今日、僕は罪人になった。
○「あの子はやめた方がいい。僕は確かにそう言った。」
「光一、あのファミレス、知っているだろ。街道沿いの。最近行ったか?」
大学のカフェテリアで、間島が僕にそう聞いてきた。白い細身の長袖Tシャツにダメージジーンズ。背丈があるからそれなりに見えるのはうらやましい。
「うん、行ったよ。というか、バイト先から近いから、ゼミのレジュメまとめるのによく夜行くよ。それがどうかした?」
2限目の退屈な一般教養「経済史」の授業で老教授のぼそぼそしゃべる声をノートした後の6月の気だるい昼下がりだ。いい天気だからか、いつもより学生が少ない。
「あそこ、俺も最近夜行ったんだけど、ウエイトレスのレベル高いな」
アイスコーヒーのグラスのふちを撫でながら、間島が目を輝かせていた。撫でる手つきがいやらしいなとぼんやりと思いながら、僕も同じことを感じていることを、しかし気恥ずかしいので生返事で返した。
「ここのところの合コン、あんまり当たりなかったから、久しぶりにときめいたよ」
それな、とでも返せばいいのだろうか、僕はあまりその表現が好きじゃないので、ふーん、と興味なさそうに相槌した。
「でも、間島はエリちゃんがいるんじゃないの?」
「あー、1か月くらい前にけんかしてから、LINE既読にならないんだよ。終わりじゃね?」
体育会系女子ラクロス部だから、気が強いんだよね、と一瞬不機嫌そうにあさっての方向に目を向けた。
エリ。僕のストライクゾーンではなかったので、顔もぼんやりとしか思い出せないけど、何の映画を見るかで言い合いになって、そのついでで別の子とデートしていたのを友だちが見たんだけどあれはなんなの、と問い詰められ、間島がキレて、けんか別れしたらしい。
「浮気は身を滅ぼすよ」
なんて、適当な言葉を投げかけた。
「浮気じゃないよ。俺はいつだって本気だよ。エリと会う時はエリに本気。他の子と会う時はその子に本気。」
「それって、ダメな男の言い訳みたい。いつか刺されるぞ」
僕は本気でそう思ったわけではないが、なんとなく口に出した。
それな、とストローを加えたまま間島が返事をした。
「いやー、最近なんとなく殺気感じるんだよ。俺も年貢の納め時かなぁ」
殺気なんて、普通の人は感じないぞと思いながら、間島を見ると、案外真剣な目をしていた。
「きみ、これを機会に、更生したまえ」
僕は、1年生当時の必修語学の山村教授の、なぜか授業と無関係に倫理的なことに手厳しいことを言うときの口真似をした。
「でも、おとといの夜の時間にいた、あの黒髪のポニテの子、かわいいよな」
気にせず受け流しつつ、間島がちょっと遠い目をぎらつかせる。
どきっとした。
普段は僕と間島の女の子のタイプはあまりかぶらない。間島はエリのような、割と活動的な女の子と一緒にいることが多い。だいたい明るい茶髪の、軽くパーマをかけているような感じで、高校の頃はスクールカーストの上位にいたような子ばかりだ。そんな子たちとうまく調子を合わせているのを見ると、大学に入ってから彼女がいることがほとんど途切れたことがない、という自慢話もあながち嘘ではないらしい。
対照的に、僕は大人しめで控えめな女の子の方がタイプで、コンビニのレジでそんなアルバイトの子からおずおずと小さな声で「あ、ありがとうございました」と言われるとときめいてしまう。男子校だったから、マンガやドラマで理想化しすぎたのかもしれない。
あのファミレスの夜の時間はここのところシフトが固定しているようで、あの時間に黒髪の子は、僕が最近いいなと思っている子しかいない。
思わず反射的に、
「やめた方がいいよ」
と言ってしまった。
「うん、やめた方がいい」
「なんで?」
思いがけない返事だったらしく、間島は一瞬ぽかーんとしたすぐそのあと、
「げ。もしかして、男いる感じ?」
「そんなんじゃないけど」
僕は口ごもる。ちょっと口の中に苦い味が広がった。
「間島のタイプじゃないよね。なんか、隣に歩いてるのイメージできない」
心配ご無用!と、妙に芝居がかった節回しで、
「俺、最近割とタイプ変わってきてるんだよね。月9の影響かな。割と、お嬢さんOL系っていいなって。清楚なお姉さんに目覚めたってか」
僕は見てなかったドラマだけど、間島は説明をすっ飛ばして続ける。
「でも、あの子年下か同いくらいだよね」
「気にしない気にしない!」
いや、間島が気にするかどうかなんだけど、と小声で言うが、聞こえないのかそのまましゃべり続ける。
「あの子にお近づきになれないかな。光一、しゃべったことある?」
否定すればよかったのに、古参ファン心理か思わずむきになってしまった。
「もちろんあるよ。僕行くとき、だいたい彼女シフトらしいんだよ」
「まじで?やりぃ!これで一歩成功に近づいた!」
間島が成功というと、性交に聞こえてしまい、いやな気分になった。僕は空になった缶コーヒーを飲むふりをしながら、そろそろ行かないと、とつぶやいた。
「光一ぃ、一緒に行ってくれよー。声かけてみようぜ」
僕はつとめて平静を保っているようにしながら、
「いや、やめとくよ。よく行くところだし、避けられると気まずくなるから」
そう言って、リュックを背負った。
「じゃあ、そろそろ授業始まるし、行くよ」
「おお。またな」
間島が右手を上げひらひらさせた。カフェテリアの出入り口そばで振り返ると、もう別のグループの輪に入り、大げさな身振りで何か楽しそうに話していた。
僕はほっとため息をついて、3限の、遅刻にうるさい岡田教授の社会学基礎へ向かった。
「序章~後悔。しかし、何を後悔すればいいのだろう。」
悪いことをしたとは思っていない。思えない。しかし、どうやら悪いことをしよう(・・・)と(・)した(・・)ことになっているらしい。こんなバカバカしい裁判でも、見に来る物好きがいるなんて、こんなことになる前は思ってもいなかった。中には記者とおぼしき人もいるようだ。まったく何が楽しいのだろう。
そもそも、悪いことはして(・・)いない(・・・)。だって、気になる女の子に声をかけようとするのは自然なことだろう?むしろ、引っ込み思案の僕を知っている人からは「よくやった」と褒められこそすれ、それが罰せられなくてはいけないことだなんて、思いもしなかった。ヤクザの情婦にモーションをかけて半殺しに遭うほうがまだわからなくはない。しかし、僕のことは日本国家が総力を挙げて罪としなくてはならないことなのだろうか。わけがわからない。
間島が悪いのか。あいつも僕と同じとき同じ場所で捕まった。しかし、なぜかすぐ釈放されたらしい。なんで?むしろあいつが主犯みたいなものじゃないか。僕はついていっただけだ。むしろ、女癖の悪いあいつから彼女を守ろうとも思っていたくらいなのに。
こんなことだから少子化が進むのだ。晩婚化に、未婚化になるのだ。おちおち女の子を口説くこともできない世の中だなんて、知らなかった。
ありふれたことのはずだ。こんなことでテレビや新聞に出たり、SNSで騒がれたりすることもないのだろう。僕にとっては一大事だが、社会にとっては取るに足りないことなのだ。倒錯している。僕はまともだ。世の中がおかしくなっているのだ。僕は悪くない。悪くない。悪いのは時代だ。社会だ。
「いかにも悪いことを考えそうな面をしてやがる。自分という殻にこもって、都合のいいように世の中を解釈し続けてきたんだろう。お前みたいな悪いことを考えるヤツがいるから、俺たちの仕事が減らないんだ」
二人目の、中年の検事だったか、取調室でそのようなことを言っていた。悪いことを考えるだけで?悪いことをしてないのに?僕には意味がわからなかった。それよりも、直前まできつい煙草を吸っていたらしく、においが気になってしょうがなかった。なんとか咳き込むのを抑えた。
確かに僕は自己表現が苦手だ。ゼミの発表でもあがってしまう。きちっと準備しないと、何を言っているのかわからなくなる。気になる女の子と話すときもそうだ。高校が男子校だったから、あの頃は塾でちょっと話すくらいだけど、それでもつっかえつっかえになってしまっていた。
そんな僕が女の子に話しかけようとしたことで罪人となった話だ。
○「物語のきっかけはありふれている。」
退屈な社会学の授業を聞きながら、僕は例の女性店員-吉村さんというらしい-のことを思い返していた。
ありふれたファミリーレストランだ。どこかの大手スーパーの系列と近いのだかなんだかよくわからないが、このあたりではよく目にする。店内の雰囲気もいたって普通。ただ、万年人手不足らしく、大して客入りがしていないときでも従業員が忙しそうにしていることが多い。
僕が行くのは、塾講師のアルバイトが終わってからだから、火曜日の21時過ぎくらい。水曜2限のゼミで、今期は毎週のようにレジュメを発表する羽目になってしまい、ここ2か月ほどは毎週来ている。タブレットPCで、サイトから集めた記事を適当に貼り付けて作るだけだが、それでも日付が変わる頃まで、ドリンク飲み放題のお世話になっている。
ファミレスの割引チケットを忘れてちょっと憂鬱だった先月のある火曜日、いつものように四人席(僕の指定席は店内入ってすぐ右手だ。ドリンクスタンドが近いからだ)で適当なレジュメを適当に作っていたとき、向かいのシートに陣取っていた親子連れの子どもが、転んだ表紙に小さな手で運んでいたオレンジジュースを床にぶちまけた。
「大丈夫ですか、お客様!」
すぐ近くにいた吉村さん(名札で見ただけで、下の名前はわからなかった)が、駆けつけて、子どもに声をかける。母親らしきでっぷりしたおばさんは、
「なにあんた、ぐずやってんの!」
と子どもをしかりつける。ぐずるが泣かないのは、まあ偉いのだろう。幸い、プラスチックのカップなので割れたりはしなかったが、なみなみとついでいたオレンジジュースは割と広範囲に広がった。僕のフェイクレザーの安物靴にも派手にかかったが、ズボンは無事だった。こぼれたほうに他の客はおらず、“被害者”は僕だけだった。
僕は固まってしまった。突然の事態に僕は弱い。どうしよう、とりあえず拭かなきゃ、とようやく思ったとき、吉村さん(仮)が、
「お客様も大丈夫ですか?」
と声をかけてくれた。大丈夫です、大したことないんで、と小さな声で答えると、とりあえず拭くもの持ってきます、と奥へ速足で向かってくれた。
ほどなくして、雑巾とお手拭きをいくつか持ってきて、僕にお手拭きを3枚渡してくれた。一瞬遅れてからありがとう、とぼそっと言ったが、彼女はもう床を拭きにかかっていた。
すらっとした足をきれいに揃えて折り曲げ、懸命に急いで、しかししっかりと拭こうとする一生懸命さに、なぜか突然、僕は心を奪われた。
紺色の制服のタイトスカートから伸びるきれいな長い脚。生足なのだろうか、きめ細かな肌、ほっそりとした足首、気持ち小さめのローファーの靴。僕が恋に落ちたのは、その一つ一つだったのか、艶めかしい脚だったのか、その集合体としての彼女だったのか、そのしぐさだったのか、一生懸命さだったのか。
別に、顔が好みだったわけではない。黒髪で面長の、鼻筋が通っている、いわゆる美人顔なのだが、むしろ僕は小柄な丸っこい、人懐っこい顔のほうが好きだ。だから、自分でもちょっと意外だった。
僕はかがんで吉村さんが持ってきてくれたお手拭きで靴を拭いた。シートに座って拭きながらちらっと彼女の方を見ると、タイトスカートが少しずり上がっているのが見えて、頬が熱くなるのを感じた。心臓がどきどきしている。ジュースをこぼした子どもが申し訳なさそうに、こちらを見ていた。なぜか罪悪感を覚え、目をそらした。
帰り際、レジには偶然、吉村さんが立っていた。会計をしながら、先ほどは大丈夫でしたか?と気遣ってくれる。はい、大丈夫です、と言った声がちょっと上ずってしまったが、あえておどけていると受け止めてくれたようで、にっこり微笑んで、
「またお越しください。ありがとうございました!」
と言ってくれた。深夜の帰り道、自転車を気持ち早くこいでみた。世の中がちょっとだけ輝いて見えた。月は見えなかった。でも、きれいだろうと思った。
いくら恋をしても、僕は毎日通うようなことはしたくなかった。少しずつ、自然と話ができるように、できる限り不自然さを排除しようとした。だから、次にファミレスに行ったのはいつものように翌週の火曜日のいつもの時間だった。
「いらっしゃいませ!!何名様ですか?」
残念ながら、迎えてくれたのは、高校球児のようにさわやかに挨拶をしてくれた若い男性店員だった。がっかりしながら、一人です、禁煙席で、というと、お好きなお席へどうぞ、と促してくれ、その日もいつもの、入口右手の四人席に陣取った。席に座るまでちょっときょろきょろして彼女がフロアにいないことに気落ちしつついつものように作業をしていると、キッチンの方で店長らしき人が若い店員を、掃除の仕方か何かで怒鳴っているのが聞こえた。怒鳴る人がいる職場はいやだな、と思ってなんとなく顔を上げると、たまたま通りかかった吉村さんと目が合った。
軽く会釈され、僕もちょっと頭を下げた。この日はそれだけしかできなかった。それでも幸せだった。
その次の週くらいから、なんとなく軽く話せるようになった。帰りのレジで、今日もお仕事ですか?と言われ、いや大学のゼミのレジュメ作ってて、と言うことができたとか、今日はコーヒーの機械が調子悪くてすみません、いえいえ、夜飲むと寝れなくなるから飲まないようにしてるんです、とかその程度だけど、嬉しかった。他の店員たちがちらっとこっちを見ていても、気にならないくらい舞い上がっていた。気にしてもよかった。
○「女子大生ミズキの場合。」
「岡田センセーの試験は、とりあえずマックス・ウエーバー褒めとけばいいのよ。カンタンカンタン!」
こともなげに、僕の横で同じ語学クラスのミズキが薄い、ほとんど水のウイスキーにちょっと口をつける。短めの明るい茶髪と黒いパンツは活発的に見えるが、ちょっとフリルのついたベージュの長袖シャツはフェミニンな感じを漂わせている。とてもミズキらしい装いだった。
社会学基礎の授業が終わった放課後、サークル仲間二十名くらいで飲みに来た。そろそろ試験範囲が発表される時期だっただけに、去年同じ講義を履修していたミズキの言葉は心強かった。
「そうなんだ。ちょっとほっとしたよ。割と範囲広いからね」
僕がそう言うのを小耳にはさんだのか、一度も出席していない田宮が少し離れた席からやって来て、
「その情報、マジありがたいな。光一、俺も単位なんとかしたいし、ノートのコピー頼むよ」
と、ビールを両手で恭しく僕に注ぎながら、上目遣いで言ってきた。ウインクでもしそうな勢いだ。
「男の上目遣いってキモイね」
ミズキは田宮をそうからかって、けたけた笑った。
「ひどいなぁ。俺、割と本気なんだよ。進級やべえし」
じゃあ、授業出ろよ、と正論を言うと、頼んだからな、と言い残して元の席へ戻っていった。
そのまま、なんとなくその場では、ミズキと二人でしゃべることになった。
「で、光一クン、最近どうなのよ。気になる女の子とかできた?」
興味本位で、僕の恋愛事情に首を突っ込んでくる。というより、誰の恋愛関係にも目ざとく情報を集めようとする。特に間を取り持つようなことをするわけではなく、純粋に趣味らしい。サバサバした性格からか、だからと言ってうざがられるわけでもなく、サークル内の位置を確立している。
「どうって。まあ、うん」
僕はなんとなく気恥ずかしくて、でも否定はしなかった。嘘をつくのは不誠実だと思ったからだ。
すると、ミズキが目を輝かせて僕の方に体を向けてきた。
「えー!なにそれ、話して、教えて、聞かせて!」
畳みかけてきた。こうした話になると、周りの連中も寄ってたかって質問攻めにしてきそうだが、このときはたまたまそれぞれの会話に夢中のようで、僕たちは二人だけで話し続けた。
「えっと、まあ、まだアクションはかけてないんだけど」
ミズキは女子高出身だが、あっけらかんとして男子みたいなところもあって、僕は話しやすかった。ふと、どうしたらいいか相談してみようと思った。
「あの、大学の裏門から並木道を駅と反対方向へまっすぐ行ったところにファミレスあるじゃん。あそこの店員さん」
一瞬頭の中に地図を思い浮かべる様子の後、へー!あんなところで!と目を丸くする。場所なんて関係ないじゃないか、と心の中でだけ反論する。
「あそこ、制服かわいいし近いから、うちの大学の女子、割とバイトしてんだよね」
何人か顔と名前を思い出しているのか、ちょっと間があってから、
「リカコとかサオリじゃないよね」
「あの子らだったら、僕だって顔見てすぐわかるよ。見たことないからうちの大学じゃないと思う。うちの大学あんまり大きいところじゃないから、学食か本屋かカフェテリアかで見かけてもよさそうだよね」
ふーん。ミズキはにやにやしながらから揚げを頬張った。
「ね、どんな子?」
やけに食いつくのは、アルコールの力のせいだろうか(たいして強くないのに、飲むのは好きみたいだ)。他に話題がないからだろうか。僕は簡単に、というか知っていることがほとんどないので、ごく簡単に顔かたちや背格好を説明した。ただ、気になるようになった直接のきっかけのことは言わなかった。雑巾で床を拭いている姿にどきどきした、なんて言ったら、ドン引きされるだろうし、足がきれいだったなんて言ったら、脚フェチの噂をすぐ流されるだろう。
「で、告るの?どうするの?」
「まだだよ。それが、間島も狙ってるみたいで、ちょっと困ってるんだよね」
「あー、間島クンかあ。そりゃやばいわ」
ミズキはちょっと間をおいて、
「エリの話、聞いた?文学部の。ちょっとひどくない?あたし、浮気する男許せないし」
「あ、うん、ちょっと聞いたけど、間島からだから、どこまでホントかよくわかんない」
「だよね。人間、自分のこと正当化するのは誰でも得意だからなー」
なんだか少し遠くを見つめる様子で、ミズキが語りだした。
「あたし、高校時代、あ、女子高だったんだけど、駅の向こうの男子校のイッコ上の人と半年くらい付き合ってたんだよね。文化祭で声かけられて、グループで遊んでるうちになんとなくそういうことになって。あるとき『俺と付き合ってくれ!』って、真顔で言われて、なんか爆笑しちゃって、爆笑しながらうれし涙で『いいよ!』って言ったの。でも、別れちゃった。きっかけは、あいつの浮気!地元の映画館で友だちと映画見た後近くのカフェにお茶しに入ったら、あいつ知らない女子と仲良さそうに話してんだよね。すっごいかわいい子。あたし切れちゃって、なんなのこの子!あたしがいるのにふざけないでよ!って。いや、妹だよ!って、あたふたしながら言ってたけど、嘘つくなんてひどい!って怒ってお店出てって、それっきり。速攻でLINEのIDも消して、着拒しちゃった。浮気って、あたし生理的にダメなんだよね」
一気にまくしたててから、ふんと鼻を鳴らし、また薄い水割りに口を付けた。
僕は枝豆をきれいに房から取り出しながら、聞いていた。
「それ、ホントに妹かもよ」
「あたしもちょっとしてからそうかもって思ったけど、もう気まずくって、どうでもいいや、ってなっちゃった」
高校の頃ってピュアだったからねー、と冗談めかして言う。
「でも、ミズキには田村先輩がいるから、今はいいんじゃん」
僕は、ミズキがサークルに入ってすぐから付き合っている先輩の名前を出した。割とイケメンなのに生真面目で、でも、新入生だったミズキに一目ぼれして、ミズキもまんざらでもなく、いつの間にかサークル公認カップルになっていた。
「あー、あれね」
グラスの氷をカラカラ回しながら、いやもうほとんど溶けていたが、回しているようなふりをしながら、
「先週、別れちゃった」
衝撃的なことを言い出した。
「え、ホント?あんなに仲良さそうだったのに」
それで田村先輩、今日来てなかったんだ。就活に忙しいからだけじゃないんだ。
「どうして別れたの?って、みんなにまだ言ってないよね」
「言い出しにくいから。女子は知ってる子もいるけど、サークル内だったからね」
さっきの、女子高時代の武勇伝よりも口が重くなってきた。僕がうまく引き出すことでも期待しているのだろうか。
「もしかして、・・・浮気・・・された?」
ミズキは一瞬目を丸くして、
「まあ、でもこの文脈だったら、鈍い光一クンでもわかっちゃうか」
珍しくしんみりしながら、また語りだした。
「いや、あたしも高校時代を反省して、すぐ切れて着拒したりすることはしないんだけど、さすがに現場おさえちゃね。けんちゃん、あ、田村先輩のことね、彼、見かけによらず割と強引で、『俺と付き合っちゃえよ』って言いながらキスされて、あたしOKしちゃったんだよね。で、先輩は二駅となりのアパートに住んでるんだけど、週一くらいであたし泊まってたの。ほら、あたし女子ハイツ住んでるじゃん。男は入れないから。で、だいたいバイト終わりの金曜日の夜に行ってたのね。先々週の月曜日だったかなぁ、飲み会終わった後、急に会いたくなったから、びっくりさせようと思って、10時くらいに行ったんだよね。玄関のインターホンで『来ちゃった♡』って。そしたら、中でバタバタしてて、おかしいなと思って、合いかぎで開けたら、彼、裸で出てきて。『いや、これ、違うんだよ、ほら』とかなんだかわけのわからないこと言ってて、あたしピンときて、部屋に入ったら、1年のミワちゃんがシーツにくるまってて。『違うんです、ミズキ先輩、違うんです・・・』って言ってたけど、かわいいブラとかパンツとかサマンサベガだかのかばんとか転がってたんだ。あー、これ修羅場だー、ってなんか冷静になっちゃって」
え、ミワちゃんて、あそこにいるよね、と向こうを指さすと、いるいる!でも、あれからあたしと目を合わさないよ、と敵意のある目線を向こうの方に向けた。間島たちとなにかの話題で盛り上がっていた。彼女、間島といやに距離が近い。これが小悪魔というやつか、と思った。
「なんか、急に冷めちゃって、無言で出てっちゃった。言い訳してくるかなって思って、連絡先削除はしなかったんだけど、しばらく連絡なくて。先週、サークル行くの気まずくて、授業終わってから今日は休もうと教室を出たら、たまたま田村先輩とばったり会ったのね。うわ、どうしよう、と思ったら、向こうから、『ごめん、言い訳しない。別れよう』って。たぶん、待ち伏せしてたんだと思う。あたし、『うん』ってだけ言った。何言っていいかわからなかったけど、とにかく騒ぐのだけはやめよう、あたしもうハタチの大人だし!って思ってた」
今日はやけに語るなあと思ったら、おそらくこのあたりの話を誰かに聞いてほしかったのだろう。
ちょっと自分語りが過ぎたと急に反省したのか、居住まいを正して、
「でも、光一クン、これだけは言わせて。あたしもちろん浮気は許せないけど、それよりも何よりも、女子から『好き!』って言わせる男ってサイテーだと思う。まあ、つまり、告るのは男子の仕事ってこと!」
「なんか、突然話題変わるなあ」
「浮気するのも嫌いだしされるのもイヤだけど、高校時代のカレシも田村先輩も、ちゃんと自分から告ってきたのはよかったと思う」
あんなに薄く水割り作ってたのに、酔っぱらっているようで、いつもよりさらに冗舌だ。
「だから、光一クンも、ちゃんと告りなさい!あ、あたしはダメよ。しばらくカレシとかいいや、って思ってるから。あと、浮気者は許さないから、間島クンなんかに負けちゃ絶対だめだからね!」
心にもないことを言いながらも、大事なことを言われた気がする。すごく遠回しに、もしかすると酔ったふりまでして、僕の背中を押してくれたのかもしれない。間島より僕を応援してくれる、という気持ちだと受け止めた。
二次会行く人―、と幹事の声が聞こえたが、今日はカラオケの気分じゃなかったので、そっちに行くのはよそうと思った。ミズキもミワちゃんも二次会に行くそうだ。修羅場の再現になりませんように。少しだけ本気でそう思った。たまたま帰り道が間島と一緒になり、マックでも行こうぜという話になった。
マックの二階席は、半分くらい客が入っていた。僕たちは禁煙席の、階段上がってすぐの固い椅子席に座った。僕の椅子はガタガタしていたが、長居するわけでもないし、気にしないようにした。
「間島、ミワちゃんといい雰囲気だったじゃん」
「お、よく見てるなあ。でも、田村先輩と付き合うことになったってさ。ほら、ミズキ、あれで束縛強いから、先輩疲れちゃったんだって」
同じ事実でも、語る人によって違うんだなとぼんやり思った。
「俺、ミワちゃんみたいなのはなんか怖いんだよね。小悪魔に手玉に取られるみたいで」
ふーん、間島でもそう思うのか。僕は、ホットコーヒーを一口飲んだ。
「あの街道沿いのファミレスの黒髪ちゃんみたいな、清楚な子のほうが今はいいかな」
どきっとした。遅かれ早かれその話題は出るだろうなとは思ったが、いきなりだ。
「あの子、真面目そうだから、間島みたいに浮気性だと、マジで刺されるよ」
それも、本望!と間島が声を上げると、一つ空けて二つ隣の席の中年オヤジがぎろっとこっちをにらんだ。特徴的な目だ。よれよれのシャツ、薄くなってきた髪の毛、ベルトで押さえても目立つ腹。遅い時間に一人でマックで夕食。写真週刊誌のグラビアをパラパラめくりつつポテトを食べる一方で、何やらスマホを取り出して、いじり始めた。ああいう中年にはなりたくないなと思った。
「なあ、光一。頼むよ。一緒に行こうぜ。声かけてみようぜ。おまえも彼女のこと知りたいだろ」
「また、その話か」
僕はため息をついたが、ふとミズキの言っていたことが頭に浮かんだ。ミズキと吉村さんが同じというわけではないが、大げさに言えば、僕という男がどう生きていけばいいのか、ヒントをもらった気がする。
「彼女、名前なんていうんだ?」
「名札は、吉村ってあるから『ヨシムラ』さんだと思う。でも、声かけるって、何聞くの?」
「なんでもいいじゃん。LINEやってる?とかどこ住み?とかカレシいるの?とか」
「いきなり直球だなぁ。いくらなんでもそこまで畳みかけたら引かれるよ」
「じゃあ、まずはきみかわいいねでも、制服似合ってるねでも、いいよ」
なんだか、乱暴なナンパみたいになってきた。僕はそうはしたくないから、
「まずは、いつもお疲れ様とか、軽く声をかける感じじゃないの」
「まあ、掴みはそんなんでもいいよ。あとは、うちインカレサークルだから、他大とかでもいいし、見に来ない?とか誘ってみるのもいいよな。勉強になるよ、とか」
「あの子、大学生かわからないよ。もしかすると高校生とか、社会人で働いているかも」
「まあ、そうだよな。そこから聞かないとか」
間島は背もたれによりかかって、上を向いた。
「でも、夜バイトしてるから、多分学生だろうな。よし!来週行こうぜ」
多分そう切り出してくるだろうなと思っていたら、案の定だ。ミズキと話して、ミズキに背中を押されて、僕の心は決まっていた。
「しょうがないな。でも、僕は間島が変なことしないか心配だから行くだけだから」
「お、ツンデレいただきましたー」
間島がおどける。
「でも、しつこくしないでくれよ。僕、あのファミレス行けなくなっちゃうと困るから」
「大丈夫大丈夫。あの店、店員少ないけど、光一が行くくらいの時間だと割と暇そうにしているときもあるよな。ちょっとくらい話長くてもいいだろ」
「嫌がっていたらやめるんだよ」
OK、と軽く言う間島に、僕は余計に心配になった。やっぱり僕がいなきゃダメだ。
「じゃあ、火曜日に光一のバイトが終わってから、落ち合おうぜ。塾のそばのコンビニにいるからさ」
間島は強引に決めた。わかったよ、と僕は半ばしぶしぶ了承する。でも、これが何かのきっかけになるかも知れない。間島には悪いけど、僕のほうが先に恋をしていたのだから。恋に順番がないのはもちろんわかっているけど、後から来た間島に吉村さんをかっさらわれるのはなんか癪だ。
帰り際、例の中年男がスマホを真っ黒の画面のまま何やらいじりながら、またぎろっとにらんできた気がした。単に三白眼だから、にらんでいるように見えたのかもしれない。おそらく、若い僕たちがうらやましいのだろう。あんな中年にはやっぱりなりたくないと思った。
○「もう一つの序章~吉村真奈美にはまだ不倫という自覚がなかった。」
痴漢なんて死ねばいいのに。
吉村真奈美は電車から降りるなり、強くそう思った。
平日の夕方、この時間は朝のラッシュほどではないが、割と混んでいる。大胆にも、そんな車内で後ろからスカートをたくしあげられ、太ももを触られた。あまりのことに硬直してしまい、駅で降りる際に後ろを振り向いてにらむことしかできなかった。それでも、私はよく頑張ったほうだと思う。三十代後半くらいの、おそらくマイホームパパなのだろう、一見普通のサラリーマン風の男が慌てて目をそらした。たぶんそいつだ。
でも、バイトに遅刻したくなかったし、今日の運勢は最悪だったから仕方ないかと思い直し、駅の駐輪場からバイト先に自転車をこぎだした。でも、こんな世の中間違っている。
怒りを自転車のペダルにぶつけて、立ちこぎでファミレスへ向かった。別に急いでいるわけではないけど、むかつく気持ちを少しでも抑え込むためだ。
その日に限って、信号のタイミングが合わず、毎回止められた。余計にいらいらして、なんなのよもう、とつぶやくと、隣の小学生がびっくりして、少し向こうによけたように感じた。
アルバイトの定時の30分前について、事務室兼休憩室におはようございまーす、と言いながら入り(誰もいなかった)、更衣室へ向かう。Sサイズの制服を探すと、クリーニング中なのか、一着しかなかった。しかも、スカートのホックがひん曲がっているのか、なかなかとまらないやつだった。前に店長に直してほしいって言ったのに、とため息をついて、仕方がないからそのままはいた。ほんと、最悪。
少し時間があったので、事務室兼休憩室に戻り、タイムカードを押すタイミングを待ちながら、ぼーっとシフト表を見ていた。店長が私のバイトの終了時間に合わせてることを確認して、ちょっと憂鬱な気持ちになった。また誘われるのだろう。またため息をついてしまった。
あいつ、わかりやすいんだよね。そんなことを思いながら、前回から半月ほど空いていたので、ほんのちょっとだけ期待もしている自分が少しだけ恥ずかしくなった。
定時になったので、タイムカードを打刻して、スマイルスマイルと魔法の言葉を二回唱えて出入り口脇の鏡の中の自分に微笑みかけてみてから店に出た。「いらっしゃいませー」。これから10時まで働き通しだ。頑張ろう。時給上げてくれたし。
バイトが終わって着替えてから、事務室兼休憩室に入ると、店長は読んでいた雑誌から目を上げた。絶対ちゃんと読んでないくせに、カッコつけなんだなあ、と思いながらも、
「お疲れ様です」と声をかけた。
「ああ、お疲れさん。今日もありがとうね」
店長は、そういうと、周囲に誰もいないことをもう一度確認してから、当たり前のように、私のお尻を触った。
「じゃあ、行こうか」
と席を立った。私はだまって後に続いた。
駐車場の軽自動車のエンジンが一回でかからず、店長が軽く舌打ちするのを聞き流す。エンジンがかかって街道に出て、まっすぐ進む道すがら、ラジオから流れるニュースに、聞くでもなく耳を傾けた。お中元のシーズンがどうのこうのとアナウンサーが丁寧に話しているのを聞いて、今日も日本は平和だったみたいだと思った。
店長と向かうのは、いつもインター近くのラブホテル。別に私はこの男のことを好きなわけでも何でもないけど、シフトのわがままを聞いてくれるし、時給も上げてくれたし、ときどきお小遣いもくれるから、まあいっか、と思っている。でも、目つきはちょっと好きになれない。なんだか睨まれているように感じるから。だから、肌を重ねるときは電気を消してもらう。なるべくその目を見ないように。
目立たない入口からホテルの駐車場に入り、車から降りる。何も言わずに店長が先におり、私はついていった。古いホテルで、ラブホテルというより連れ込み宿とでも言った方がしっくりくる。まあ、どう呼ぼうがすることは同じだけど。
部屋のカギを店長が受け取り、部屋に入るやいなや、キスをしてきた。なんだかもうどうでもいいや、と思う瞬間だ。
「店長、今日あぶないから、ゴムはつけてくださいね」
そうささやくと、わかってるよ、と鼻息を荒くする。私は先にシャワーを浴びに風呂場へ向かった。今日も長い夜になりそうだ。
ことが終わってから、ふーっと店長が煙草を吸いながら、聞いてきた。
「最近、よく客の男と話してるな。火曜日の夜に来る、やせっぽっちのガキ」
よく見てるなあと思うとともに、少し気持ち悪かった。私が誰と話そうが勝手なのに、男は束縛したがる。私を所有物扱いしているんだろうなあと思った。
「そうですか?普通くらいだと思いますけど」
特に、彼、光一くんと言ったか、彼とだけ特別親しく話しているわけではないと思うし、他の常連さんと冗談言い合ったりもしているから気にしていなかったが、店長は気にしているらしい。
「あのガキ、よく真奈美のこと見てるよ。特に、脚とか」
太ももをさすりながら、忌々しそうにそう言った。
「店長の息子さんも、同い年くらいですよね」
そう言いながら、店長のムスコをつんつんとつつくと、店長は嬉しそうにヒヒヒと笑う。ゲスな男だ、と思ったが、そんなに嫌でもない。
「うちの息子は半分引きこもりだよ。女房がいくら言っても・・・ああ、女房の話はご法度だったな」
勝手にそう解釈し、話をやめた。私にとってはすごくどうでもいいことだし、何も気にするようなこともないのだけど。
「あんまりまとわりつくようだったら、警察呼ぶよ。店員守るのは俺の仕事だし」
警察、ね。自分で守るつもりはないらしい。でも、いきなり警察呼ぶとか、大げさな人だなと思った。この前も、酔っ払い同士が怒鳴り合いを始めたときにもそういえば真っ先に警官を呼んでいた。所轄の署長が同級生だかなんだかで軽い調子で依頼するらしく、警備会社か何かと思っている節がある。この人なら呼びかねないなと思いながらも、機嫌を損ねるのも嫌なので、
「お任せします」
とだけ言った。
○「ファミレスに入ろうとした。ただそれだけだった。」
塾講師のアルバイトが終わり、片づけをしてから僕は塾の事務室を後にした。近くのコンビニにいる、と間島からLINEが来ていたから、そのコンビニに向かった。間島はテンションがマックスのようで、「俺、今日あの子落とすまで帰らないぜ!」(気合いの入っているスタンプとともに)と送ってきた。僕は「了解。でもほどほどにね」と返した。まあ、いくら間島でもほとんど初対面の相手にそんな迫り方をするわけはないかと思ったが、それくらいがんばって気に入っている女の子を口説こうとするのはすごい、僕も見習わなきゃ。
コンビニにつくと、間島はマンガ雑誌を読んでいた。おまたせというと、おう、と返事をし、すぐ向かうことにした。
自転車で並走しながら、ファミレスへ向かう。割と離れているので15分ほどかかるが、いまの僕たちにとってはどうってことのない距離だ。むしろ、障害があるほうが盛り上がる。吉村さん、僕が間島の毒牙から守ってあげるからね、と、妄想が浮かぶのを慌てて消し去り、間島に話しかけた。間島は、ボタンダウンの半そでシャツにインナーもビームスに揃え、気合を感じさせた。僕は、塾講師のバイト帰りなので、一応白い襟付きのシャツに、黒っぽいチノパンといういで立ちだった。ちょっと気後れした。
「今日は気合入ってるね」
「あったりめーよ。女の子は最初が肝心なんだよ。ほら、人は第一印象が十割とか言うだろ」
なんだか、1割ほど割り増ししているようだが、まあそれくらい気持ちを込めて今日に臨んだのだと思うことにした。
ほどなくして、ファミレスの近くまでたどり着いた。街道沿いの駐輪スペースに二人で自転車をとめて、入口へ向かう。入口の向こう側に30代くらいのガタイのいい男が二人、なにやら話していた。こっちを一瞬ちらっと見たように感じた。僕たちのほうが入口に近かったから、そのまま先にお店に入ろうとして、僕は扉の取っ手をつかんで引き、入り口に一歩入った。入口向こうの店員は、吉村さんや高校球児のような男の店員でもなく、どこかで見たような目つきの悪い中年男だった。
いらっしゃいませ、と言われるかと思ったら、その前に後ろからとんとんと肩をたたかれた。
振り向くと、さっきの30代くらいのガタイのいい二人連れの一人だった。
「こんばんは。ちょっとよろしいですか」
何事かと思い間島を見ると、間島ももう一人の男に声をかけられているところだった。
もしかして、先に予約していた人かなと思い、
「あ、すみません、先どうぞ」
と言うと、いや、そうじゃなくて、と男は手帳を取り出し、僕らに見せた。
「警視庁北多摩署の者ですけど、ちょっとお話させてもらってもいいですか」
と言われた。
僕は何が何だかわからなかった。そういえば、この辺で最近ひったくりがあるから、そのことかなと思ったり、間島の風体が怪しいから職務質問かなと思ったりした。僕らは何も悪いことをしていない一般人なのだから。
入口のそばだと目立つので、とちょっと離れた街路灯のところへ促された。ちらっと見ると、間島もわけがわからないというように、ついてきていた。一人だと不安だが、まあ二人ならそうでもないかと思った。
「それで、なんでしょうか」
僕がちょっと上ずった声を出すと、背の高いほうの男が
「君たち、何か思い当たることはないかな」
警戒心を解くためか、ちょっと砕けた感じでそう聞いてきた。僕はまったく思い当たらなかった。ふと、自転車が無灯火だったかなと思ったが、つい最近修理したばかりだったし、それではないと思った。信号無視をしたわけでもないし、他に思い当たることは何もなかった。それは間島も同じだ。間島も、ちゃらいようだけど、何かしでかすほどの度胸もない男だ。
「いや、何もないですけど」
「そうか。じゃあ、詳しく話を聞きたいから、ちょっと署まで来てもらおうか」
小太りの方の男がつっけんどんにそう言った。すーっと、いつの間にかパトカーが2台近づいてきた。赤色灯をつけていないと、割と目立たないのだなと場違いにも感じた。
「なんでですか。僕たちこれからこのファミレスにちょっと用があるんですけど」
「それだよ」
小太りの男は不機嫌そうに、
「君たち、ファミレスの業務を妨害、まあつまり、仕事を妨害しようとしていただろう。通報があったんだ」
え?なんのこと?さっぱりわからなかった。
「組織的業務妨害の準備罪の容疑で、君たちに事情を聞かせてもらいたい。君たちは、組織犯罪処罰法違反の容疑がかかっているんだ」
僕は、あまりのことに真っ白になってしまった。ソシキハンザイショバツホウイハン?間島も同じみたいだ。いつの間にか、何人かが取り囲んでいた。
手錠こそはめられなかったものの、僕たちは割と強引にパトカーにそれぞれ乗せられた。後で弁護士さんから聞いたことだけど、これは「任意同行」といって、あくまで僕らの自発的な意思で来たことになる、そうだ。あの有無を言わせない感じが僕らの“任意”だと言われても、とてもそう思えなかった。
パトカーが出る際、ファミレスの中でも何事かあったことに気づいたらしく、少なくない客がなんだなんだというように、こっちを見ていた。吉村さんも、目つきの悪い中年男もいた。吉村さんは心配そうに、中年男はなぜかに少し嬉しそうだった。直観的に、あの中年の店員が関わっているように思ったが、それ以上はよくわからないまま、パトカーは出発した。
○「そして、今日、僕は罪人になった。悪いことをしてないのに」
警察署につくと、「取調室1」というところに連れていかれた。もう十時半を過ぎていた。間島がどこへ連れていかれたのかはわからない。自分のことで手一杯だった。
さっきの小太りの方の男が僕の前にどかっと座った。山田と名乗った。学生証を出すように言われ(これも「任意」だ)、名前、年齢、住所、出身地、大学学部学年を聞かれ、嘘をつく理由もないので答えた。そして、いよいよ容疑とやらについて、聞いてきた。数枚の書類を見ながら、
「もう一度言うが。きみらの容疑は、組織的犯罪処罰法違反。まあ、テロ行為ではないだろうけど、マスコミが『テロ等準備罪』とか言っていたやつだ」
テロ?もう、話が飛び過ぎていて、わけがわからない。僕たちはいったい何をやってしまったのだろう。何もしてません、というと、山田刑事は続けた。
「まだ何もしていなかった。それは確認している。だから、既遂でも未遂でもない。あのファミリーレストランへ一歩入ったということが準備行為だ。だから、準備罪。女性店員を他の仕事ができないように業務を妨害しようとして、脅迫まがいに個人情報を聞き出そうとしていただろう。その容疑だ」
「悪いことをやったわけじゃないんだったら、未遂でもないですよね。じゃあ、犯罪じゃないんじゃないですか」
僕は知ってる知識を振り絞って、つっかえつっかえそう言い返した。
「そんなのは昔の話だ。犯罪の心配が強くなったから、今は、悪いことを“考えている”ヤツを捕まえることになっているんだ。大学生のくせにそんなことも知らないのか」
山田氏はあきれた様子で、それまで見ていた僕の学生証をぽんと机に置いた。
でも、やっぱりそんなのおかしい。悪いことをする前の、まだしていないときに捕まえるなんて。それも、人殺しとかテロとか、ひどいことをするならともかく、ウエイトレスと楽しくおしゃべりして、これからの仲良くなるきっかけづくりをしようと思っただけなのに。
僕は、憮然とした表情のまま床を見つめた。殺風景な部屋だ。入口を入って真正面に机、奥と手前に向き合うようにパイプ椅子が二つ置いてあり、部屋の入口すぐ横の小さな机に若い男性署員らしき人がノート型パソコンにぱちぱち何か入力している。部屋の奥側、割と高いところに横長の窓があり、しっかり格子がはめられていた。一応、任意ということでドアはすぐ開けられるようだが、がたいのいい山田刑事を押しのけて出ていくことができるとはとても思えない。
「じゃあ、認めないんだな」
「はい、悪いことしたとは思っていませんから」
父親譲りの正義感が出てしまったか、妙にはっきりと言い切ってしまった。それがさらに山田刑事の印象を悪くしたらしく、
「わかった。じゃあ、任意の取り調べはここまでだ」
そう言いながら、すくっと立ち上がり、僕の方に来た。とっさに身構えて両手を上げたところ、右手に手錠がはめられた。
「逮捕。午後10時55分」
そう言いながら、時計を見せられた。入り口横の若い男がぱちぱち何か入力していた。人生初めて逮捕された瞬間だった。またも頭が真っ白になった。
その日はもう遅いので、通り一遍の大まかなことを聞かれただけだった。逮捕されたのだから、当然家に帰ることは許されない。それどころか、家族や友人を含め、連絡を取ることすら認められなかった。明日のゼミはどうしよう、アルバイト先にも、実家にも連絡しないと、そんなことが頭をぐるぐる回った。
「弁護士のツテはあるか。なければ当番弁護士呼ぶか?」
その説明すら割と丁寧なほうだと、後で聞かされた。そのときはいっぱいいっぱいだったが、藁にも縋る思いで、お願いします、とだけ言った。
留置場に入れられ、ほとんど一睡もできないまま、次の日の朝、朝食後(のどを通らなかった)に当番弁護士がやってきた。
「弁護士の安田と言います」
接見室のアクリル板越しに名刺を示された。30前くらいの、ちょっと頼りなさそうな弁護士だ。話している間、度がきつくてピントでもあってないのかわからないが、何度も眼鏡を触っていた。
話している中で、僕の容疑が組織犯罪処罰法違反、組織的業務妨害の準備罪だということを再確認された。間島はどうしているかと聞いたが、知らないとのことだった。大した証拠もないだろうに、なぜこんなことで逮捕までするのだろう、と訝しがっていた。
後でわかることだが、マックの二つ隣の席にいたのは例の店長であり、スマートホンの録音機能で僕たちの会話を録音していたそうだ。ファミレスの名前が入っていたこと、吉村さんという名前も言っていたこと、そして畳みかけるようにいろいろと話しかける内容を相談していたこと、それらに加えて、LINEで間島とやりとりした
間島「俺、今日あの子落とすまで帰らないぜ!」
僕「了解。でもほどほどにね」
という内容も、業務妨害の意思を示すものとされることとなった。
ただ、その時はそこまでわからず、安田弁護士も楽観的に、
「まあ、ちょっかいだしてくるお客さんに対して、店長が従業員にいい顔するために警察を呼んでおおごとにしようとしたんでしょうね。一日か二日いろいろ聞かれて、厳重注意された上で釈放されるんじゃないかと思います」
と言った。僕はその言葉に救われた。マックでの録音やLINEのやりとりが証拠として押さえられることも知らずに。
その日の弁護士との話はそれくらいで終わった。当番弁護士は一回だけですが、これからどうしますか、と言われ、とりあえずお願いします、と、両親への連絡だけお願いすることができた。ようやく光が見えたと思った。その時は。
弁護士の面会の後、昨日と同じ田中刑事から時系列立てて「犯行」の様子を事細かに聞かれた。事実について僕は隠す必要はないと思ったので(これも甘かったが)、包み隠さず言ったが、容疑については強く否認した。安田弁護士の話を思い出しながら、たいした証拠もないのだから、否認し続ければ、どうせ口頭厳重注意くらいで終わるだろう、と高をくくっていた。でも少しずつおかしいと思い始めてきた。どうも、こっちが話すことよりときどき詳しく知っているような様子があった。特に、マックで話した内容についてはまるで誘導尋問みたいだった。
「サークルは何のサークルだ?どういう勉強をしているんだ?」
勉強会サークルと言ってもいないのに、珍しく刑事が口を滑らせた。自覚をしていないようだが、僕はどきっとした。でも、そのことを指摘はしなかった。
「経済学研究会です。経済学とか経営についてとか、働いている先輩から話を聞いたり本を読んだりしてみんなで議論したりしています」
これも、悪印象を与えたようだった。経済学なんて勉強したことのない刑事たちにとっては、経済学の研究=共産党の学生団体とでも思っていたようだ。特に、これも裁判の途中にわかることだが、親父の仕事の関係もあり、ますます印象が悪くなったようだ。マックでその研究会に吉村さんを誘うとも言っていたので、そうなると、警察としては放置しておけないとでも思ったのかもしれない。戦前でもないのに。
いっそもう少し突っ込んでくれれば、僕たちがやっていることがマクロ経済学・ミクロ経済学の授業に沿ったようなものだったり、単に社会人の先輩たちの会社の様子を飲みながら聞いて就職活動に活かしていることだったりすることがわかったはずなのに、刑事の思い込みのせいかそれ以上は触れられなかった。
次の日も取り調べがあった。その日は別の刑事に変わっており、また同じようなことから話を始めさせられた。なぜ彼女に目を付けたのか聞かれたとき、隠すと印象をさらに悪くするのではないかと思った僕は、正直に「脚がきれいだったからです」と言った。
すると、
「なんだ。業務妨害だけでなく、彼女に手を出すことまで考えていたか!エロガキめ」
といきなり激高しだした。単に友だちから始めたいと思ったとでも言えばよかったのだろうか。一言一言が取り返しのつかないような思いで、頭がぐるぐる回り始めた。
その時の様子を、安田弁護士が来てくれたとき(接見というようだ)に話したところ、まあ、性犯罪云々は単なる脅しなんでしょうね、と言って慰めてくれた。この日も同じ黒縁の眼鏡をかけており、僕の話を聞いている途中に何度か触っていた。
その次の日、釈放されるどころか、僕は検察庁に送られることとなった。そうなると、3日間の留置場生活に加えて、最大20日間も拘留される可能性がある。僕は絶望的な気持ちになった。20日間も外に出られなかったら学期末試験も受けられず、留年の危機だ。なんでこんなことになってしまったのだ。
検察庁での検事の取り調べのとき、両親が見舞いに来てくれた。警察官が立ち会っているから、あまり突っ込んだ話はできなかった。その際、間島がすぐに釈放されていたことを知った。洗いざらい言います、俺が悪かったです、と全面的に認めたからだそうだ。実家住まいで、あいつの親が国家公務員だということが効いたのかもしれない。
僕はそれでも否認したまま、さらに十日余りが経った時、二人目の検事が、貧乏ゆすりをしながら、
「お前の言いたいことはわかった」
と言いながら、どうやらわかってはいないらしく、横の書記官に向かって、「起訴!」と短く言った。
何を言われたかすぐにはわからなかったが、要するにこれから裁判になるということだ。安田弁護士の見立てがことごとく外れた。いい人なのに、こうした読みが甘い弁護士というのはどうなのだろうか。
どうやら、このときくらいに証拠がそろったそうだ。特に、LINEのやりとりは決定的だったようだ。
その後に安田弁護士と会ったとき、こんなことを言われた。
「私の見立てがうまくいかず、申し訳ないです。ただ、今回の件は私たち弁護士も腑に落ちません。おそらく、きみたち二人が彼女に話しかけたとしても、二言三言で終わるでしょうし、その程度の会話が業務妨害と捉えられることはまずありません。難しい言葉では、「可罰的違法性がない」ということになります。友人の消しゴムをちょっと借りて使った場合とか、そんな軽いことでは罰されない、と教科書では例に出されます」
間島はともかく、僕はその程度の会話で済ますつもりだった。むしろ、間島がしつこく話そうとしたら、間に入ってとめようと思っていたくらいだ。
「だから、変な話ですが、既遂になっていれば、要するにすでに話しかけていれば、こんなことにはまずなり得ないんです」
それっておかしくないですか、と僕が聞くと、
「残念ながら、法律がそうなっているんです。組織犯罪処罰法が、僕らは『共謀罪』と言っていましたが、改正されてから、そういう逆転現象が起きてしまっているんです」
凶暴罪?
「僕ら、そんなに凶暴でしたか?」
「あ、字が違います。『共』に『謀る』と書いて、共謀罪」
空中になんとなく字を書く仕草をした。
「犯罪をする場合、その前に共謀をするにしても、割と大きなことを言ったりするんですよね。できっこないのに、『あの銀行の金、金庫ごと持っていこうぜ!』とか。なのに、窓口からちょっと出てきたお金だけ奪って逃げるとか。まあ、例が適切じゃないかもしれませんが」
安田弁護士はまた眼鏡を触りながら続けた。
「お金の場合は少額でも強盗になるんでしょうけど、たとえばスリがポケットからすり取ったものがチリ紙だった場合は罰せられてないんです。でも、今の法律の場合は、『それでも事前に共同でスリをしようと決めたときには、チリ紙ではなくお金をすり取るつもりだった』として、既遂が罰せられないのに、窃盗の準備罪で捕まる、なんてことがありえてしまうんです。さすがにそんな事例はまだないですが」
「でも、僕らの場合、まさにそれじゃないですか」
「いや、違うんです。きみたちの場合、まだ『既遂』になってない。だから、既遂の内容が軽くて処罰できないから、未遂よりもさらに前の段階、準備の段階で捕まえる、ということになってしまうんです」
つまり、いっそ悪いことをしてしまえばよかったのに、なまじっかそこまで至っていなかったから捕まるということのようだ。いつの間にそんな社会になってしまったのだろうか。
○「終章」
そうして僕は起訴された。こんな法律のもとで裁かれては、僕は罪人になるしかない。裁判の途中で保釈されてからも、大学は留年するし、サークル仲間や元の友人たちとも気まずくなるし、散々だった。いっそ退学して実家に帰ろうかとも思ったが、まだそこまで負けたくなかった。まずはともかく、この裁判をやり抜くしかない。こんなバカバカしい、犯罪とも言えないようなもので裁かれることはいまだに納得がいかない。
僕は罪人になった。犯罪をしていないのに、だ。最後まで意味がわからない。僕は悪くない。僕は悪くない。僕は悪くないのに。
何が悪かったのだろうか。ファミレスに行ったこと?一目ぼれしたこと?足しげく通ったこと?ミズキの話を変に解釈したこと?間島に嫉妬したこと?マックで周りの目を気にもせずに話していたこと?吉村さんを守ろうなんて、騎士気取りでいたこと?LINEのやりとり?それとも、つかまってから犯罪を認めなかったこと?
その一つ一つが罰せられるほど悪いこととはいまだに思えない。このことが僕をさらに苦しめる。じゃあ、いったいこれからは何に気を付ければいいのだろう。何を気にして生きていけばいいのだろう。何に注意すればつかまらずに済むのだろう。「悪いことを考えた」と言われても、女の子に声をかけようとすることがそんなに悪いことなのだろうか。じゃあ、どうやって出会えばいいのだろうか。別に連れ出してひどいことをしてやろうと思っていたわけでも何でもないのに、それでも悪いことなのだといわれてしまうと、もう何がなんだからわからなくなる。
僕はまた牢屋に入れられるのだろうか。安田弁護士はいい人だが、この辺の見立てはまったく当てにならない。初犯だから大丈夫だと思います、と言われると、逆に心配になる。このまま何年も牢屋に入れられたら、就職なんておぼつかなくなるだろう。僕の人生はめちゃくちゃになりかねない。
悪いのは僕じゃない。社会だ。世の中だ。そう思うようにした。そして、その時代に生まれてしまったことなのだ。だから、僕は悪くない。でも、徹底的に戦うといいのだろうか。間島のようにほどほどで認めて、ほどほどに罰されて、でも特にペナルティもなく放免されることも考えた方がよかったのだろうか。それが社会で折り合いをつけるということなのだろうか。
吉村さんは無事だろうか。気に病んだりしていないだろうか。ファミレスは続けているのだろうか。あの、気持ち悪い目つきをした中年の店員にひどいことをされていないだろうか。それとも、野球部上がりのような元気のいい店員とつきあったりしていないだろうか。そもそもあの時パトカーに連れていかれたのが僕だと認識していただろうか。
そんなことを考えながら、判決の日の朝、僕は安田弁護士と両親とともに裁判所にたどり着いた。入口の守衛の前あたりで立ち止まり、深呼吸をしてから中に入った。裁判官はわかってくれるはずだ。検事のちょっとした不手際をいちいち指摘したりしていた。僕の味方のはずだ。そう固く信じて、守衛のわきを通り、中に入った。
(完)




