣」
久々に見た気がする。七十年、いや八十年ぶりだろうか、あんなに美しい魔方陣を拝んだのは。青白く輝く――雪の結晶みたいに美しい魔方陣は、魔術師長唯一のものであった。
私が、空に浮かぶ魔法のただの文様を魔方陣と断定できたのは、魔方陣特有の波長をこの瞳で見たからである。私の眼は少し特殊で、人に見えないものも、見たくなくても見えてしまう特別性であった。
そして少し周りを見渡すと、一般人はいつも通りの様子。美しい魔方陣など、ちっとも見えていないようだった。嘘でしょ? あんなに強大で美しく、そして悍ましい魔方陣が見えないなんて、人生のどれぐらい損していることやら。
「でも」
魔方陣に並べられた文字を見て、それがどういう意図で煉られたものか一瞬で判断する。予想していなかったわけではないけれど。やはり魔術師長は、とんでもないろくでなしのご様子だ。
「残念無念、読み取れるほど正確無比なだけに、割り込めちゃうんだよねぇ」
私はその辺の石をぽいって掴む。魔石ですらないただの土塊。だが一たび魔女である私が魔力を込めれば、国の宝物庫にある秘宝よりも膨大な魔力が籠もった宝石と化してしまう。
「えーい!」
私はそれに、ちょいと腕に筋肉ならぬ魔力を込めて土塊を空に打ち込む。速度を上げた土塊は川に水しぶきを立てるかのように、ぼちゃんと魔方陣を突っ切って、そこから輪の形に波が広がり――波紋がどんどん大きくなって。
「精緻で美しい水の文字の羅列の間に、ひとたびバグを挟みこんでしまえば、この通り」
ぱりん。
川の場合だったら波紋はやがて収まるが、魔方陣となるとそうはいかなかったようだ。波打つ魔方陣はけっきょく力に耐えきれず、硝子のようにあっけなく割れて、それから跡形もなく霧散した。
「うん、見事なまでな致命的なエラーの出来上がり!」
戦場であった場合は間違いなく死に至るほどの――致命的エラー。魔術師が描く魔方陣は、正しく発現さえすれば絶対に発動する。つまり空中で発動する類の魔方陣は、戦場における魔術師の武器であった。
戦場だった場合なら、魔方陣を発動される前に魔術師をつぶす。これは百年前ぐらいの戦争の常識である。現代はどうか知らないけれど、少なくとも私はそうやって戦ってきた。
魔術師を殺さず、魔方陣を壊すなんてことは普通はしない。労力が段違いに違う。兵器を壊す前に使う人間を殺したほうが手っ取り早いのと同じ道理だ。
だが、私はそうしなかった。
だって、未だ彼は死んでいないもの。
勝手に罰を食らって死ぬのは構わないが、私が直接手を下すなると話が違う。彼が生きて、契約の対価を返そうとするなら、私は何もせず見守らなければならないのだ。
これはどういうことかというと、まぁ百年前の契約したときの話に遡らないといけないわけで。
残念ながら私は現在グルメツアーに夢中なのであり、別に語るほどの深い因縁も――ないこともないが、まぁ言ってしまえば彼が一生懸命頑張っているなら、私は見守らないといけないという道理だ。
「さぁ食べ歩きの復活だー!」
けれど見守るなんていっても、誰が彼の近くで見守ると言った? これは私が罰を見ればわかることだが、別に遠くにいても契約違反でもなんでもないのである。
手を出さずに(遠くから)見守る。そんな解釈をしてもいいわけだ。
次に思い出すのは百年後かな? まぁ、それまでに魔術師長様が生きていればいいけれど。
私は恋にやぶれた女ではあるが、普通の人間と違い、残念ながら切り替えも早いのである。
ばくりと、もう一口串カツを食べて、土塊を投げる際に置いた麦酒のコップをもう一度手に取る。
なんで今まで百年間も食べ歩き、しなかったんだろう? と、ちょっと疑問に思ったが、結局のところ、私は敬虔な社畜であっただけの話だ。
これからは未来に生きよう! そう、私は新たな冒険譚を刻むべく、足を踏み出した――
◇
あれから、かなりの年月、山あり、谷ありの冒険譚を繰り広げてきた――のは大嘘。残念ながら食べ歩きで始まった私の旅は未だ国内に留まっています――……
よく考えてほしい。国内は最早戦乱の兆しなし。あるのは人々の安定した生活。ならば栄えるのは何か。それは観光業である。グルメである。それに国が反映するほど、土地は安定する。つまり、品種改良をこれでもほどかというほど出来るのだ。
つまりグルメツアーは国内だけでも、めっちゃいっぱいある。
うん、私が住んでいた国はこんなにも平和だったのだ。
やっぱ私雑用掛かりとして百年も働いていたのは無駄だった――? と、ちょっと感慨に耽りながら、今日もまた、生クリームとイチゴとがたっぷり添えられたクレープを一口、皮をばりと頬張って、それから一気に頬張り食べる。
今日のおやつは、生クレープである。
職人によって薄い小麦の生地に巻かれた素材は、そこにあるだけで美味しいよ! と主張するばかりに輝いている。
大苺は農家様の努力により品種改良を重ねてとても甘かった。かつての旬の苺を凌駕する、最高峰の苺。先端だけではなく、全てに甘味があり、濃厚であった。
生クリームも最高であった。よく練られた生クリームはほんのりと苺の味を邪魔しない程度に甘味が加えられている。舌触りもなめらかで、まさに至高の一品。
何と贅沢なことに、具材はこれだけではない。バニラエッセンスがこれでもかと加えられた、濃厚なアイスクリーム。それがクレープの主役として、堂々と中央に鎮座していた。中にはマシュマロが少し混ざっているのだろうか。一口食べれば少し伸びるアイスクリーム。溶けてもなおクレープと紙が受けとめてくれる、手もべたつかない最高の一品。
これが至高といわずしてなんというのだろうか。
いや、もしかしたら人類の至宝はここにあったかもしれない。
「いいご身分だな、魔女殿」
「んー?」
と、私が物思いに浸っているところで声を掛けられた。
ここに魔女がいるとなれば、それは私しかいない。
「……ふがぁ」
仕方なしに振り返ると、まぁそこには相変わらず仏頂面である魔術師長が、一人で立っていた。
思いがけぬ再会に少しびっくりする。だって、未だその身に走る激痛で動き回れない筈なのだ。
そしてまさか単身で、魔女相手に真正面から相対するなんて思わないだろう。
魔女とは災厄そのもの。魔女と接すれば間違いなく身を滅ぼすくらいには、この国の住人は、魔女の危険性を知っている。
魔術師長様は、百年前に起きた戦争で大変成長なされた。ならば、魔女の危険性を、この国一番に知っている人でもあるはずなのだ。
「んぐ、ふぅ……ひょっほまっへへ……ふー。えっと? んーっと、私のこと魔女だって分かったのはすごいね」
褒めるべきは、クレープを一口で食べきるまで待っててくれていたところだろうか。
それでもしかめ面は一片たりとも崩さなかったけれど。まぁ飲み込むところを待ってくれるぐらいには律儀だよね、彼。
「誤魔化すな、魔女め」
彼は忌々しげに吐き捨てる。そう、再会の一言目に魔女――と断定したことから、私の誉め言葉は無意味らしい。
しかし納得していないこともある。
彼が私のところに来た理由はお察しできるが、それとは別として、私が咎められる理由はない。私は正当な手続きを経て王宮を出た。引き止めなかったのは彼の怠慢。それを私に責任転嫁するのは、ちょっとおかしいんじゃない?
「ちゃんと退職届は出したし、あなたたちはその手で契約を破棄した。どの国ものどから欲しがる魔女を手放したのはそちらじゃないか」
「あんな騙し討ちみたいなの認められるか」
「……そうだねぇ」
確かに退職します! と、言わなかったのは公平だったかもしれない。けれども、退職届を素直に出したって、結局はたらい回しにされて破り捨てられるのは目に見えていたのだから、やっぱりああするしかなかったと思うの。
それより、そう。彼がここに来た理由。退職云々ではなく、もっと昔から、私と彼の間に成された契約。
正直、私が仕事を放棄したって、もう何も問題はないのだ。私と契約していた王は死んだ。王宮に残っていたのは、ちょっと役にはまりすぎたのと、彼が思い出したときに絶望し、苦悩する顔を、目の前で見たかったから。ただそれだけ。
「……契約は思い出した?」
「――ああ……」
あぁ――私は心の中で歓喜する。
そう、その顔が見たかったのだ。憎らしい人間を前にして、殺すこともできず、契約を履行しなければいけない矛盾を抱えたその表情!
「じゃあ、私の前に再び現れた意味も――わかるよねぇ?」
「……あぁ」
そう彼は言うが、私が傍にいるだけで契約は遂行できる――わけではない。
「契約を履行できないと思うたびに、身体に虫が這いずり回るような激痛が走り、どんどん心も蝕んでいくのに」
契約というよりかは、願いを叶える千夜一夜物語の――アラジンと魔法のランプ、と言ったほうが分かりやすいだろうか。魔術師長様は私に願いを叶えてもらった。魔人と違うのは、私も魔術師長に願いを叶えてもらわなければならない、ということ。
別に特段、百年前に願ったことを叶えてもらおうなんて思わない。
初恋が成就できればいいなって、魔女にしてはほんのささやかな、仄かに色付いた、可愛らしい願い。
けれど魔女の因果というものはどこまでも残酷で。恋心だけはどうしようもなく、仄かな願いすらも自分の恋に関しては、願って叶えられたらそれは奇跡だという類のものになってしまう。
だからこそ彼の願いを叶えてあげたのだ。彼の願いは、ただ人が一生願っても、絶対に魔女以外に叶えられない、それこそ奇跡の所業だったのだから。
「すごいね、あなた。よく立っていられるね」
未だに私の願いを果たしていない彼の身体は、呪いで蝕まれ、正常な判断が出来ないほどに激痛に苛まれているはずだ。
だが今もこうして動いている。私の姿を見たことで少しは緩和されたか? それもあるかもしれない。
「……だから、借りを返しにきた」
彼は痛みでいつもの覇気がない。だが確かに言った。借りを返しに来た。つまりそれは、私の願いを叶えるということ。
「あは! 借りを返す!? まさか! あなたに出来るわけがない!」
私は嘲笑する。そんなこと私のせいではあるが、百年間も思い出さなかった人間に、出来るものか。
ただ愚かな人間が思いつくこと。契約の破棄と再契約が頭の中で過った。
対価を別のものと提案し、差し出す。契約を捨てることはできない。それは天罰を受けることと同義になるからだ。
だが、契約の破棄と再契約も悪くはない。だが残念ながら、私はそれを否定した。
「破棄したい? 残念でしたぁ! 私の心が変わらない限り、破棄は絶対にあり得ないし、そもそも破棄できる類の契約ではない。私の願いを叶える同等の対価を差し出そうたってそうはいくか。魔女の心を推し測るなんて、そんな愚かなことが出来るなら、そもそも百年前に契約なんかしなければ良かったんだ」
私の願っていたものは、当時の私のただ唯一の願いだ。それを否定することは、過去の私を否定する。百年間の私の働きをすべて昇華するんだったら、もしかしたらこちらから提案したのかもしれないけれど。
私はそこまでお人よしでもない。
どんなに好きだった人でも、それだけ自己を犠牲にして献身する義理なんて、ちっともないのだ。
だが、彼はそれは分かっているというに頷いた。
「ああ、百年前に成された契約も、あなたが私に願ったことも全て思い出した。だから、――破棄はしない」
「……お前、正気?」
本当に正気か? と、疑いたくなる言葉。私が傍にいないと到底無理な願いではあるけれども、本当にただ傍にいても私の願いは叶えられないのだ。
努力しても、私は彼ではできないと思っている。そこまで器用であったなら、そもそも全身中に虫が這いずる回るような激痛なんて走らないからだ。
「……私がいなくなるまですっかり契約を思い出せなかったし、罰が当たって死ぬかなーって思っていたけれど、未だ無事でいるということは、未だに猶予はあるのでしょう」
百年前に彼が願ったこと。黄泉に手を出したのは私だけれど、責任を負っているのは彼ということになっている。
輪廻の輪に手を出すのは本来なら神ですら抗えない大罪である。故に罰を食らったとしたら、彼は跡形も残らないはずだから。
まだ天が罰を下していないから、私は到底信じられないけれど天は契約を遂行できると知っているのだ。
「仕方ないなぁ、その潔さに免じて、立派な死にざまを看取ってあげよう」
どんな形であれ、私の願いは必ず叶えられる。彼には願いを叶える意思がある。ならば私は見守るしかないのだろう。
まぁ、契約が成立する前に、彼が狂っていなければいいけれど。
私は口に三日月の弧を浮かべ、嗤う。
それからもう一度、クレープを注文するためにくるりと彼から背を向けた。
◇
アルカは誰よりも魔女らしく、束縛されることを嫌っていた。
しかし騙し討ちのように王に騙され、国に従事することとなったのは、いつの頃からだろうか。
戦争に勝つことを望む王は、次々に様々な人間や武器を戦場に投入していた。
徴兵された農民を始め、王国兵や竜、そして王は魔女まで徴用し始めた。
魔女は戦場における劇薬だ。竜よりも強大で――天よりも恐ろしい自然の災厄そのもの。故に劇薬。
アルカもそのとき知っていたのだ。自分は災いそのものだと。
いつから魔女であったかは問題ではない。自分が魔女だと理解していたからこそ、世俗から離れていたのに。
王は狡猾であった。ともかくアルカは従事することとなり、国のために戦場へ駆り出されることになった。
何故領土を拡げなければならないのか、それはもはや王しかわからない。とにかく、アルカはその頃、とても苛々としていたのだ。
何百人何千人何万人といった人間や兵器を淡々と、まるでなんてことのない作業のように次々屠る。
アルカは敵からも味方からも恐れられていた。しかしどうってことはない。彼女は元々一人ぼっちであった。たとえ食事を共にしても、語り合う友もいない。彼女に語り掛ける者も、もちろん皆無であった。
どんなに外見が美しくても、敵を一瞬で屠る力がある、魔女。アルカと同じように王に騙され、国に仕えることとなった魔女の間でもアルカは恐れられていた。それほど、アルカの力は強大であった。
だが、強大であるが故に、話しかけられたことはほぼ皆無であった。ほぼ、ということは、唯一その話しかけられる機会があったのである。
顔を向けたのはたまたまだった。
「頼む! この人を! この人を助けてくれ! 私の唯一の最愛なんだ!」
そういったのは、何という名前の人間だっただろうか。
今しがた亡くなったらしい躯を抱きとめている人間を見た。
私が目に留まったのは、戦場に似つかわしくない、綺麗な銀色。そして宝玉のような美しい瞳。
涙に濡れて爛々と輝いている宝石に免じて、彼女は人間らしく返事をしてあげた。
「……その人、もう死んでいるけど、生き返らせろというの?」
「なんだってする! だから! 頼む」
彼は未だ躯を抱きしめては泣き続けている。
どんなに愛しい人だったのだろう。まるで宝物だったであったように抱きとめている彼に、私はやがて興味を抱いた。
「ああ、お前」
そして思い出した。常駐テントの中で、視界の端に移っていた光景。戦場にいるにも係わらず恋愛沙汰を持ち出す有様に、少しだけ場を弁えろとか思ってしまったんだっけ。
私は他人と話をしない。だから、注意なんてことは絶対にしなかったけれど。
けれど、その目。恋人を見つめる瞳は悪くない。
私は彼の前い影を作り、彼の顎を掴んで手繰り寄せた。
「じゃあ、契約。対価はね――彼女のその愛しいと想う感情を、いつか私に向けてちょうだいな。そうしたら彼女を五体満足で、人並みの人生を歩ませてあげよう」
悪魔のように、彼の耳元で囁く。神に愛されし人間を堕落させる為に、楽園の果実を食べるよう唆す蛇のように甘く諭す。
人間は少し目を見開いたあと、力強くうなずいた。目の前に本物の悪魔がいても怯まない強さに、私は少しだけ彼のことを気に入った。
「わかった――……彼女のためなら、私はなんだって契約する」
「契約成立。じゃあ、」
ぱちん。彼女は天に向かって指を鳴らす。瞬間、躯であった死体は光り輝き、やがて生気を取り戻す。
腹から流れていた血も、口から流れて出ていた血もない。正真正銘、生きた人間。
薄らと目を開けた彼女を見て、彼は驚愕し、そして生きている歓びを全身で現していた。
私はその様子を見て、少しの羨望と、少しの期待感に胸を膨らませた。
そう。彼だったら、もしかしたら私の願いを叶えてくれるかもしれない。してくれなくてもいい。ただ私は、どんな形であれ、彼の心を弄んでみたかった。
「そうだ」
私はこのとき、ろくでもない人でなしで、また最も魔女らしい魔女だった。
無理やり使役された宮廷魔術師とは名ばかりであって。
私はどうでもいい人間に対して、唯一の愛情を向けなければならないことがどんなに惨たらしいかを知っていて、そして苦悩する人間を眺めるのがとても大好きな魔女だった。
戦争だって淡々と敵を処理してきただけではない。死んだ兵士の――残された家族のあの顔と言ったら! 味方であれ敵であれ、私はそれをみて悦を感じるような、本当にろくでなしの魔女であった。
歪んでいると思うだろう。だが、魔女という人種は、総じてそういうものなのだ。人が顔を歪ませる瞬間が――自分に対して感情が向けられているとなれば、とても嬉しく思ってしまう、歪んだ魔女の性質。
あとは、単に愛されたかったのだと思う。
あんな熱烈な瞳が、自分に向けられたらいいのになぁ、という少しの願望。
「じゃあ、あなたの部下となって、あなたの近くで見ていましょう。あぁ、恋人と過ごすのに私という雑念はいらないでしょう。『私』の存在をついでに忘れて、何も憂いもなく過ごしてあげる」
本当は二人が恋人同士という事実も忘れてあげてもいいかなと思った。だが、しない。
身体ももとに戻して、魂も黄泉から引き戻してあげたけれど、それが既に溶けかかった魂のままだなんて、私は言う義理だってない。
「……――ッ! まさか」
「はい」
ぱちん。
もう一度指を鳴らす。
そうして私は、世界の認識を掻き混ぜる。
ほんの少しの虚構なら、混ぜても構わない。真実を消し去ったなら天は怒りを顕わにするが、陽炎を映すぐらいなら、彼らは何も言わないことを私は知っていた。
彼は何もかも忘れて、ぼうっとしている。
「あ。言い忘れていた。私が気が向いたそのときまで、魔女の名前を思い出せたなら、別に対価はいらないよ。それはそれで面白そうだし」
ついさっきまで魔女の名前は国一番の恐ろしき魔女として通っていた。今は誰もが知っているとしても、誰も私がその魔女だとは思わないだろう。
彼は呻いて、それから周りを見渡している。
あれほどの契約を忘れてしまったのだ。呆然とするのも無理はない。
「私は、何を……」
「隊長! あなたの同僚が瀕死です! 早く後方に向かってください! ここは部下である私が食い止めます!」
だから私は、わざわざ作った設定を口にしてあげた。
そう、上司と部下という役割は百年前の戦場、この瞬間に決まったのだ。
役にはまりすぎてまさか百年間もこんなに酷使されるとは思わなかったけれど。
魔女との契約は因果をめぐり、必ず最悪な形で果たされる。
それをかつてのこの人は知っていただろうか。
いや、それは絶対にないと言い切れる。
だって魔女に最愛の恋人を任せるなんてそんな愚行、私を魔術師ではなく魔女と知っていたら、いや、魔女という人間を知っていたら絶対にするわけがない。
私は残念ながら宮廷魔術師という肩書きではあるが、魔女という悪辣な人間でもある。
彼は結局、悪辣な魔女が仕向けたとも知らず、彼女と最期の一時を救護室の中で過ごした。
黄泉に返れば魂は溶けて霧散する。私がしたのは、かき集めてそれらしい魂にしたってことぐらい。
最期のとき、彼女は言葉も発せなかったはずだ。
それでも、たったひと時でも、最愛の人間と過ごしたことは、彼にとっても幸せだったらしい。
今後、百年ぐらいは喪に服すのだろうか。私はもっとも身近で彼の様子を見られる唯一の人間なのだ。
私は役割に飽きるときまで、彼を観察することにする。
飽きたとき、そのときが、私が王宮を去るとき。
だってまぁ、王に騙し討ちされて士官することになったから、それぐらいは楽しんだっていいじゃないか。
◇
「ふふーん」
あれからどれぐらいの日々が過ぎただろうか。
驚いたことに、私の退職はなかったことにされたが、その代わり職場の待遇が劇的に改善された。何と驚くことなかれ。宮廷魔術師ではない、国唯一の宮廷魔女として迎え入れられることになったのである。
現王から直接、百年前の所業と謝罪もされてしまった。私を騙した王はもう死んでいるし、そんなことは構わないのだけれど。
結局私は、今は北の塔の執務室の主として働いている。
あれから国は大きく傾いたらしい。私がしてきたことは無駄ではなかったと喜んでいいのやらなんやら。
彼は魔術師長の座を私に譲り、私の直属の部下となった。
まぁ、魔術師長といっても、私のほうが力はあるのは確かなんだけれども、だからって責任を押し付けてくるのは少し違うと思うの。
その、元魔術師長と私の関係は現在どうなったかというと。
何も進展もない。
いや彼が努力をしているのはわかる。私の生活を改善しようと、食堂に無理に引っ張ってくれるし、仕事が終われば執務室から私を追い出してしまう。
しかし、そこには私が求めていた愛情? があるかはどうか別として、ともかく彼はあれから身体中に激痛が走ることはなくなったみたいだ。
契約は無事に遂行されたか分からない。
だって、契約が遂行されたと判断するのは、百年前の私なんだもの。
百年前の前の私が満足するなんて、百年前の私しか知らないのだ。魔女の過去も未来も、現身が見せる陽炎が如く、今の私とは違う。彼女たちはいたって気まぐれだから魔女は恐れられるのだ。
けれど、百年前の私に一番近いのは、間違いなく今ここに生きている私である。
なんかもう私がいいって言えば、いいんじゃないかな?
「契約、成立したことにしていいよ」
「……は?」
本当に何でもない日。塔の窓から覗く空も雲一つなく、鳥が飛び交いそよ風も心地良く吹く、本当に平和続きの――ありきたりの日常。
宮廷魔女に支給される綺麗なローブ、解れてもいない、染み一つない綺麗なローブを弄びながら、私は飽きた――と言わんばかりに独り言を呟いた。
ついでに彼が反応をしたものだから、優しい私は彼の答えに問いてあげた。
「きらきらしている若人を見ていたら、愛されるんじゃなくて、愛したくなったの。熱烈で深い、愛情をさ」
戦争もない日常だからこそ目にする光景。そのときは、グルメツアーに勤しんで気付かなかったが、街に降りるようになって気付いた。人々は笑いあって、愛を語り合いながら日々の生活を楽しんでいるのだ。
羨ましくなったのだ。熱烈に愛を語る行為に。
そもそも今になって気付いてしまったのだが、私はやはり人間に溶け込めない。
どう足掻いても人間になれないのだ。魔女という性質は、それこそどんなことをしても変えられない定めである。
けれども人間の真似事はしたい。愛されるということは人間の特権だと気付いてしまった。ならば、愛している真似だけでもしたくなってしまった。
「だから――契約は履行されたことにしよう。私の願いは叶えられた。だから、あなたはお役ごめんってことで」
魔女は他人の身をどこまでも顧みず、束縛を嫌う。
自分勝手の主張は、今回もまたすんなり通ると思い込んでいた。
「じゃあ私、行くから」
白いローブを脱いで、私はシャツ一枚にサスペンダーを付けたズボンというとてもラフな格好になった。これなら市井に紛れ込んでも、まったくもって違和感も何もないだろう。
私は自分の荷物を持って、扉を開けようとする。
彼の反応を確かめようとしなかったのは悪手だったか。
「うぉっ!?」
強い衝撃と、ともに、私は壁に押さえつけられたと理解したのは、彼の顔が間近にあったから。
彼は戦場ですら見たことない、今まで見たこともない表情をして私をただ見つめている。
赤色の紅玉がやけに爛々と輝いていることだけはわかる。
しかし思考だけは――いかに私が人間の感情をある程度読み取れることが出来ても、彼の感情や思考は魔女の私でさえ理解不能であり、まったくもって意味不明であった。
「――そんなことが、今更、許されるとでも?」
低く、唸るような掠れた声。
どんな感情が絡み合えばそんな声が出るのだろうか。戦場にいた竜でさえ、私に恐怖を抱かせるなんてことは、ついぞなかったのに――
私の背中には脂汗がだらりと垂れる。
そして、彼は低く、呻くように囁いた。
「今だからこそ、告白しましょう」
彼は私の顎をぐいと掴んで、そして上を向けた。
はっきりと息遣いさえが聞こえる距離。心臓の音が聞こえてくるじゃないかと思うぐらい重なり合った身体。
彼はしかし、私が逃げ出さないよういつの間にか脚の間に膝を割り込ませて、壁に縫い付けて過去を回想した。
「私の百年前に抱いていたのは、恋情ではなく――親愛。彼女は唯一の家族……妹だったのです」
私が勘違いしていたこと。あれは、恋人ではなく妹。
私は思っていたより世俗に疎かったらしい。テントの中で見た光景は、囃し立てていた連中を訂正しようともしなかったのは何とも彼らしいというか。
しかし百何年も勘違いしてきたせいで、私は彼をひどく怒らせた――みたいだ。
「最期を看取れたのは感謝しています……ですが」
身体を覆いかぶさって、彼の顔は影が濃く映る。彼の抱いている感情は、やっぱりわからない。ただ、私が経験したことない類のものであることだけは理解できる。
「……顔、怖いよ?」
私の口はどこか震えていた。
まさかこんなことになるなんて思わなかったのだ。
「私を捨てるなんて……――許さない」
彼はそれはとても恐ろしい形相で、私に囁きかけた。いや、そんな生易しいものではない。
脅迫めいた、何か。
捨てるなんて考えたこともなかった。だが、どんな声を投げかけても、私がここを出ていく限り、絶対に彼は納得しないのだろう。
けれども、彼がどんな感情を抱いていも、痛みではなく怒りで身を震わせていることから、これでも契約には反していないらしい。
けれども、私にこれ以上何をしろというのだ――
そんな困った感情を抱くと同時に、自業自得――と私が私に呆れた気がした。
現在の私は唯一の私だ。未来の私らしき人がそれでもどうにかなるでしょうと、対岸側の火事を眺めているかのように、頬杖をついて様が予見できたのは、少し業腹であった。
◇
「まさか北の魔女様が結婚するとはねー、しかも電撃婚」
「死ね」
養生しているの私のお見舞いにきてくれたのは、東の魔女である。伝えられている二つ名は、白い魔女――名前は確か――リリカというのだっけ。真名は知らない。魔女の真名を掴むということは命を掴むということど同義。私だって、アルカ・エルのアルカというところが、真名でないのと一緒。
リリカも勿論通り名である。だが、魔女のリリカといえば、このリリカしかいないのだから、リリカだけで十分だ。
リリカは手際よく林檎を剥いて、私に差し出してくれた。魔女らしく器用な手で兎さんを作ってくれる。一口食むと、魔女手製の林檎なのか、とても濃厚な蜜が詰まっていて、悔しいがとても美味しかった。
「あんた、昔は散々暴れまわっていたけれど、本当にお縄になっちゃったんだねぇ。いや感動感動。結婚は人生の墓場とかいうけど、まさか真名の握られるくらいにやりこめられているとは誰も思わないわー」
「死ね」
私は先月、見事な騙し討ちで、名前がアルカ・エルに改名させられた。魔女の真名を教会に提出するなんて正気の沙汰ではない。だが実際に提出されたのだ。最早戻れないところまできてしまっていた。
「そんなこと言わないでよ、最強の魔女様がこうして身を固めたんだ。私たちの希望になったんだ、誇りに思いなよ。まぁその姿は……ちょっと目に毒だけどさ」
「死ね」
現在私は、髪を下ろしていかにも病人風な格好をしている。ただ、髪を下ろしているのは服で隠せない首にある痣を隠すためである。まぁ、彼女の物言いだとそれだけではなさそうだが、そこは気にしたら負けだ。
「人間を弄ぶなんてこと、しなきゃよかったのに」
確かにこうなってしまったのは全て自分の所為である。それはわかっている。
そうなんだけれども、あの情熱な熱意を一人の人間に向けられる彼にどうしようもなく惹かれてしまったから。
だからこそ、私は契約を受け入れてしまったのだ。
「でもだってさぁ、いいなって思った人が、ちょっとでも自分に感情を向けてくれたら、それだけで奇跡にも値する、魔女にとって最高の魔法でしょう」
「それもそうねぇ」
魔女は人間にしてはあまりに寿命が長く、また身勝手すぎる生き物だ。
その気まぐれ故に、決して人間と結ばれることはない。
そう聞かされていたのだけれど、どうやら違うみたいだ。
「まぁ、初恋は実ったんだから、もうしばらく反省も含めて寝台に縛り付けられていな」
こうなった元凶は未だ仕事をしている。そもそもこの場にいたら、リリカでさえ八つ裂きにされるだろう。今の彼は、それぐらいの凶悪さがあった。
指には魔封じの指輪が嵌められている。そのせいで私はかつての戦場にいたときのような強大な魔力を示すこともできず、こうして家の寝台に縛り付けられている。
この、魔封じの指輪。魔力自体を封じ、こうしてただの人間であることを示されても、何だかそう悪くはないことだと思う。いや、魔女にとっては最悪なんだけれども! だけど。
「――……ふふっ」
「あら、まだ元気みたいね、これは旦那様にチクらないといけないみたいねぇ」
「いやそれはちょっと勘弁してくれませんか臨時宮廷魔女様」
「うーん、どうしようっかなー」
指輪には赤い紅玉が嵌め込まれている。
これは唯一の人を思い出してしまうのだから、私だって人間と同じ、割と現金な生き物だと思い知らされてしまっていた。




