風呂敷をひろげてしまったよ。なんだかちょっと設定できてきました?
ジルフはロックルの痴態に、憤りながら宿舎に向かって歩いていた。
月に雲がかかったと見れば、すぐさま吹かれてしまうほど風が強い。
いつもなら、女子寮からパンツか女の子でも飛ばされてこないかな、
ジルフは夢想したものだが。
そんなラッキーを考える気も起きないほど、腹が立っていた。
おっぱい魔神、あんなはっきりとした組織からの刺客に鼻を伸ばしやがって、
ちくしょう。
これで僕まで巻きこまれたら、どうするんだ……
もの思いに耽るジルフに、暗闇のむこうから石鹸の匂いが迫ってくる。
「あ!?」
滑るような悲鳴に、ドサッと袋が落ちる音。
ジルフは突然の衝撃に目をまん丸にして、そのまま前のめりに倒れた。
組織からの襲撃かとあたりを見回してみるが、
ちょろちょろとした小川が闇をなおさら寂しいものにするだけ。
影のひとつも近くにない。
それよりも……倒れた地面が柔らかい。
これまでに体験したことがないくらいふんわりと、優しく包みこまれる。
心地よさに引きこまれそうになりながら、
敵の策略かとはっと目を見開けば、下からうめき声が聞こえる。
「ううう」
まさか、おっぱい魔神。
ジルフの想像はふくらんでいく。
見え透いた誘惑。童貞のロックルには効くが、僕には幼稚すぎて意味がない。
大人というのは慎ましく、余分なものを好まないのだ。
まだまだお子ちゃまのロックルは、おっぱいが恋しいみたい。
しかし僕にそんなもの必要ない。
ビバ貧乳、貧乳こそが富であり、富こそが力でもある。
おっぱい魔神、ここに敗れり。
余裕の表情を浮かべて、ジルフは紳士然と手を差しのべた。
「大丈夫ですか」
「気をつけなさいよ!」
汚らわしい蝿とはジルフの手のことらしい。
払いのけられる。
「えっと、おっぱい魔神?」
「え……いまなんて」
立ちあがった女の子を見て、
おっぱい魔神の刺客ではないとジルフは理解した。
つややかに流れる黒髪に、華奢な身体を制服に包み、すらりと伸びた両手足。
そこにおっぱいという余分な脂肪が入る余地はなかった。
首から腰まですとんと、ロックルほどではないが硬そうだ。
「ああ、おっぱい違いでした」
「おっぱ――は?」
不審そうに顔をあげる少女、それは。
「エリス、さ、ん?」
「なんで名前を」
かき分けた髪の間からエリスの大きな瞳が現れる。
「あっ……さっきの、天災野郎」
「天才野郎?」
「店長に怒られたんだから。掃除させられるし、ほんっっと天災」
「褒められてます……?」
これほどの美少女はエリスしかいないことを分かっていながらも。
憎々しげな態度を取る目の前の少女と、
カフェの店員として笑顔を振りまく想像のエリスとが一致しない。
「なんなのよ! さっきから」
清楚なエリスさんイメージががらがら崩れていく音を聞きながら、
これはこれでありだなとジルフは思い始めた。
「あ、あの、握手していただいても」
服で汗をぬぐっていると、倒れたときの感触がよみがえってくる。
繊細な、けれど張りつく手ざわりの、奥底にある確かな弾力。
おおエリス、どうしてエリスはスケベなの。
にやけてゆくジルフ。悪寒を感じて一歩ずつ後ずさりするエリス。
距離をつめるジルフ。変態に襲われる恐怖から声が出ないエリス。
「ひっ、いっっ」
「ど、どうしたんですかエリスさん」
喉をひきつらせて涙がにじむエリスを見て、
ジルフはまさか敵が後ろにいるのでは、と振りかえるが。
そこには誰もいない。
「大丈夫ですよ、僕が守ってみせます」
両手をひろげてにっこりジルフは微笑んだ。
入学式で胸のながれに魅せられて、すってんころり絶壁を滑ってしまったのは僕の心。
そのまま転り続けること三ヶ月、
ついにここまで来た。なんという運命の出会い。
この貧乳はいつか見た貧乳。
ああ、そうだよ。乳輪の花が咲いている。
あの貧乳はいつか見た貧乳。
ああ、そうだよ。巨乳の乳は垂れている。
「や、やめって」
「誰もいませんって、大丈夫ですよ」
もう一度、ジルフは振りかえる。
「あ」
低い垣根から目だけを出して、きょろきょろしている小動物と視線がぶつかった。
小動物はちょこまかかけてくる。
「君、なにやってるの」
つぶらな瞳に、ちいさな口。おかっぱ頭の少女がジルフの服をひっぱる。
「フウカぁ」
「エリスちゃん。この小っさい子が苛めてくるの?」
「小っさいのはそっち」
おかっぱ少女は首を傾げる。
その身長は学生服を着ているから、なんとか高校生だと分かるが、
もしも私服なら十代未満に見られて当然である。
同年代の男のなかで一番小さいジルフに比べても、さらに三十センチは低かった。
確かに、確かに身長は小さいのではある。
しかし狭い胸の土地いっぱいに、大きな山が二つ並んでいた。
これじゃあ窮屈すぎる、とジルフは思う。
山あり谷あり、休みがなし。
そんなの疲れてしまう。
こんなの貧しいよ、おっぱいはあれど貧しいよ。
大きな心を育てるだけの耕地が余ってないじゃないか。
さあエリスの心に種を蒔こう。
「僕が守ってみせます」
少女はジルフの方を一瞥するもなにも言わず、
切りそろえた髪の端を揺らして、くるりと一回転をした。
その目のなかに怪しい光が鈍く宿っているのは、
ジルフの角度からは隠れて見えなかった。
少女は小鹿みたいに鼻をひくひくさせる。
「うん! 変態のにおいだね」
「変態とは失礼な」
「変態よ! 変態」
これまで声にならなかった分が、蛇口を力いっぱい開けたようにあふれ出す。
「エリスちゃん、その調子」
「なんで……」
変態と言われる理由がジルフには分からなかった。
ただエリスさんの胸を褒め称えていただけのはず。
なにも手を出していない。もしかしたら、変態は褒め言葉なのか?
「変態!」
「ありがとうございます」
「変態!」
「ありがとうございます」
「へっ、ん、ひぅ」
予期せぬ反応にエリスの言葉がふたたび詰まってしまう。
ありがとうございますと頭を下げるたびに、ジルフの心は充たされていく。
「餅つきのリズムだね、アンナちゃん」
パッと少女はジルフの方を向いて、
「えっと。変態くん、名前は?」
「ありがと――」
「だから、なまえっ」
「えっ、はい。ジルフ=ストラルクです!」
お辞儀をしたままのジルフの髪を、少女はいとおしげに良い子良い子した。
ペットの頭を撫でてあげるように。
「わたしはフウカ、よろしくね」
「はい」
「ジルフ君さ、どうして猥褻をするの」
「してないよ!」
「はあ、エリスちゃんに聞こうか。誰が猥褻犯でしょーか!」
震えながらエリスはなんとか力を振り絞って、右手をジルフの方に向ける。
ジルフは地面に額をこすりつけた。
「どうかお許しを。その広々とした草原に飼っているおっぱいに」
「ひっ……」
「君。もうわざとでしょ」
褒めているつもりがエリスを苦しめてしまう、
これがジレンマという奴か。
ジルフは貧乳を劣っているとする世の風潮を恨んだ。
僕が讃えるたびに、エリスさんは自分の胸のなさを自覚してつらいんだ。
美しい草原に気がついていないんだ。
山も谷もない、なんてよい見晴らしでしょうか。
ああ、あそこに火柱が……あは、乳首でございましたか。
「お手っ」
頭上の声に顔をあげると、目の高さにフウカの手が開いてある。
きょとんと見上げるジルフの顔。
「えーーっと」
「お手」
「はい」
ポスンと乗せたジルフの手はフウカより大きかった。
「お手」
「はい」
「お手」
もしここになにも知らずに通りかかった人がいれば、
平和な優しい小動物の戯れ合いだと思うだろう。
しかし実際は、いまにもジルフという小動物を捕食しようとするフウカ、
それは肉食動物の雰囲気。
良く出来ましたァ。
フウカは反対側の手でジルフの頭をもう一度撫でた。
「良い毛並みだね」
「毛並み……え?」
「じゃあ、最後にもう一度! お手!」
回数にして十二回。
従順になったジルフの手をぎゅっと握りしめると、フウカは強く後ろにひいた。
勢いよく立ち上がるジルフ、汚れた膝から砂利が落ちる。
そしてそのままジルフを抱きよせ耳元で……
「きゃあああああ」
甲高い悲鳴をだした。
なにごとか一斉に開いた民家の窓に向かって助けを求めるフウカ。
騒動を理解できずにフウカの手を取ったままうろうろするジルフ。
その姿はいたいけな少女にいたずらをする
極悪非道なロリコンの化身そのままだった。
「ちがうんです。ちがうんです」
「きゃあああ、おそわれるうううっ」
悲鳴にすべてが上書きされてしまう。
いつの間にか人垣が出来上がる。
そのなかには冒険者の姿もあり、ロリコンの化身を女の子から隔離したら
すぐに討伐しようと意気込んでいた。
壁に追いつめられたジルフに逃げ場はなかった。
「聞いてください。認識の違い、そう間違いなんです。皆さんにも経験あるでしょ、ね。僕は皆さんの間違いを訂正したい。貧乳は優れているんです」
必死の演説も無意味に、目は抜け落ちてしまいそうなほど泳いだ。
孤軍奮闘することも出来ず、孤軍はただのぼっちとして大勢になぶられるしかない。
そうジルフが腹をくくったそのとき、
「おーい、お前さんは」
人垣の向こうで聞き慣れた声がした。
にょっぽりと頭だけが影になって浮かび、有象無象を一かきで五人ほど払いのける。
「ちょっと、すみませんね」
ジルフの前に進み出たロックルは
泣いているフウカとジルフを見比べため息をついた。
「お前さん、とうとうやっちまったか」
「違うよ、はめられちゃって」
「ほう」
ロックルはさてどうしようか、と沈黙した。
追いつめられているジルフに、泣いている小さい子。
女の子のそばで戸惑っているのは……エリス?
ジルフがエリスではなく、胸がある方を襲った?
ロックルは納得した。
どうやら本当にジルフははめられているみたいだと。
ジルフがエリスを目の前にして別の子を襲うはずがない。
「どうやら、その通りみたいだな」
「ロック!」
心が通い合ったとジルフは感激した。
涙がこんこんと湧き出て、それはそれは酷い有様だった。
さすが親友ロックル、いつだって僕の身方じゃないか。
ジルフは事情を説明する。
エリスと偶然ぶつかったこと、いきなり泣き出したこと。
たぶんそれは、自分の胸の小ささに絶望したから。
憎い、この世の風潮が憎い。
貧乳こそ正義である、とエリスを元気つけようとしたら、
フウカの策略にはまって囲まれてしまったこと。
「世の中はいつだって大きいものが力を持つんだ。
そして自分に都合のよいルールを決め、正しさを盾に、小さいものを抑圧する」
「お前さんは……ちゃんとエリスに謝っておけよ」
ジルフの抗議を無視してロックルはフウカの前に立った。
フウカは首の骨が折れそうなほどあごを上げた。
「友だちのためとはいえ、嘘はよくないな」
「テヘっ、ごめんなさい」
すべての人をほんわかさせる笑みを作ると、
フウカはぺこりとお辞儀をした。
「エリスちゃん大丈夫?」
「すまんな、うちのが」
「え……」
「大丈夫か?」
エリスはぼうっと、抜け殻らしい目つきでロックルを見た。
「……なんで、机飛ばしが?」
「おい。ジルフ、謝れ」
「胸が小さいの気にしてたんですよね、ごめんなさい」
その言葉を聞いて、
エリスの抜けていた魂は身体に舞い戻ってパチンと弾けた。
涙がばしゃばしゃ滝となって地面を叩く。
「あの変態っ。ひぐっ、うう」
「いやっちがっ――」
涙の滝は泡立って、エリス玉が強風に舞う。
「というわけだ。ジルフを連れていってください」
「えっ? なんで」
ジルフはそのまま首根っこを捕まれ、
街の方角に勢いよく引きずられていった。
声はもう誰にも届かない。ズボンが破け、尻も破ける。
そして、尻の皮が破れて血が噴出したころ――
――服だけを残してジルフは消えた。